- 2009-04-23 (木)
- 江
週刊文春の『ミシュランさん、一見さんお断りどす』が出て、それこそ電話とメールの嵐である。
いろんなご意見も頂いた。
桃知利男はこのHP「浅草・桃知利男 岸和田・江 弘毅の「浅草←→岸和田からワシらも考える」 でいち早く「痺れる」テキストを送ってくれたし、「ミーツ」創刊から関わってもらい(創刊号のトップを書いている)、わたしたちの編集集団140B創立(株主として出資してくれた)と、一緒にやってきた西成のライター・堀埜浩二くんの問題提示は深いものがある。
大阪の街場の大先輩である的場光旦さんは
文,コンステレーション良好
1岡崎 つるや の話も聴きたかった。
2「流れ星」 がよう落ちてる。
3ミシュランがガイド本ではなくやっぱり外土本やいうことがわかった。
4洋・中国飯やはやっぱり掲載うれしいねんやろな,と思う。
5名前や星で飯 喰うこと自体 思考停止や。
5かつえた 少年にとっては 意味を為さない。
〆 ワシャ 買わん〓
で、大笑いだっ。
バッキー井上のメールは以下である。
今日、橙のおやっさんが気になってさっき行ってきた。文春のことぶつぶつ他のお客さんにいいながらうれしそうにしてはったど。おかみさんも笑顔やった。ほんまに街はおもしろいな。
堀埜浩二くんの疑問は以下だ。
1)あくまで「京都の老舗とミシュランとの対立」についての話になっているので、
「ああ、文春的にはこんな記事になるんやろなあ」というのが第一印象でした。
ここまでの江さんや内田先生のブログとかを読んでいただけに、
「江節、炸裂!」とはいかなかったのが、ちょい寂しくはありますね。
東の編集者の意向が全面的に反映された結果であろうかとは思いますが。
2)「京都の老舗」と「ミシュラン」との対立になった場合、個人的には、
「勝手に騒いで、結果としてミシュランガイドのPRになる」という、
先方の思うツボのパターンやなあ、という印象です。
記者発表をわざわざする段階で、マーケができているんですな。
3)「一見さんお断り」とかの話になった時点で、問題の本質はかなり遠くに行ってますよね。
むしろ「一見さんお断りとかではまったくない、そのへんの旨いお好み屋や焼肉や寿司やてっちりが、どんな風に扱われるか」に
興味がありましたが、ミシュラン的には無視なんですかね?
かといって『吉野』とかに星が三つついてたら、
それはそれで話がややこしいのですが(^_^)
2については「結果としてミシュランのPRになる」ということだが、それでも「言わなあかんときは、きっちり言わなあかん」という上方人伝統のところから、わたしは書いたのである。また「一見さんお断りとかではまったくない、そのへんの旨いお好み屋や焼肉や寿司やてっちりが、どんな風に扱われるか」は「大阪編」でほぼ15枚を書いたのだが、全ボツになってしまった(泣)。
「一見お断り」のほんまのところは、少し前に『小説新潮臨時増刊ー新入社員諸君、これが礼儀作法だ』 に書いている。確か文庫化されたはずだが、東京ばかりの書き手のなか(椎名誠さんは「喧嘩」だったと思う)、3人の上方人が書いている。担当編集者は楠瀬啓之さんだった(楠瀬さんお元気ですか? 昨日売りの週刊新潮に『街場の大阪論』書評載せていただきました。感謝)。
わたしが「京都」、バッキー井上が「街」、杉本彩が「セックス」だった。杉本彩はわかる。が、なぜか京都の錦市場の漬物屋の井上が「街」で、「街的」「街場」という語をつくった岸和田のわたしが「京都」だった。
その京都の「一見お断り」について書いた原稿をここに収録する(校正前なので、収録分は数語ほんの少し変わっているが、削られていない(笑)) 。
「ぶぶ漬け」神話に代表される京都伝説は、そのほとんどが「イケズ」として捉えることができるが、京都の妖怪たちが「どんな時にイケズをするのか」という問いと、「イケズをされなくてすむ礼儀作法」という答えが、あらかじめセットになっていないから奥が深い。だからこそその実、遊んでいて面白いのだが。
京都の店は「一見お断り」ではない。「一見では入らないもの」なのである。
