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だし巻きノレンもあと2日。

京都は中京区、富小路三条上ル西側の[ギャラリーH2O]にて、明日の30(日)まで『せやし だし巻 京そだち』の原画展が開かれている。

このハンジリョオ描き下ろしのカットから始まる原画展。小ぢんまりした会場はいかにも京都らしい街なかの路地を入ったギャラリーである。いや、ギャラリーというよりも「いつもお世話になっている京都の知人宅の、庭先にある茶室」(変な表現やけど)という感じか。

ただ、お茶をまったく嗜まないというか、茶室と聞いただけでビビる私のような人間でも気軽にふらっと入ってふらっと出て行けるスペースである。路地奥にあるギャラリーですが、開放的なのが人気の秘密かもしれませんな。

先の絵からこの結びのカットまで、『せやし だし巻 京そだち』のあの名場面と小林明子さんのコメントが随所に登場し、シャワーを浴びるようにアッコちゃんワールドに浸れます。しかもハンジさんがデビューした『キョースマ!』のバックナンバーもすべて見られますからどうぞお楽しみに。

本日、5月29日(土)17時半~19時は、小林&ハンジの二人が来場し、ミニパーティーが開かれる。もちろんこのマンガの主役、あの名店のだし巻きはじめ、作中で登場する(それで奪い合いの死闘にもなる)必殺のアイテムも出ます。私もお相伴にあずかるつもりで、夕方は皆さまに会えるのが楽しみですわ。

「路地の奥なんて場所が分かりにくそう」 いや大丈夫。富小路通を三条から上ルと(姉小路通りなら下ルと)、西側に「だし巻きノレン」が見えますから。それを目印に、ぜひ。

小林明子“だし巻”ラジオ行脚。

土曜(22日)、日曜(23日)と『せやし だし巻 京そだち』の原作者・小林明子さんがラジオ出演で来阪。何と小林さんはこれで1ヵ月の間に4回もラジオに登場していただいた。ご苦労様です。

4月26日(月) αステーション(FM KYOTO)「SUNNYSIDE BALCONY」

5月15日(土) KBS京都「桂都丸のサークルタウン」 (写真)

5月22日(土) ラジオ大阪(OBC)「幸せラジオ 乾龍介です!」

5月23日(日) FM大阪 「なにわルネサンス~おとなの文化村」

22日(土)は早朝から弁天町のOBCスタジオで生出演のため前日から息子さんと大阪に泊まられたという準備万端ぶりにまったく脱帽でございます。乾龍介さんといえば、かつては朝日放送のアナウンサーとして「ABCヤングリクエスト」で活躍し、関西朝の鉄板「おはよう朝日です」の初代司会者として新しい朝番組のスタイルをつくった人。ノセ上手のパーソナリティの進行で、ノリノリの20分間。息子さんもラジオ局内を案内してもらってご満悦だったそうである。

そして豪雨にもかかわらず、23日(日)はなんば湊町のFM大阪。この日は、20数年前に彼女がライターデビューを果たした媒体で「私にとっては人生唯一の勤め先」という『カイトランド』(縦長の京都月刊フリーマガジンで24年間続いた)の発行人だった能口仁宏(のぐち・よしひろ)さんが聞き手ということもあり、かなりリラックスした雰囲気の中で収録が行われた。

能口さん(左から二人目)をはじめ、聞き手が4人もいてラジオというよりグループミーティングのノリ。何かにつけ小林さん(左端)がかつてのボスである能口さんにイケズをかましているのがたまらなく面白かった。「自称ロールケーキ評論家と書いてありますが、お気に入りを教えてくださいよ」というおなじみの質問には(必ず出ます)、「今は四条烏丸近くにあるシトロン・サレの塩クリームキャラメルのロールケーキがおいしいですね」と余裕の受け答えである。

いちばん盛り上がったのは、「漫画を描いたハンジリョオさんってどんな人?」という振りに小林さんが「若い女性ですよ」と答えた時。確かに、字だけ音だけなら男だと思うのも無理はない。けど最近は「桜庭一樹」「有川浩」とかどうみても男名前が多いしなぁ。

あの時、この写真をスタジオの皆さんに見せてあげたらよかったですな。

小林さんがFM大阪のスタジオで明日(25日)から始まる『せやし だし巻 京そだち~ハンジリョオ原画展』(富小路三条上ル西側、ギャラリーH2O)のことを話している最中、まさにその会場の壁面をせっせせっせと描いていた(撮影アオキ)。原作者と漫画家、見事なコンビネーションである。サッカー日本代表も見習ってください。

イチローも脱帽!? 看板娘の背面キャッチ!

朝刊のテレビ番組欄で、NHKの「新感覚ゲーム クエスタ」のコメントを読むとこんな文句が……

その昔、ある競技のプロ選手だった76歳の女性「ミミー」が見せる妙技には思わず拍手。いまも現役とは恐れ入る。(5.13朝日新聞)

もしや!? と思って録画した番組を再生したら、[アラビヤ珈琲店]の偉大なる看板娘ママ、高坂峰子さんが液晶画面の向こうで司会の名倉潤と一緒に笑っていた。

クイズの問題は、ゲストとして登場した元「プロ○○」である高坂さんの前職を当てるというもの。会場には55年以上前に日本に女子プロ野球が存在したこと自体を知らない世代が多かったせいか、「ええ~!?」というどよめきはヤラセではなく正直なものだったのだろう。

しかし驚いたのはそれ以上に、高坂峰子ママが今までグラウンドで見せていただいた芸以上のテクニックを披露してくれたからである。元甲子園球児(東山高出身)のレッド吉田とまずは軽くキャッチボールをしたかと思うと(投げ方やスナップの利かせ方が全然違いまっせ)、右手の腰のあたりを指さして「この辺に投げてください」と堂々たるリクエストぶり。

そして、左手のグローブをするするっと背中側に回したと思ったら……

写真が分かりにくくて申し訳ないが、しっかりボールは彼女の背中側に回したグラブにスポッと収まっていた。あっぱれ。

私は『Meets Regional』100号(98年4月号)、10周年記念号(00年1月号)に続いて20周年記念号(09年1月号)でも[アラビヤ珈琲店]の原稿を書く幸運に恵まれた。最初が先代の光明さん、次が現マスターの明郎さん、そして直近は高坂峰子さんのことを中心に書き、その結びに

3人のスターに取材できたのは最高の役得だが、ここまで来たら「第4の星」の登場まで通いますよ、意外に近いかもしれないし。(Meets Regional 09年1月号)

としたが、あんな「背面キャッチ」を見せられたら、しばらくは「看板娘・高坂峰子」の時代が続くでしょう、少なくとも平成の間は。オノ・ヨーコも黒柳徹子も草笛光子も(言うたら天皇陛下も)みーんな同い年で元気だし。

[アラビヤ珈琲店]は、いよいよ2011年2月9日で創業60周年を迎えるが、その日が今から待ち遠しい。ちなみに看板娘の高坂峰子さんは水曜日、店に入っておられることが多いです。

せやし 京都 行こう~昭和の日トークショー。

ご報告が大変遅れて申し訳ない(ぺこり)。

昭和の日の4月29日(祝)15時から、『せやし だし巻 京そだち』の作者二人によるトークショー&サイン会が、大垣書店四条店で行われた。

どピーカンの連休初日、どう考えても繁華街にある書店の一角に固まって人の話を聞くよりも、宝ヶ池公園か府立植物園で寝っ転がってビール飲んでる方が楽しそうな午後ではある。が、そんなひとときよりもこっちを選んでくれた人が少なくとも35人以上いてくださったようで、下手な司会者としてはお礼の涙そうそうであります。

やはり小林明子&ハンジリョオ合作の力であろう。

13時30分に「ここで打ち合わせしたら縁起がいい」と私が勝手に思っている紅茶好き女子のメッカ[ムレスナティーハウス]に集合。一応用意してきた進行台本(といっても「小林さんここで率直なコメントを」とか「ハンジさん何か言うたってください」しか書いてない)を確認し、本番前の緊張を和らげる。

本番まであと30分となり、大垣書店に向かう。現地では専務の大垣全央さん、社長の大垣守弘さんがお出迎えいただき、より緊張が増す。何と言ってもこのお二人には、京阪神エルマガジン社時代→キョースマ!時代→140B自社本と10年近くお世話になっていて、事あるごとに励ましてくれた恩人だからである。

15時、いよいよスタート。マイクを片手に「昭和の日」にちなんだ前振りをするが、どうもカタい…。しかし、主役の2人が入場すると、そのカタさが「華やぎ」へと変わる。要するに私一人が勝手に緊張しとった訳ですな。

小林さんは、『せやし だし巻 京そだち』136ページに登場する20代の時に仕立てた綸子(りんず)の着物(写真上、4月28日の朝日新聞京都版もこの着物で撮影)で登場。当時ピンクに染めた生地をこの、大人の女性しか絶対似合わないような(というか小林さんならではの)深い茶色に染め直して登場。彼女が真ん中に座ってくれたので「座」が一気に締まった。

