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テレビのコミュニケーションの手練れと大阪の身体論。

  • 2008-01-29 (火)

橋下徹氏が大阪知事選に圧勝した。

その知らせは、内田先生宅で08年甲南麻雀連盟打ち始めを夜遅くまでしていたときに、京都・錦のバッキー井上からのメールで知った。コミュニケーションの手練れである彼のメールは鋭い。

「大阪なくなるんちゃうか。」という読点を含めて12文字のメールだった。

明くる日になって、毎日新聞が夕刊でそのあたりのことを「読ん得」という全6段の記事で書いていた。

見出しは「テレビの続き? 本気でどこまで」というもので、非常に新聞らしからぬ面白い記事である。ます、街頭演説の締めから。

「偉そうに言ってますが、1カ月前までジーパン、茶髪にサングラス、そのへんをぶらぶら歩いてたような男です。皆さんの気持ちと一緒なんです!」

で、どうする、はすっぽり抜けたまま、続いて歩いた下町商店街では、さらにタレントの顔が全開だった。テレビのクルーが追っかけているせいで、まるでバラエティー番組のロケ状態。「あっ、橋下弁護士や」「へぇー、テレビより男前やん」。ケータイのカメラでのツーショットをねだれば、労をいとわない。おどけポーズだってへっちゃら。おばちゃん、おっちゃん、坊ちゃん、お嬢ちゃんまで飛び出してきた。人気者である。

移動の車中でインタビューした。突然ですが、あなたのふるさとは大阪? それともテレビ? 「うーん、どっちもかな」。正直である。あの2500万円申告漏れ報道(06年5月)のあと、事務所の先輩である爆笑問題の太田光さんがあなたの対談の中で語っていました。 <テレビの場合は、何をいってるかななんて、本当は誰も聞いちゃいないんです。だけど、真剣に何かを話してるってイメージだけはちゃんと伝わる>(橋下徹著「まっとう勝負!」(小学館)。あれこれ釈明するより「脱税弁護士の橋下徹です」が有効とのテレビ論、橋下流の演説に通じますね。「ええ、テレビは中身じゃないんです。僕の演説も政策の中身は話していない。玄人の9割ぐらいに反対されているんですけど。だって、寒空の下でマスを相手にしゃべるとき、そりゃ、伝わらないですよ。自らの突き進んでいる姿、それだけを伝えようと思って。メディアに身を置かせてもらって学びました。脳ミソに働きかけるのと心情に働きかけるのとの違いをね」

あなたのふるさとは大阪かテレビか、という質問は、なかなか街的に洒落ていてナイスな質問である。

テレビのコミュニケーションについては月刊バジリコバジリコの「大阪からワシも考える」でも書いたところだ。

その要諦は「場」の「空気を読み」その上で話を転がせていくことがすべてで、テレビに出演するということは、そういう「場」を「演出」あるいは「支配」することがスキルとしてないと不適合ということになる。

わたしはエルマガジン社を辞めて編集集団140Bをつくってから、テレビに関してはだんじり祭と大阪の街についての番組に出たりするだけでそれ以外はお断りしていたが、『街的ということ』(講談社現代新書)を書いたことがきっかけで、とある報道番組のコメンテーターで出るようになった。その番組では橋下さんとは「行列弁護士仲間」である住田裕子さんとご一緒だった。

結局コメンテーターは半年とすこしで辞めることになったが、それは幼児殺人や環境問題のことも阪神タイガースのことでも、テレビという同じ場で、おなじように短い時間でバチっと「これこれこういうことなんです」ということがしんどくなったからである。

もちろん「これこれこういうことなんです」ということは、橋下さんの言うとおりコメントの「中身」ではない。テレビという「何をいってるかななんて、本当は誰も聞いちゃいない」コミュニケーションの場に、「真剣に何かを話してるってイメージだけはちゃんと伝」える、ことがうっとうしくなったからだ。

それはテレビでテレビに出ることがなぜうっとうしいかを「それでは、江さん。一言」と訊かれて、「街的」ではないからです、と答えることができないからでもある。 

わたしは内田樹先生をして

私は死ぬほどおしゃべりな人間であり、ほとんど相手に口をはさむ隙を与えない話術をして世渡りの道としているのだが、その私が「口をはさむ隙が見出せない」人がこの世に何人かいる。
小林先生とナバエちゃんとマスダくんと竹信くんと江さんである。いちどこの五人を一堂に集めてデスマッチをやってみたい。
単位時間内の発語音声数では小林先生とナバちゃんが譲らぬ勝負。迫力では圧倒的に江さん。ワンセンテンスの長さでは間違いなく増田くん。全員が過労で倒れたあともまだ「牛が涎を繰るように」終わりなくしゃべり続けているのは竹信くんであろう。(内田樹の研究室:02年1月25日)

という男であるが、それは「街場」のコミュニケーションでの話であって、酒場や服屋といった店、はたまた編集会議や麻雀の場や岸和田の寄り合いでのだんじり話がその「場」であった。

橋下徹氏は弁護士でありまた「職業タレント」である。だからコミュニケーションにおいては「テレビの場」の人であり「街場」の人ではない。

結局そこのところに、毎日新聞の記者も熊谷貞俊さんもわたしも違和感を持つ(はっきりいうとイラついている)のであるが、わたしは橋下さんがこれまで(職業タレント人の仕事として)テレビに出演して何かをコメントしていることの「中身」を問わないのは、当の橋下さんもインタビューでそう言ってるからである。

また、そういう「メディアに身を置かせてもらって学」んだあれやこれやを知事選に勝つための手段にする、というのは「常套手段」だから驚きはしないというか「別にどうでもええ」と思う。しかしその先にある目的については、街場ではコメントしないというのは、あまりにもしんどいのではないか。

それは経済とか産業の具体的な政策についてしっかり説明できない、ということでは決してなく、「こんなえげつない大阪府の財政赤字をどうしたらなんてわかりまへんわ」ということをはっきり街場でいうよりもタチが悪い。

そういう橋下氏に関して、この毎日新聞はさらに

そもそも、いったい、どうして橋下さんは政治家を志したのか? 3億円近い年収を投げ出して。ほんの短いインタビューで本心はつかめなかった。そうたやすく見せはしない。こんなふうにも書いている。<政治家を志すちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ> (「まっとう勝負!」)。

と書くが、まるでヒットラーみたいでもう十分である。

それより今いちばん思うことは、80年代からのセゾン的な「広告としての都市」に対して、それを商売にする側も批判する側も、その言説(語り口をも)が「記号論」と「消費社会論」に収斂され、それが80年代~の目を覆いたくなるまちづくりのシステムを支えてきた 。

同様に、「大阪としての都市」が、政治側からもそれを批判する側からも「メディア・テレビ論」「コミュニケーション論」によってのみ語られ、それが2000年代の街、とりわけ大阪という街の言説をがんじがらめにし、まちづくりとしての都市政策を下支えするなら、もうそこには外部=出口はないと思う。

それゆえ街場で語られる、大阪の街の「身体論」が最重要課題になってくる。街場のわれわれの根性と冴えの見せ所でもある。

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