考えてみれば、料理屋や割烹や鮨屋、さらにはクラブやラウンジといった類の店は、京都であろうとなかろうと「一見ではまず行かない」のであるからそれと同じなのであるが、どうも「店には、始めは、誰かに連れて行ってもらう」といった、店遊びの常套句を忘れてしまったことに、京都の店に対してのあれやこれやが起因しているのだと思う。
その意味で、グルメ情報片手に、あれこれ食べ歩ける東京や大阪のフレンチやイタリアンの店は、子どものおもちゃ的に消費できるので、決定的につまらない。底が知れているということだ。
京都の店には、いつもバッキー井上という錦市場の漬物屋の主人に連れて行ってもらう。
彼はわたしが編集長をしている京阪神の街雑誌のライターもしているから、いい店を知っている。というのは逆で、とびきりの店を知っているから書いてもらっているのだし、それが目的で京都に遊びに行っているという役得もある。
わたしは大阪の岸和田という旧い城下町に生まれ育ち、だんじり祭の若頭をしたりしていることからか、「お茶屋遊び」というものに、ややこしいとは思いはすれ、あこがれたことがない。けれどもどういうわけかお茶屋にはよく行っている。
それが先斗町にある「あだち」だ。初めて行った日がいつであったのかは記憶しないが、その男の行きつけの店であった。いつもそうだが、井上は人を店に引っ張っていく時に「次に行く店はどんな店だ」とは言わない。「あだち、行くぞ」、ひどい時はその酒場の直前でやっと「入ろけぇ」である。
その店はアタマに「大人の~」とかがつく情報誌的に書いてしまうと「会席(懐石?)風にあれこれ順番に食べている女性客、大将と世間話をしながら小料理屋的に酒主体の人など、客側が好きな思いで遊んでいる、お茶屋の特別な一角」ということになるのだが、だからといってどうだと考えるのがどうだ、だし「今、先斗町のお茶屋では…」と思っている間は、京都ははるかに遠い。
店に行くため、店で遊ぶため。そのために情報を纏う、ということはきっとどこかに「何もかも極めてやろう」とか「正体を見てやろう」「会得してやろう」などといったさもしい根性があって、ほとんどレイプまがいの行為で店を消費するのが常で、そのために店側には、所謂「イケズ」や「一見お断り」がアリだと考えているのだが、実際は上手に姦られたフリをしてくれるところに京都の水商売の一面がある、と思う。
このお茶屋のカウンターで遊ばしてもらって10年になるが、実際にはどんな店でそのシステムはどうなのか、といったことは何ひとつ知らない。
よしんば大将に訊いても「江さん井上さんとかがお茶屋遊び、しはらへん時代やし…」であろうし、そういうことを知ったりすることが、正味のところあまり楽しくも何でもない、ということにだんだん気づいてきたから、今後も「問う」ということはないだろうし、「お茶屋遊び」には縁がないと思う。
言いかえると京都の店のある種の「厳しさ、怖さ」という類のものが、この「あだち」という店に感じたことがない、という何万分の一かの幸運があっただけだ。
京都の店は、それが「割烹であり、小料理屋ではない」とピンで止められた標本のように、カテゴライズされたりすることを極端に嫌う。なぜなら「どんなことをして遊べて、それはいくらなのか」がメニューになってしまい、「それだけの店」というものは必ず消費されるからだ。だいたい京都の旧い花街は、客というものは必ずよそへ行く、というその種のリアリティを知ってしまっている。
だからこそ、揚げた舞妓の一家全員を旦那がパトロネージュする、といった遊びがリアルに語られているのだと思う。酸でじわりと腐食させられるような、そんなえげつなさを地元や隣の街の大阪などでは「ケツの毛まで抜かれる」と表現するのだが、そういう階段を踏み外すように落ちていく闇の深さが、男の欲望を引きつけてやまないのかも知れない。
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Comments:1
- N 2009-06-18 (木) 16:42
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日経トレンディでの記事を読みました。正反対のようですが、真実はどうなのでしょうか?
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