ハンジさんは「漫画家ハンジリョオ」としてパブリックな場に出るのはこれが初めてということで、私とどっこいどっこいに緊張し「こっちに話を振ったらアカン」オーラを全開で出していたが(笑)、作者なんやからそうはいきまへんで。

内容はこの物語を書こうと思った動機や、きっかけとなった『キョースマ!』錦市場特集(写真上)のこと、東京の編集者に「あれは本にしたら面白いのにしないの?」とある日小林さんが言われたこと、アッコちゃんの知られざるエピソード(お母さんはかつて幼稚園の先生だった、アッコちゃんは実は左利きだったetc.)などなどが披露され、小林さんがまたあの堂々としていてかつ力を抜いたトークで、会場を笑いに包んでいく。私も司会者という職務を完全に忘れ(忘れるなよ)、アッコちゃんの語りを楽しんでいました。

トークが終わり会場から質問がいくつか飛ぶ。「あのだし巻きの青年(にしやん)はその後、どうなったのですか?」と年配の男性。それは小林さんにも分からないとのことである。が、本は全国で発売しているのだし、何かのきっかけで彼本人があの本を手に取ってくれたらハッピーである。「にしやん」はお母さん、おばあちゃんと並んでハンジさん渾身のキャラ。そのあたりを読者は見逃さない。

『京都店特撰』のバッキーも漬物屋の仕事が忙しかったろうに、会場に駆けつけてくれ「この本はヤラれる。子供の頃の記憶と完全にかぶっていて本当に引き込まれた。ヨメはんも何度も読み返している」と最大の賛辞を送ってくれた。おおきに。

会場には、10代から80代までと幅広い一般読者の方に交じって、小林さん以上に華があるお母様や素敵なアッコちゃん人形をつくってきてくださったハンジさんのご両親、『キョースマ!』時代にお世話になった淡交社の皆様もご来場いただき、非常にファミリー&アットホームな雰囲気であったが、デザイナーの坂本佳子さんがつくってくれた落語会的な「めくり(進行のお題が書かれている)」のおかげでそれに輪をかけたように和みモードが高まった。天下のアートディレクターにお茶子さんまでさせてすみませんでした。

終了後はサイン会。それが終わって大垣書店の皆様にお礼を言って会場を後にし、打ち上げ会場である[百練]へと二人の作者と一緒に錦市場を歩いた。

『せやし だし巻 京そだち』は大阪万博が開かれた昭和45年前後の話である。この錦市場もかつて小林さんがおばあちゃんやお母さんに連れられて買い物をした場所。物語の冒頭で「家事労働要員」として育てられたと述懐しているころの錦は、今もあまり変わっていない。

それゆえ、当時の京都を知らないどころかまだ生まれてもいなかったハンジさんは、現在の錦の感じを手がかりにしながらこの物語を視覚化させることに成功したのではないだろうか。もし錦市場がヘンテコなショッピングモールに変質し、烏丸二条あたりの街並みが当時の面影を一切とどめないほど変貌していたら、こんなマンガを描こうという気にもならなかったのではないかと思う。

小林さんの記憶にある錦市場や烏丸二条は、京都住まいの後輩であるハンジさんにも月に2回ほどしか京都に来ない私にも、その感覚が少しは共有できる。[畑野軒]でだんごやお饅頭を買い、向かいの宇治屋で買ったお茶を淹れれば、自宅でアッコちゃん家族の幸せが何十分の一かだけでも味わえる。

そういう意味で『せやし だし巻 京そだち』という物語のリアリティを支えているのは、京都という街を流れるたおやかな「時間」と、街の記憶を次世代に伝えようとする「無名のひとびとの営み」ではないかと、昭和の日にしあわせな気持ちで錦市場を歩きながら、ふと考えた。

いきなり だし巻 第8位。

販売隊長アオキからまわってきた回覧は、京都の代表的書店チェーン大垣書店の週間ランキング表。

何と! 世界の村上春樹『1Q84』(新潮社)とかミリオンセラー『巻くだけダイエット』(幻冬舎)とかコミックエッセイの立役者『日本人の知らない日本語』(メディアファクトリー)とかと並んで、何でっかこの140Bという変な記号は…みたいな感じで弊社の名前、そして『せやし だし巻 京そだち』が、ヒットメーカー東野圭吾『新参者』(講談社)やたかぎなおこ『ローカル線で温泉ひとりたび』(メディアファクトリー)をおこがましくも抑えて8位に座っている。

8位というと鈴木明子や小塚崇彦ですな。どうせなら、高橋大輔か浅田真央ぐらいまでいきたいなぁと勝手に考えております。ベスト10入りを支えてくださった皆様に感謝。

この大垣書店の四条店(阪急烏丸駅・地下鉄四条駅すぐ/烏丸四条上ル西側) にて「昭和の日」の4月29日(祝)に、『せやし だし巻 京そだち』の作者二人(原作小林明子・漫画ハンジリョオ)によるトークショー&サイン会を行います。不肖中島が司会を務めます。ぜひぜひお越しくださいませ。詳細はこちら。

最後に大垣書店サマ、『せやし だし巻 京そだち』の漫画は「山本千尋」さんやのうて、「ハンジリョオ」なので、そこんとこよろしくお願いいたします(笑)。

タイトル誕生の産婆役・サカモトさん。

明日はいよいよ(もう今日だが)『せやし だし巻 京そだち』(原作/小林明子・漫画/ハンジ リョオ)が店頭に並ぶが、この不思議なタイトルが決まったのは2月も終わる頃だった。

それまでは……1『中京のアッコちゃん』、2『呉服問屋のアッコちゃん』、3『京都人はこうしてつくられる』、4『で、京都人はそんなにややこしいですか?』などという仮タイトルがあれこれ生まれたが、どれも「コレや!」というところまではグサッとこない。

1は「チュウキョウって名古屋のこと?」、2は「職業マンガ?」、3は「入江敦彦の路線ですかねぇ」、4は「そこまでひねらんでも」と書店さんをはじめいろんな人から「マンガはおもしろいのに書名がなぁ」と言われ、タイトル決めが煮詰まり暗礁に乗り上げていた。

「これはもう、京都で話し合って決めなアカンな」

普段は必ず140B自慢の大白板を使ってあぁでもないこうでもないと言いながらどんどん書き加えていき、そのうちに「ひっかかるフレーズ」が出てきてそれをまたいろいろ展開するうちに形が見える、という手法でタイトルを付けていた。

が、今回は原作者と漫画家のホームであり物語の舞台でもある京都でやるしかなかろうと、2月上旬の某日にアートディレクター・坂本佳子さんが所属している富小路三条の「大向(おおむかい)デザイン事務所」に集合した。これでええタイトルが出なかったらもう万事休すやな、とかなりせっぱ詰まった心境だったが、場所がいつもと違うせいか、坂本さんの醸し出す空気が私の危惧を打ち消すような力があった。

「いろいろ出したら最後は絶対にいいのが出来ますよ、心配しなくても」

ニッコリ笑ってこのようなことを言ってくれたせいか、悲痛なはずのタイトル会議がいつしか「ほがらか」な雰囲気に包まれていたのである。何かこう、安心感のある人と空間だった。それで話が煮詰まらずにころがる。

青木(140B販売隊長)「原作者としてはどんなタイトルがええと思います?」 小林「タイトルというか、あたしが一つだけまず、と思うのは“だし巻”やねんね」 青木「ハンジさんは?」 ハンジ「あたしは“都そだち”っていう言葉にすごく惹かれる」

「だし巻」と「都そだち」か。これにもうひと押しないかなぁ…と思った時に思い出したのが「せやし」という京都的接続詞(接頭語? 感嘆詞?)だった。

かつて小林さんがバッキー井上の『京都店特撰』を見たときに言っていたこと。

「すごーい。見事にあたしと一軒もかぶってへんわ」

小林さんもバッキーも中京区が子供の頃からのホームグラウンド。歳も近い。どっかで接近遭遇はしているだろうが、そこが京都の面白さ。あるカメラマンはこの双方とよく仕事をするが、二人はほとんど出会ったことがない(そこが「狭い」京都の面白さかも)。行く店も全く違う。けれど小林さん、バッキーいずれと話していても必ず出てくる「共通語」が一つだけあった。それが「せやし」。

白い紙に書きながら「せやし、だし巻き、都そだち」 う~ん……「都(みやこ)」より「京(きょう)」の方がええかもしれんなぁ。

小林&ハンジ「だし巻きの“き”はない方がいいですね」

坂本「(微笑み倍加)出来たじゃないですか!?」

坂本さんはさっそく表紙イメージに取りかかり、ハンジさんに「じゃあメインビジュアルをだし巻にして、アッコちゃんをちょこんと出しましょうか」とリクエストする。ハンジさん、その場で紙を出してささっと表紙ラフを描く。あっという間。

私は忘れないように手帳に『せやし だし巻 京そだち』と書き留めたが、正直「こんなタイトル、ありかいな?」とその時は半信半疑だった(口で言っても“へ!?”と言われそうやし)。しかし明らかに、集合した2時間前の状態とはみんなの顔つきが違う。小林さんは「だし巻」がハンジさんは「都そだち」タイトルに入ったことで。坂本さんと青木はこの「一夜限りのセッション」のようなタイトル決めの現場に立ち会ったことで。「ええタイトルになったんやろうな」とおぼろげには感じていた。

「おぼろげ」が確信に変わったのは、やはりこの表紙が出来上がってから。現物はもっと卵の黄色が鮮やかである。

あーやっぱり出るべくして、生まれるべくして出来たタイトルやなぁとは思うが、あなたが買って手元に置く価値がある本かどうかは、実際に書店で手に取って見てみてください。売れるかどうかももちろん大事だが、この本を愛してくれる読者が必ずいそうな表紙である。

原作の小林さん、漫画のハンジさんと共に歩いてきた1年半近く(なぜ1年半なのかはいずれ書きます)の旅もいよいよ終点間近。あとは一人でも多くの読者が思い思いのアッコちゃんの物語を描いて旅をしてくれたら、版元としては最高にハッピーである。

そして、この不思議な(でもハマった)タイトルが生まれるにあたり、最後の最後に絶妙のパスを出してくれたアートディレクター・坂本佳子さんに心より感謝したい。

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人ったらし軍団vs『せやし だし巻 京そだち』

京都駅ビル上のカフェ[チェントチェント]前の屋外で、聞き手バッキー井上による「大西ユカリ×宇崎竜童」という歌謡曲ファンにはヨダレ一升ぐらい出そうな対談を録音した音源を持ってのぞみに乗り、音源の配信先である新宿御苑前のラジオデイズにその日のうちにめでたくパス。

同社からお借りしたオリンパスの最新兵器で録った音は、その場にいた人間以上に聞き取りやすくクリアー、目の玉が(いや耳の鼓膜が)飛び出るほどのスゴさでラジオカフェの皆々様も大満足(ほっ)。竜童さんのおかげだからか、「ここまで来たら、サクセース」である。

そして、カバンには『せやし  だし巻  京そだち』の見本が3冊。

1冊はいつも多大なお世話になっている新潮社の物腰柔らかスマイル穏やかな凄腕編集者・足立さん(養老孟司内田樹担当ですぞ)に。 2冊目は創刊以来ずっとお仕事させていただいている雑誌『料理通信』の小倉さんに。最後の1冊が残った。

さてどうしようかと思った時に、3カ月ほど前にあるインタビュアーを前にして言った台詞を思い出す。

これはまだ言えませんが、バッキーの本を読んで「ああ、自分は京都でよかったなぁ、京都が好きだったんだなぁ」と思っていただいた以上のインパクトがある京都の本がもうすぐできると思います。

そやそや、この人にまず見せなアカンわと思い自由が丘に電話したら、その人・三島邦弘氏が電話口に出た。

「え、東京に来られてるんですか? こっちももうすぐ終わりますからじゃあ[金田]行きましょう」

ということに。[金田]というのは私が勝手に思う東京の居酒屋御三家(あとの二つは銀座[樽平]、神田[みますや]である)の一つで、ひとびと感満載の名店である。サッポロラガーが置いてあり、名物の肉豆腐をはじめ何でも旨い。2杯目からは熱燗が呑みたくなる。

三島「電話で渡したいものがあるっておっしゃっていたのは、ひょっとしたら…」

私「そうそう、これやこれ」(と『せやし  だし巻  京そだち』を目の前に)

三島「おぉー! スゴい」

お世辞半分以上にしても、あのヒットメーカーが見た瞬間笑顔になったというのは、結構イケるかもしれんな。途中からミシマ社の関羽と張飛、着流しが似合いそうな切れ者編集者・大越氏とみちのく一人旅が似合う熱血営業マン・渡辺氏が加わり、[金田]の酒、ビール、一品をすべて頼んだろかいな的勢いで話が弾む(肝心の店は閉店モードで注文を受けるテンションが急に下がっていたが)。「きましたねぇついに」とか「これ売れまっせ」とか言うてくれるもんだからついつい嬉しくなってお猪口の上下運動が増えるが、しかしそれは王者の余裕。

何と言っても1月の終わりに出たばっかりの最新刊『ボクは坊さん』なんてもう5刷。ヒットのさせ方を編集も営業も身体で分かっている。ホメられて嬉しかったけど(この人らホンマにノセんの上手いし)、ミシマ社の次なる隠し球にネタを振ってみる。「今度はなに出すん?」

「実はウチもマンガを出すんですよ。益田ミリさんの」

あの売れっ子にマンガを描き下ろしさせるとは!? しかも彼女曰く

「聞いたことない出版社でしたが、ミシマ社が好きになってマンガを描きました」

と言わしめる人々が目の前にいる。部数も『せやし  だし巻  京そだち』(たくさん刷ったでぇ)より3割多い。京都マンガだけでもライバルが多いのに、もっと恐ろしいライバルが来たか!? 笑顔の向こうに超強力な隠し球とはさすが。しかし、ミシマ社vs140Bがコミックエッセイの平台でしのぎを削る日がやってくるとは、しあわせな話であろう。目指すはワンツーフィニッシュか。

と思いながら今日のツイッターを眺めていたら20:30に……

三島ブログ更新しました。『せやし 出しまき 京そだち』http://bit.ly/b9mhli

えらい過分なホメ言葉満載の文章であるが(私が一人で勝手にゴキゲンになって喋ってるだけやないかという見方もできるな)、『せやし  だし巻  京そだち』については、満更お世辞だけでもなさそうな感想。小林さん、ハンジさん。ちょっと旧い言い回しだけど、今をときめく編集者からもお褒めをいただきました。しかしその30分後には……

ミシマ社4月の新刊は、益田ミリさんの漫画です! 『ほしいものはなんですか?』http://bit.ly/ckoH7W

 まずは先輩をきっちり立てて喜ばせておいて、その後に「でも主役はこっちやで」と時速153㎞のストレートを投げこんで空振りさせる。……そういえば、先ほどまで一緒やった平川克美さん(冒頭のオリンパス秘密兵器で内田樹せんせとの対談を同席して録音してました@学士会館)も

「今ねぇ、ミシマ社から出す本書いてんだよ」

って言うてはったなぁ。あなおそろし。つくづく、敵に回したくない人ったらし軍団である。

岸和田舌戦60分1本勝負。

3月13日(土)15時半から堂島のジュンク堂書店大阪本店にて、中場利一『走らんかい! 岸和田だんじりグラフィティ』発売記念「中場利一vs江弘毅トークショー」が開催された。

ご覧の通り3階の会場内は満員。カメラの後ろにも入りきれなかった人が10人近く立っていて、しかもこの小説のテーマが「だんじり」なのもあり、肌寒い3月中旬にもかかわらず熱気に溢れていた。定刻通りに現れた中場さんと江。二人はミーツで連載原稿のやりとりをしていた頃からの長い付き合いなので、会話の間や息がピタッと合っている。

江はトークイベントの場合、ギャラリーがどの程度反応するかで喋りのスピード感やノリが大きく変わるのだが、今回はネタがネタだし岸和田からの来場者も多く、開始早々「言うちゃってんや」などの地元言葉が炸裂、全身から「ホーム」感が漂っている。このマイクの持ち方からして「ふるさとのはなしをしよう」あたりを歌いそうな得意モードではないか。

対するチュンバさんは江の突っ込みや質問に対し、どちらかといえばやや控えめなコメントで応酬する感じだが、その一つひとつに現役人気作家の含蓄のある言葉が飛び出す。そして、あのいたずらっぽい目で江を挑発したりはぐらかしたりするのであった。

「『岸和田少年愚連隊』はチュンバや小鉄などの“人柄”を書いた話で、今回の『走らんかい!』は中之濱町という“土地柄”を書きたかったんです」

「前者が水ナスの浅漬けだとしたら後者はジャコと生姜と一緒に炊いた古漬けの味」

「おいしい話は7割ほどほかしたんです。自分で“最高や”と思う時はたいがい独りよがりなんですね。この人(傍らで写真を撮っていた編集者・江口氏を指して)にボロカスに言われますわ」

「祭(9月中旬)の間はあえて東京のホテルで書いてました。ものすごく淋しかったし哀しかったけど、実はその場にいないことで、ちゃんと書けたような気がします」

そこらのインタビュアーが聞いても決して出てこないようなフレーズに場内は静まりかえったり感心したり爆笑したりと、書籍代の1,575円だけではホンマに勿体ないような60分である。締めくくりに江が今後の話、特に「だんじりの新作」のことを振ったが、中場氏は「え!?」とまたまたはぐらかす。

江「五軒屋町もぜひ」 中場「あぁ五軒屋ね(微笑)」 江「今日も今から寄り合いでして」 中場「その話になったら1時間ぐらい俺トークやからな、江くんは」(場内大爆笑)

観客全員が全盛時のやす・きよを観るような「明るい舌戦を間近に見る愉しさ」を味わえたのではなかろうか?  会場はフロム岸和田の人々や泉州『0724』編集部の面々、マルシェでお馴染み大須賀氏、ミーツの金馬編集長と半井副編集長、エルマガジン社書籍編集長の村瀬彩子嬢、江の連載に最多頻度で登場するおなじみミヤタ社長、そして大阪屋の中田常務など実に類い希な客層。物語のヒロイン「七海」のモデルであるアサミさん(べっぴんでした)も岸和田・中之濱町から駆けつけてくれました。

中場さん、集英社の皆様、ありがとうございました。

最初で最後か!? 中場利一『走らんかい!』トーク。

作家の中場利一さんはこれまで、トークショーなどには全然出ない、という人だったらしい。

が、この度発売された小説『走らんかい!』が岸和田だんじりの話(中之濱町=ナカンバ)で、トークの相手が江弘毅ということもあり、ついに実現する。しかも聞き手が聞き手だけに、決して活字には出来そうもない60分になりそう。チュンバファン、だんじり愛好者、活字好きが一堂に会する堂島の土曜午後は、どのような流れになるかは予断を許さないが、ヒートアップすることは確実である。

物語は岸和田・中之濱町に父親と一緒に越してきた高校生の主人公(愛称ペン)が、最初は暑苦しい地元の人間関係に「何でそんなに人に構うんだ」と鬱陶しく思っていたのが、同じ町の人や同年代の面々と交わるにつれて徐々に変わっていき、だんじりを曳く青年団の一員としてデビューするというもの。

もちろんチュンバさんらしい派手な喧嘩のシーンや、べっぴんのヒロインが登場したりするのだが、それから先は読んでのお楽しみ。喧嘩が滅法強くて笑顔が絶品の漁師・ケンタや青年団に睨みは利かすものの奥さんの料理を死ぬほど恐れる団長、地元の顔役など、強いキャラの配置も万全。何よりも岸和田流の「突き放す、出来んかったらボロカスに言う、けど見守る」という、「一人前の男」の育て方を団長が語るシーンは新鮮で、「だんじりが300年も続いてきた理由」の一端を教えてくれる。

けど電車の中では読まない方がいい。泣かせるシーンも多いけど、声に出して笑ってしまう箇所が多いからだ。私はゲラの段階で読ませてもらったが、面白かったのでジュンク堂大阪本店で1冊買った。当日は中場さんと江の「活字に出来ない」岸和田な会話を愉しませていただくつもりだ。

客層はきっと濃いやろなぁ。

2010年3月13日(土) @ジュンク堂書店大阪本店 (大阪市北区堂島1-6-20 堂島アバンザ内) TEL 06-4799-1090

[第一部] トーク 15:30~ (定員40名) ※定員を超えますと立ち見となる場合があります [第二部] 中場利一さんサイン会 16:30頃~ (定員100名) *要整理券  *対象書籍1冊ご購入につき一枚整理券を発行いたします *サイン会は『走らんかい! 岸和田だんじりグラフティ』(集英社)のみ対象とさせていただきます  *定員になり次第、締め切らせていただきます

スーパーマン・東海林さだおさん。

リーガロイヤルホテル顧客向けPR誌『The ROYAL』の仕事で、漫画家・エッセイストである東海林さだおさんのインタビューに同席する。聞き手は、東海林さんの著書に出てくる対談モノの構成は大概担当されるという柴口育子(やすこ)さん。場所は早稲田のリーガロイヤルホテル東京である。

世の中に、トップの位置で40年間走り続けている人は本当に少ない。たまに坂田藤十郎とか森光子とか小澤征爾とか桂三枝とか怪物がいるが、マンガの世界ではこの人を置いて他にはいないのではないか?

東海林さだおさんが週刊文春に『タンマ君』、週刊現代に『サラリーマン専科』の連載を始めたのは1968(昭和43)年のこと。アメリカがベトナム戦争の泥沼にハマり、世界的に反戦の機運が盛り上がっていった頃であるが、日本はこの年に西ドイツを抜いてGNP世界第2位の経済大国にのし上がり、「昭和元禄」と呼ばれていた頃でもある(野球もON全盛の巨人が圧倒的な強さを見せていた)。東海林さんの連載マンガは「経済大国ニッポン」の申し子のような存在だった。

東海林さんはその後、70年にオール讀物(エッセイ『男の分別学』)、74年に毎日新聞(4コマ『アサッテ君』)、そして87年に週刊朝日(エッセイ『あれも食いたい これも食いたい』)の連載もスタートさせるのであるが、週刊文春、週刊現代も含めてそれらがすべて今日まで続いているどころか、『アサッテ君』は休刊日を除けば毎日掲載されている。一体この人は、いつ休んでいるのだろうか?

東海林さんは定刻通りにお一人で到着し、柴口さんを見るや「あ、どうもこんばんはー」とホンマにひょい、と現れたという感じだった。氷雨の夜だったので、長い丈のダウンパーカー。毎週草野球をやっておられるという(ポジションはショート)お顔は日焼けし、下に着た黒いジャケットもなかなかお洒落だった。どう考えても72歳には見えんな。

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熱燗人生はある日突然はじまる。

「最近みんな遊んでくれへんねんな。なんか俺はとてもさびしい感じがするわー」

バッキー井上からそんなメールが来たら、これ以上ほったらかしにはできんだろう……というわけで先週の金曜日、京都での打ち合わせ帰りに[百練]に寄ると、よくあるパターンで本人は不在(恒例「見回り」の夜だったそうな)。

まぁいいやとカウンターで湯豆腐、鰤カマ、漬物などをたのみ、熱燗でツイーとやっていた。一杯呑むごとに、箸を運ぶごとに幸せが確実に訪れる。ここの湯豆腐はなんでこんなに旨いんやろか? 鰤カマはなんでこんなに酒を歓ばすんやろか? 漬物はなんでこんなにすぐなくなってしまうんやろか? などなど、オッサン一人で悦に入っていたら、カウンター越しにお兄さんが

「昨日は盛り上がってましたからね」

とおっしゃる。そしてアレですよと言った視線の先には、バッキーの文字で「二度と還らぬ夜の記憶」がおいしそうな紙に書かれ年月順に記してあった。まだ貼り出されてなかったが、昨日は「大西ユカリナイト」であったそうな。それは盛り上がったでしょう。

ジョン・レノンやマイケル・ジャクソン、プレスリーなどの世界のビッグネーム交じって、ショーケンやダウンタウン・ブギウギバンドが入っているところが[百練]らしい。無論、吉田拓郎も入っている。

 

南座の「まねき」のような貼り紙を見ながら適当に呑んでひと心地ついたら、カウンターに『京都店特撰~たとえあなたが行かなくとも店の明かりは灯ってる。』があったので読む。もう三十回以上読んだ文章だが、なぜかこの日はフレーズが「突き刺さる」のではなく「沁み」た。

実は最初に原稿を読んだ時、熱燗しか呑まなくなったというくだりに対して「アホか」と思ったが、どこか気になるところがあったのだろう。暫くして一人で居酒屋に行った時「バッキーがそんな好きな熱燗なら、久しぶりに飲んだろかいな」と注文した。その時まで熱燗なんて、年に1回呑む機会があれば上等な方、年間を通じて全然呑まない年もあるほど疎遠だった。

ところが、『京都店特撰』にちょっとだけ影響され熱燗に手を出してから私の人生も激変したようで、ビールも焼酎もぱたっと飲まなくなった。「なんか俺はとてもさびしい」と本人は愚痴っていたが、私はどんな場所でも熱燗を呑みその度にバッキーのことを思い出してしまう。そして、熱燗がしあわせだと書いた当人よりももっとしあわせな気分でいられたらいいなと思いつつ、いやいやあの男とは年季がちゃうやろ、こんな歳から呑み出してもアカンで、とブレーキをかける。

熱燗は家で呑んでも「あーあもう冷めてもうたわ」ということしか感じられず、結局台所との往復運動をくりかえすせわしない酒にしかならないが、店で呑むと可愛らしい宝石のように感じられるのは何でだろうか? 注がれて口をつける時、くくっと呑む時、はぁ~と飲み干した時、いずれもしあわせが満ちる。ただしこれは「熱燗の用意をしてくれる人」がいる居酒屋に限る。この日はバッキーがいなくてもお兄さんとお姐さんが相手をしてくれたので、ハッピーこの上なしで店を出られた。

おもわず酔いの余韻まで愉しみたくなって、寒がりのくせにそこから京都駅まで歩いてしまった(そして京都駅前の牛テール煮込み居酒屋で延長戦してしまう。アホとしか言いようがない)。

[百練]次のナイトは「スティービー・ワンダー」だそうな。どんなに〆切りがあろうと、これは駆けつけぬ訳にはいかんだろう。そして『京都店特撰』は、[百練]のような店がある限りまだまだ読者の心に忍び込む余地が十分あるなと、独りほくそ笑んだのである。あー。

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あなたはすっかり覆われてしまい♪

いきなり70年代歌謡曲で申し訳ないが、リーガロイヤルホテルからの取材帰り、大林組のシートにすっぽり覆われた建物がある。「建設中のビルかいな?」と思ったら弊社発祥の地、古巣ダイビルであった。

そういえば半年前は、こんな感じだったのに。

そうか、もう取り壊しが本格的に始まって、フェスティバルホールのような更地になるんだな。

そのフェスティバルホールも、最後の夜(2008年12月30日)は美しかったが……

 今では、「そんなものがあったんですか?」という感じ。中之島のど真ん中に更地がぽーんと出現して、今やそれが普通の風景になっている。

感傷的になっても仕方のない話だし、「だから何やねん」というオチは今日の話の中には全くないのだが、朝青龍の引退なんかよりも、ダイビルが見えなくなったことが自分にはショックやなぁ。

まったくもう、終電で帰って早よ寝なアカンのに、何やってることやら。ちなみに冒頭の歌は、ダイビル50周年の1975年に大ヒットした名曲「時の過ぎゆくままに」(作詞・阿久悠/作曲・大野克夫/歌・沢田研二)から。ホンマは「覆われて」じゃなく「疲れて」なんですが。

そしてこの歌詞のラストは 「窓の景色も変わってゆくだろう」。大作詞家は、ここまで見通していたのだろうか!?

つぶやき人生の調子はいかが?

何となくツイッターを始めてしまった私(maido140b)は正直、まだそれを全然使いこなしていない。

皆々様がつぶやいた話をすーっと見て、たまに茶々を入れるという程度のことしかやれてないが、それでも「自分が知らないところで、面白そうで意味のありそうな(なくても全然ええねんけど)話や情報があちこち飛び交っているスクリーンがあって、大概は座って観ているだけだが、ちょいと体を動かせばリアルタイムでそのスクリーン上で出演できる」みたいな感じが何となく愉しい。

リアルタイムにちょっとだけついて行ってるのは、大概帰りの電車の中だけ、なんですけど。 そしてつぶやいている口ぶりがフレンドリーな人が多いような気がする。ひょっとしたらあのフィルターを通すとそういう「言葉づかい」に変わるのかもしれない。

やりはじめて困ったことは、せっかく電車の中で読もうと思って買った本が、つぶやき人生のおかげでカバンの肥やしとなりつつある、ということだ。トコロテン式にそうなっている。何か別なことをトコロテン式に追い出して本を読まないと、「それでよう出版社やってんな!?」という神の(いや良心の、か)そしりが聞こえてきそうである。

つぶやき人生の皆さんは、読書の時間ちゃんと取ってはりますか? 

ちなみに、昨年12月のアメリカ出版研究会に登壇した出版社ディスカヴァー・トゥエンティワンの干場弓子取締役社長(hoshibay)は、「私はもう3カ月ぐらいやってますが、ツイッターのおかげで新しい企画が6本ほど出来ました」と話しておられた。うーむ。そうなんですか。

画家と共に江田島から呉へ。

1月29日に書いたブログ(昨年秋の話)のつづき。

小用(江田島)から呉中央桟橋までも船で大体15分。巨大なドックや自衛艦があちこちに見られるし、[アレイからすこじま]という場所に立つと、あまり他では目にしない桟橋の名称に、ちょっと驚く。

呉市観光企画係長の竹之内健さんによると、日本の潜水艦の6割はここ呉に集結しているらしい。晩秋の夕陽に照らされた潜水艦の姿はちょっと物哀しさも漂っているが、天気のいい休日には家族連れがたくさんやって来るそうである。これが出撃して本来の任務を遂行しなければ、巨大なクジラを思わせる船体はなかなか愛嬌がある。本来の任務でなければ、だけど。

翌朝、呉観光名所のスターである大和ミュージアムを訪れる。中央吹き抜けの場所に戦艦大和10分の1のレプリカ。それでも新幹線の1両分より長い26メートルあるのだから、ホンモノはどれだけスゴいか、ちょっと見当がつかない。

それが実戦で主砲を発射したのは敗戦が誰の目にも決定的になった昭和19年(1944)、翌年4月には悲劇的最期を遂げる。映画などでもたびたび取り上げられているのでここで敢えて言うことはないが、ミュージアムではこの大和を建造するにあたり、当時の最先端技術が惜しげもなく投入されたと展示や映像で紹介している。

地元の「手前味噌」を差し引いても、あんな巨大で最先端技術の戦艦を生むことができたのは、呉という街あってのことだというのが、素人の来館者にもよく分かるようになっている。

しかしこの館の真骨頂は、実は大和のレプリカのもう一つ奥の部屋、零戦や回天などが展示されているブロックであったと思う。

回天(人間魚雷)については前日、海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校)の歴史展示でもいろいろと紹介されていたが、ここではその実物モデルと、そして間もなく出撃するという当時の若者の録音が聴けるようになっている。

自分の出撃によって愛する家族や友人を守りたいということと、世界を破滅の方向に向かわせるアメリカや中国を叩き潰したいということが幾分、興奮気味の口調で語られている(遺書もあった)が、「そう思わな、やってられへんかったんやないかな」と、あの小さすぎる船体を見て思うばかりである。人間が入るような潜水艇ではない。

敗色が濃くなっていった日本の戦争指導部は、そこで休戦や停戦を模索するのではなく、「武器弾薬や戦闘機・艦隊・戦車の損害は最小限に。その代わりまだ使える人間を高度な兵器にして出撃させる」という破滅的な選択をする。イスラムの自爆テロを馬鹿げていると絶対笑えない。60年前から先取りしていたのである。

そのようなアホ共が戦争指導者であったということは残念ながら、海上自衛隊第一術科学校でもこの大和ミュージアムでもほとんど語られていないが、人間を兵器に変え、前途ある若者から次々と戦闘に送り込んで殺していったという戦争のアホらしさは、初めて訪れた10代20代の人にも伝わるのではないか。

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突然ですが、江田島の思い出。

「せっかくやし、今から登りません?」 「いいですよ。行きましょか」

弊社はリーガロイヤルホテルグループの全国顧客向けPR誌『The ROYAL』を企画・編集しているが、1月下旬に発行されたばかりの2-3月号(75周年記念号)の旅ページで、江田島~呉に「平和をあらためて考える旅」の取材で訪れた。

今回の「旅人」は画家の須飼秀和氏。そう、奇蹟の画家・石井一男さんの絵を扱っている神戸・北野の[ギャラリー島田]所属作家である。

11月なのに最高気温が10℃までしか上がらない氷雨の朝、広島駅で集合しそこからタクシーで宇品港、高速船で江田島の小用(こよう)に15分でたどり着き、旧海軍兵学校へと向かった。 明治21年(1888)に東京から移転した海軍兵学校は、今は「海上自衛隊第一術科学校」となっている。

往時を偲ばせる建物も多く、特に幹部候補生学校庁舎(旧海軍兵学校生徒館)は明治26年(1893)からずっとここにある。NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』で何度も登場しているので、ご存じの方も多いでしょう。 全敷地面積50ヘクタールは甲子園球場の12倍を上回る広さ。そこの主要エリア(見せても構わない部分)を見学できる10時半からのコースに辛うじて間に合った。

大理石をこれでもかと使った大講堂(写真上・1917築)や、近世から今日までの日本海軍と海戦の歴史が一望できる教育参考館(1936築)を見て回る。勝海舟や坂本龍馬、東郷平八郎あたりまではまだ「歴史ロマン」なのだが、神風特攻隊や回天(人間魚雷)になるともう近すぎてあきません。

特に見学者の多くは私より先輩ばかり。戦場で命を落とした人たちと同世代の方々も結構いらっしゃる。目頭をハンカチで押さえている方も多数。 そんなウェットな、一歩間違うと国粋主義な空気をうまく中和させてくれたのは案内の彼のアナウンスである。

かの赤煉瓦の幹部候補生校舎もこの人にかかったら、「建物の屋根はスレート瓦で滑るんですな。だからスズメが怒ったでー。生活できん言うてどっか行ったわ」

とにかくダジャレと冗談が機関銃(軍隊やもんな)のように出てくる。が、海軍賛美自衛隊賛美のエラそうな、或いはエモーショナルな案内説明でなかったのがナイス。特に教育参考館の歴史展示資料では案内を敢えて付けずに「各人、自分で考えてください」と30分ほどほったらかしにされるのもいい。キャラクターも案内の仕方も、すこぶる好感が持てた。

そして小高い山を指さして、「あれが幹部候補生が駆け足で登っている古鷹山(ふるたかやま)です」。 あそこからこの敷地全体を見下ろせば、また印象もぜんぜん変わるだろうな、雨も小降りになってきたし……と、冒頭のセリフが口をついて出た。

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400年続く「冬の麻薬」酒饅頭。

道修町の[高岡福信]にて酒饅頭を久しぶりに買う。

歯医者に行った帰りには無性に甘いものが食いたくなるが、ここや[鶴屋八幡]はまた絶妙の帰り道途中にあり、足が向く。三笠(お江戸ではどら焼き)を買いたい時は後者、酒饅頭は前者と決めている。

晴れてはいるが、寒い。絵に描いたような酒饅頭日和(苦笑)の中、久しぶりにガラスの引き戸をガラガラっと開け、店主と「人気企業なんて10年も経たずにコロコロ変わるわなぁ」などとJALにまつわる世間話をしてまだ湯気の上がっている酒饅頭を受け取る。

麹の香りいっぱいの皮がまだ柔らかいうちに、熱いお茶と共に。あの皮は、和菓子にしか出せないクリーム色じゃのぅ。アンコも決して甘すぎない。そして儚く終わるが、その儚さがええんでしょう。旨い。

お客さんが来ていたので余分に買ってよかった。

なぜ酒饅頭にいってしまったか?  それは木村衣有子さんのせいである。先日読んだあの原稿が、きっとサブリミナル効果となって、今日歯医者の帰りに「おいでおいで」とちあきなおみのように誘惑したに違いない(にしても、3個も食わんでええやろ)。

夜仕事の空きっ腹を何とか抑えてサクサク仕事できてよかった。帰ったら朝日夕刊の「出版2兆円割れ」連載2日目。切り札ミシマ社を早くも登場させてさすが、と思ったが、「小出版社ミシマ社」はねえだろ、と江戸弁で突っ込む。

せめて、「いま日本中の本好きから最も注目されている」などという枕詞が欲しかったのぅ。

◎京阪電車さんの『月刊島民』紹介ページはこちら

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◎ナカノシマ大学3月講座 釈徹宗×桂文鹿「謎解き!? 浮世絵『浪花百景』を見よ」の申し込みはこちら
 

予定調和の匂い「出版2兆円割れ」。

朝日新聞の夕刊には、「出版1兆9,356億確定」の見出し。

それと一緒に五段抜きの記事で、「2兆円を下回るのは21年ぶり」「前年と比べて4.1%(雑誌3.9%減、書籍4.4%減)、約820億円の減少」「底を打つ気配は全くないという」「環境が一段と悪化した」etc.という、どよーんとした負のワードの大行進である。

しかし出版物ほど作り手(この場合は著者から版元まで)の個性や意思が反映され中身が千差万別になるものもないのだから、おしなべて自動車や家電製品みたいに「産業として4.1%減った」と言われても、「あぁそうですか」としか言いようがない。

しかも、この数字はあくまで「取次ルート」の売上金額。ミシマ社やディスカヴァー・トゥエンティワン、トランスビューなどの直販出版社や富士山マガジンサービスなどのネット書店の売り上げはこの中には入っていない(当然ブックオフも入っていない)。ゆえにこの事実をもって活字離れがどうやこうやとは言えないのではなかろうか? むしろ「出版2兆円割れ」という数字が出たから、それに見合ったネタを探して載っけなアカンやろ、みたいな予定調和をすごく感じる。

案の定、左隣の囲み記事では「出版サバイバル~2兆円割れショック」という連載が始まった。「雑誌の価値 選別の波」と名付けられた第1回は『PINKY』の休刊で全編集部員が泣き出した集英社のエピソードから始まり、『VOGUE』を発行するコンデナストの社長が「今後は各分野1、2位の雑誌しか広告が入らなくなる」というコメントを載せ、ラストは付録が好調でイケイケの宝島社が書店員を雑誌のロゴ入りラッピングバスに乗っけてツアーに招待している話を紹介している。

しかしこんな記事を読んでいたら、「広告が落ち込んだら雑誌は立ち行かないから休刊する」「だから2位までに残るために広告主や書店、読者を取り込む手は何でも使う」「そのためには付録にお金をかけるのも当然」という結論しか出てこない。何かこう、「予算規模」とか「マーケティング」とか「囲い込み」の話ばっかり。「数字」だけに目を奪われて、雑誌をつくったり売ったりして手足をバタつかせる人間が見えてないのではないか。

「オモロい誌面を泉のごとく生み出す編集者」とか「1日30通りのポップが書ける営業マン」とか「寅さん並みの口上で客を釘付けにする書店員」とか、取材すればどっかに必ずいるはずだし、そういう人間をもっと紹介しないと、若くてイキのいいヤツが出版の世界に入ってこようと思わなくなる。大新聞社さん、もっと現場と人間をしっかり取材しましょう(せやないと出版以上に落ち目になりまっせ)。

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お江戸は馬喰町にて二重の再会。

「馬喰町で会いましょう」と久々にお会いするライターの木村衣有子(ゆうこ)さんから。

あー、バクロチョウ。そういえば、総武線(馬喰町)から都営新宿線(馬喰横山)にここでよく乗り換えたが、地上に出たことはない。何となく気になっていた場所だから二つ返事である。大阪にも中央区に博労町(バクロウマチ)という地名があり、京阪神エルマガジン社もかつてはここに3年ほどいた。意味は同様に「牛馬の良否を見分けることに巧みな人。また、牛馬の病気を治す人。はくらく」「牛馬の売買・仲介を業とする人」である。両者とも「問屋街」という共通点がある。

東京駅から総武線に乗って二駅。土曜日の街はノンビリしている。今日は気温も高く、コートも要らないぐらい。木村衣有子さんと夫君のモリオ氏(仮名・彼女のエッセイにはこの名で登場)がすでに待ち合わせの店内にいた。

表通りからちょっとだけ入った[フクモリ]という名前の店はどう考えてもカフェそのもの(あーどうしょ)。何となくファッション業界っぽい客層や店で働く女の子もそれっぽくて(Tシャツにワークパンツ、酒屋の前掛け)、料理が来るまでは「うーむ(何か狙ったような店やな)」という感じであったが、厚揚げに細かく刻んだキュウリの餡がかかった料理を一口食べた瞬間、

「むっちゃウマいやん、これ!」

唸ったのは私だけだったが、対面のご夫妻も顔がユルんでいる。厚揚げの皮はぱりっとしているが、中はとても柔らかく奥の奥まで熱々だ。キュウリの餡は冷たく、豆腐と一緒に食べると口の中が刺激たっぷり。いいねいいね。

その「“だし”かけ厚揚げ」の後、「名物玉こんにゃく」「だだちゃ豆コロッケ」「山形野菜と三元豚のスチーム」「鰆味噌漬け」を3人で互いに牽制しつつ、かつ欲望をむき出しにしつつ(アンタだけやろ)ひたすら食いまくり、最後は各人「ごはん・お味噌汁・香の物」の3点セットでしあわせなフィニッシュとなった。3人とも、酒も飲まないのに恍惚の表情。前掛けの女の子が、にっこり笑いながら皿を片付けにやって来た。

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酒場は、飲めなくなってから恋しくなる。

今日も週刊現代の取材で、大阪市東住吉区にある居酒屋を訪れる。阪和線の東側、南田辺駅の近くである。

小学校の終わりから中学まで百舌鳥駅の近くに住んでいたので阪和線によく乗っていたが、そのころは車窓の景色を見るにつけ「地味な街やなぁ」などと無知なガキの分際で呟いているだけで、当時は天王寺に遊びに行く以外、沿線の街に興味がなかった。店は昭和の初めからやっていたし当然電車から目にはしているだろうが、視界には全然入らなかった(ガキやからな)。それから10年ほどして自転車で大阪のあちこちを走り回るようになりこのあたりもよく通ったが(酒もアホほど飲めるようになった)、こんな店はよう見つけなかった。やはり未熟者の目には入らなかったのである。

先日ここを初めて訪れた時に感じた「あぁええ店やなぁ」という幸せは、酒がぜんぜん弱くなり、胃袋のキャパも縮小した今だからこそ味わえるものであったと今書きながら気がついた。アジの南蛮漬に始まり、おでんの後きずし、もろきゅう、イタヤ貝などで熱燗を飲り、「もうちょっと欲しいけどお客さんどんどん入ってくるし、またの機会に」と、わけぎのぬたやナマコなどが書かれた短冊を後にする。短冊もまた微笑んでいた。

その「またの機会」が4日後にやって来るとは私の運も満更ではない。聞けばカメラマンのモトノ氏も2週間ほど前に編集者と来たという。「え、あそこにまた行けるんですか!?」。声のトーンがすでに違っていたし、料理や厨房を撮る時の気合がマックスである。写真を撮った後の料理を戴くときも、シャッター同様に箸が高速回転していた。

きずしにおからをまぶした「からまぶし」、念願のナマコ、早春の蕗や貝などの炊き合わせは熱燗で、鰻の蒲焼きは生ビールで。毎日、こんなに陶然としてていいのだろうか……(ちゃんと原稿書けよ)。

しかし今日の店も、開店の17時を15分過ぎただけで早カウンターは満杯。お姉さんは次々に掛かってくる電話の主にすまなさそうに「今日は予約でいっぱいで……ごめんなさいね」と答える。私らもそろそろ失礼しましょう。取材らしきことは今日も一応して、「お世話さまでした」と引き戸を開けたら薄茜色の空である。だんだんと日が長くなり、寒いけど春に近づいている。出来過ぎの景色ではないか。

50歳を過ぎてからこんな店に知り合ったので余計に感慨が深くなる。胃袋も肝臓もへたってくると、熱燗の一杯や肴の一品が黄金の輝きとなってくる(バッキーの『京都店特撰』を読むまでは、実は熱燗にほとんど興味がなかった)。けれど帰り際でも短冊の品々がニッコリ微笑んでくれたら「ほなまた、次の時」の愉しみにすればいいではないか。世の中ようしたもんである。

明日お会いする大阪の酒場が死ぬほど好きなあの人は、ここに来られたことがあるだろうか? なかったらぜひお連れしたいところだが、その前に少なくともあと3回ぐらい、ここのカウンターで熱燗と肴でひとりボケーっとしたい。2本開けたらもう限界、安上がりやなぁ。

フェアリー・テールに非ず。

週刊現代の取材で京都駅のそばにある某居酒屋の「テールの煮込み」を食す。

17時開店の店がジャストになった瞬間にもう客が1人2人3人と入り、彼らの「気」を背中に感じつつ八丁味噌のドロッとした汁にしっかり浸かった黒光りする煮込みを口に入れる。その瞬間、肉がほろほろっと口の中で柔らかく崩れて後はすーっとノドの奥へ。思いっきりこってりしているようで実にあっさりの落差が凄い(手間かけてるんやろうなぁ)。

その上品な味に茫然としている私に「ま、ビールでもやってください」とご主人。視界にはチロリからガラスのぐい呑み(これがまた旨そうな形ですねん)に熱燗を注がれ、私以上に陶然としているご年配客が映ったが、ブルブルブルっと顔を左右に振り「いやいやいや、今日は仕事で来てるんだから軽くビールで飲らせていただいて、次にひとりで来た時に熱燗やね(いま熱燗飲んでそのまま家までトンズラできたらどんなに愉しいことか…)」と思いつつ、左手にビアグラス、右手にお箸とペン&ノートを交互に持ち、一応、仕事らしいことをする。

カメラマンのモトノ君のシャッターは超高速でパシャパシャパシャと切られ、その都度カウンターのお客さんから「それいつ出んの?」「どんな雑誌なん?」「小沢の凄いニュースが一緒に載ったりしてな」などと一緒にハシャいでくれる。ええお客さんやなぁ。そうこうしているうちに40分ほど経つと店の20席ほどは完璧に埋まり、私とカメラマンは「はよ出んと売上の邪魔やな」状態になった。

再び新快速で社に戻る。一応原稿はすぐに仕上げた。だがもう一度行って今度はただひたすら飲んで食う、という時間を30分でも過ごしたら、たぶん今日の原稿は全く違うものに書き直してしまうだろう。

たった40分ほどの時間の共有で、そもそも店の何が分かるのか? 分かったことは一つだけ、「もう一度行きたい」それだけである。けれど「もう一度あの場所で時間を共有したい」があるから、店の原稿というのが書けるのかもしれない、きっと。あれは一種のラブレターやし。2月8日(月)の発売日に、ラブレターが下手でも伝わればいいが。

しかし……昼間同じ週刊現代で取材させていただいた某社長は「大阪にもカジノを」と熱弁を振るわれていたが、この店内でもご主人がソウルのウォーカーヒルに行っていた時の話を、お客さんとしておられた。同じ週刊現代の取材で、昼も夜もカジノの話……これはただの偶然!?

空間設計者がつくってきた20年。

間宮吉彦氏率いる空間デザイン集団「infix」が生まれてから昨年で20年(会社創業だと来年が20周年)。

大阪の、とりわけ南船場、堀江、東心斎橋界隈は間宮吉彦がいなかったらかなり違った様相の街になっていたのではないか。それほどこの人がつくってきた店(街の最小単位)は、街でひとびとが過ごす時間や動線、風景などに決定的な(時には徐々に、ゆっくりと)影響を及ぼしている。

特に京阪神に住む30代から50代までの「街好き」な人間と話をしたら、「あの頃よく行っていた店」の固有名詞中に必ず「間宮吉彦設計の」が含まれている。「空間デザイン」という言葉に無縁そうに見えるあのバッキー井上でさえ、木屋町三条の[クック・ア・フープ](1989)には千回以上足を運んでいた。

私は東心斎橋の北エリアが「鰻谷」と呼ばれていた頃に出来た初代[マーブル](1985)が好きで、キャッシュオンデリバリーのバー以上に、韓国料理を出す奥のレストランによく行っていたし、日限萬里子さんの連載担当者だった頃(1997~2000)は、[ミュゼ大阪](1998)の立ち上げから誕生、ブレイクを目の当たりにし、何かといえばあの1階で堀江公園の風をボーッと眺めて和んでいた。

古巣である京阪神エルマガジン社はかつて中央区博労町3丁目にあった(うどんの名店[松葉家]の近く)。敬愛する宮本良介氏が社長に就任した最初の日、「中島くんメシでも行こうや、ええとこないか?」と誘われたので、元四条畷高校ラガーマンで70大阪万博お祭り広場のプロデューサーだった浅野磁氏がやっている[菜々人](1997)にお連れしてしこたま飲んで食った。

この人の「店」をつくるセンスの良さや目の付けどころにはいつも驚かされるというか、逆にとても「真っ当」だと思うことが多いが、間宮氏から当時の店づくりの話を一つひとつ聞いていると、最終的にどんな空間になったか、ということ以上に、「発注者と空間設計者の間に、どんなやりとりがあってその結果に着地したか」というプロセスの話の方が実に面白かった。

ある店は、発注者と友達のノリで進めることがあるかと思えば、ある店は「私らは一切口出しせえへん、全部お任せしますわ」があったり。かと思うと、自分でコンセプトシートをつくり、設計者にプレゼンする人がいたり、逆に発注者が「僕、こんなんがええと思てるんやけど、どやろ?」と相談したら間宮氏が「ああ、それでええんちゃう?」とカウンセラーのような受け答えで結論が出たり……と店をつくってくれと頼んだ人の数だけ、それぞれのプロセスがある。

発注契約書にサインして仕事が始まり、空間デザインを納品してハイ仕事終わり、とは全然違う。店は空間設計者が「納品」してからが本当のスタートだし、そもそも「空間設計者の仕事はここから始まる」という明確な線引きができない、実に水商売的な性質である。

間宮吉彦氏はそのような「やりとり」を楽しめるタフさと引き出しの多さ、「言葉」を空間にする解釈力・構築力があったから今日まで生き残ってこれたのだが、最近は店主の「俺的わがまま」を間宮流に料理した店を見るのが少ない代わりに、ナカノシマバンクス(写真)とか、マルイ新宿本店とか、肥後橋の超高層マンションとか、上海万博日本館とかでその空間を目にする。

infixが20年経って、どういうところは変わらずに継続し、どういうところは変わっていったのか。

20周年を記念して、「何か残るものをつくりたい」ということで、いま間宮氏と構成のよしみかなさん、そして私の3人で、ああだこうだ言いながら「空間の履歴書」めいたものをつくっている。この「ああだこうだ」の熱気も含めて紙の上に落とせれば幸いであるが。今度は逆に140Bが間宮氏の「言葉」を平面にする力業が必要である。弊社も間宮吉彦設計(コンセプトは「小学校の職員室」である)ゆえにそれぐらいできんと、バチが当たるだろう。

できれば書店の平台で、あなたの手に取ってもらえるように。

1.19堤成光ナイト@豊中。

「寄付というのはこの時代、すごく難しいですよ。企業も株主の顔色を気にしますし。だから広く浅く集めるのが大事だと思います。そう申し上げると、三枝さんはウンウンとうなずいておられました」

 

1月19日(火)夜6時半から、阪急豊中駅前東側にある[ホテルアイボリー]にて、第23回「アイボリー・フォーラム」が開催された。この日のお題は書名と同じ「奇跡の寄席・天満天神繁昌亭」。この時に堤さんが話したことは、原稿として何度も読んだ記憶もあるが、それを生身の人間の口から語られると、改めての感慨があった。

特に強調していたのは、彼の職場である大阪商工会議所の伝説の会頭、佐伯勇(元近畿日本鉄道会長)の「経済と文化の両輪」論である。曰く「経済のバックアップがなかったら、文化は育たない。でも経済だけではダメ。両者が互いに発展しないと国は滅びてしまう」というもの。それで佐伯は近鉄や財界活動の傍ら文楽の振興に尽力し、文楽協会の会長も務めて国立文楽劇場実現のために奔走したのである。

「残念ながら、最近の経済人で、こんなことを言う人はひとりもいません」。そして、「これを残さなアカンという文化は、絶対あると思うんですね。市場原理主義で生き残れない文化を助けられる甲斐性が自分たちにあるかどうか、繁昌亭は実に大阪らしい、その成功例だったといえます」

繁昌亭は、国や行政の金銭的支援こそなかったが、6,400もの個人や団体が寄付に賛同し2億4千万円を桂三枝率いる上方落語協会に託した。「経済のバックアップ」が成功したのである。そしてわずか216名で満杯になってしまう小さな小屋が、3年と1カ月で累計50万人を突破し、今も繁盛が続いている状況を堤氏は、このように表現した。

「巨大な文化施設に国から200億出す、という話を聞いたりすると『それ、繁昌亭が100個できるやんか』と思ってしまうんですね。もちろん予算は少ないより多いにこしたことはないのですが、肝心なことは予算が少なかったとしたら、ほな自分たちで支えよう、という気持ちが我々にあるかどうかだと思うのです。2億4千万円というお金を人々から集めて今も人気が続いている繁昌亭の話は、日本全体に誇るべきことではないでしょうか」

その意義が開席から2年を過ぎて忘れられつつあることに危機感を持った堤さんは、「商工会議所の小冊子でもいいし、自費出版でもいいから繁昌亭の本を記録として残しておきたい」と2008年の秋、私に相談してくれたのである。

主催者の「豊中駅前まちづくり会社」の芦田さん(元豊中市助役・駄洒落の天才でもある)から版元の方もひと言、と振っていただき、この本を出すに至った経緯を話させてもらった。聴衆はおよそ30名。比較的年配の人が多かったので、「140Bはダイビル140B号室から取った名前です」と話と、懐かしそうに頷いてくれた。うれしい限りである。

堤さんがシカゴ赴任時代に知り合った某一流企業シカゴ支社の元代表や、『月刊島民』の愛読者である東大阪市勤務の熱血公務員、阪大大学院生の女性など客層もバラエティ感満点だったが、一番びっくりしたのは豊中市で学習塾をやっておられるM氏。終了後のフリートークで……

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堤成光さん、豊中で講演。

取り急ぎ、『奇跡の寄席 天満天神繁昌亭』ファンの皆様にご連絡。

明日1月19日(火)午後6時半から、阪急豊中駅前東側にある[ホテルアイボリー]にて、同書の著者である堤成光さんが本と同じタイトルで、講演する

このイベントは、豊中市にある(有)豊中駅前まちづくり会社が主催する「アイボリー・フォーラム」というシリーズ講演会で、有馬温泉[御所坊]の金井啓修氏や伊丹市昆虫館嘱託職員の河上仁之氏など各界からユニークな実力者の面々が登壇している。講演ゆえに、本ではボツにした「ちょっと活字にしにくかったこと」などのエピソードも登場するかも、です。

そして、地元放送局FM千里さんがご親切に「じゃあ、同じ日の11時から番組に出ていただいて、堤さんの本を出されるきっかけなどお話しください。ラジオを聴いた人がフォーラムに行かれるしれないし」と言ってくれた。

これは私が出ます。周波数は83.7メガヘルツ。「やぁ、みんな」(笑)という訳です。どぞよろしく。

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「奇蹟の画家」との不思議なご縁。

「あ、そうそう。せっかく来ていただいたんだから、新刊よかったら読んでください」

後藤正治さんですやん」

「そうなんです。あまり動いてないけど、これはいい本ですよ」

12月に講談社を訪れた時、加藤晴之さん(元週刊現代の鬼編集長。現在は学芸局の局次長)からいただいたハードカバーには、『奇蹟の画家』というタイトルが付いていた。著者の後藤正治さんは、スポーツノンフィクションで江夏豊ベラ・チャスラフスカ(東京五輪の体操女王)の著書でも有名だし、AERAの人気シリーズ「現代の肖像」では谷川浩司、内田樹、中村玉緒などジャンルを問わず幅広くインタビューしていて、どれも後藤さんしか書けない、記憶に残る文章だった。

『奇蹟の画家』は正月休みに入ってから自宅でゆっくり読んだ。1992年、当時は全くの無名であった神戸に住む49歳の画家・石井一男が[海文堂ギャラリー]のオーナーである島田誠(現[ギャラリー島田]オーナー)に「一度作品を観てほしい」と連絡し、とりあえず期待もせず応じた島田は、ギャラリーを訪ねてきた石井の「女神像」を観て衝撃を受ける。

そこから石井と島田の今日までの関係がこの物語の主旋律となって流れているが、副旋律では、絵など買ったことがない人たちが石井の絵を観て心を動かされて購入し、それが彼らの人生にどのように影響を与えてきたかを、後藤正治らしい丁寧な取材によって何人か紹介している。副旋律と書いたが、絵の作者である石井のコメント(饒舌な人ではない)よりも、絵と共に生きてきた人たちの言葉のほうが、より豊かでリアリティがあり、絵の本質的な価値を伝えてくれる。

それは還らぬ人の部屋に残された絵であったり、大手術を決意した人に寄り添う絵であったり。「バラ色の人生」を後押ししてくれたというエピソードはどこにもないし、どちらかというとシビアな話が多いのだが、石井の絵と共に暮らす「しあわせ」の物語を読むことは、毎晩布団の中での愉しみとなった。

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1枚の紙で16ページの本をつくる。

宣伝会議の「編集・ライター養成講座」に久々に講師で招かれ、「16ページのメディアをつくる」というお題で話をした。

この講座は活動エリアを問わず、関西からも東京からも編集者や書き手、マーケティング担当者、ゲーム作家、プロデューサー、出版社代表などが講師として登壇し、弊社からも江、青山、石原が教えている。

そんな中に私がなぜ講師をしているかと言うと、「販売の立場から言う人がいないので、その視点で」というリクエストからである。けれど、いま受講している19歳から59歳までの「書き手志望、編集者志望、常にネットでものを書いたり読んだりしている人々(けれど出版社勤務ではない)」に、出版社→販売会社(取次)→書店(即売・CVSも)という流通システムの話をしたところで面白くも何ともない。

むしろ、そんなシステムのおかげで「1996年には2兆6,500億円あった出版売上が、2009年には2兆円を切ってしまった。13年で開発途上国のGDP並みの金額が消えてしまった」ということの方がリアリティがあるし、そんな旧態依然たるシステムを突破する人たちの話をした方が面白い。

推薦図書として小林弘人さんの『新世紀メディア論ー新聞・雑誌が死ぬ前に』(バジリコ)や佐々木俊尚さんの『2011年 新聞・テレビ消滅』(文春新書)を挙げたが、残念ながら読んでいる人はほとんどいない(前者が1名)。しかし熱心にメモは取っていた。

そして、既得権から疎外された集団こそが新しいムーブメントをつくっている事例としてミシマ社やトランスビューなどの(販売会社を通さずに書店と直取引する)直販出版社やゲリラ的出版社が次々と生まれていることを話すと、けっこう目を輝かせている。

私は今日の受講生の反応を見て、「かなり時代が変わってきたな」と感じた。みな熱心である。遅刻する人間も少ないし、ポヤーンと口を半開きにして「何ですか~」と入ってくるヤツもいない。私に当てられる前に、一人ひとりが口の中で何か自分なりの答えを模索しているような気配がある。非常にポジティブな「気」が満ちているなという空間であった。

やはり何かつくりたい、自分なりの表現をしたいなと思っているのだろう。ええ感じです。そんなええ感じの人たちにどの程度、贈り物が出来るか分からないが、私が出させて貰ったお題は……

「1枚の紙で16ページのメディアがつくれます。WEBを日々動かしている人たちにこそ、紙のメディアをつくってほしい。伝えたいことを16ページのメディアでつくってみてください」というものであった。

「1枚の紙で16ページ」にきょとんとした受講生もいる。それで宣伝会議の杉浦氏が全員にA3用紙を配り、横長の紙をまずタテに1回折り、続いて横に1回折り、最後にタテに1回折る。合計3回折って、いったん広げると表裏各8ブロックに分割される。そこに上の数字をノンブルの形式(偶数は右下、奇数は左下に入る)で表裏ともに書き込んでくださいと指示する。

もう一度同じ要領で2回折って、まず天地を半分に切る。そうして下になった方を上の紙に重ねると、うまい具合に「1」の裏が「2」その対向に「3」、その後「6」が来るので、「3と6の間」の紙を切ると、「4」や「5」が出てくる。そんな要領で紙を重ねて切ってホッチキスで綴じると、あっという間に1枚の紙が16ページの小冊子に早変わり……した。体を動かして道具を使ってつくる。教室の温度も確実に上がった。

白板にいろいろ書いて説明していた時も面白かったが、A3の紙と格闘する受講生諸君は実に健気でラブリーである。きっと面白いものを1カ月半後に出してくれるに違いない。判型や開きの方向、誌面のテーマなどはいっさい自由。見るべきところは「伝えたいことが16ページにうまくパッケージされているか」「その人にしかつくれない唯一無二のものか」「商品として値札がつくオモロさがあるか」である。値札がつくようなものをつくって、ミシマ社以外にも風穴をどんどん開けてほしいものである。

私も皆と同じようにつくるので、3.6(土)は受講生と勝負である。一つ楽しみが増えました。

そうこう書いているうちに、日付が変わり15回目の1月17日がやって来た。

人ったらしは困るわい@ミシマ氏。

荒木経惟(アラーキー)にカメラを向けられ、言葉にノセられた女性がけっきょく全部脱いでしまう……という体験ルポを何度か読んだ記憶があるが、三島邦弘という男にインタビューされると「何で俺は知らず知らずのうちにこんなことまで話したのだろう」と出来上がった原稿を読んで考え込んだ。別にサービスしようと思って答えている訳ではないのだが……つくづく困った男である。

今や、日本出版界の閉塞状況打開を一手に引き受ける天下無敵の出版社・ミシマ社の代表取締役にして大編集者の三島氏が自社のWEB「ミシマガジン」に私のインタビューを掲載してくれるということで、わざわざ東京から来社してくれたのは昨年の11月27日だった。

以前も『やる気! 攻略本』(写真の後ろでお菓子を食うてるのはミチダ姐さん)というミシマ社の本でこれまたとてつもない人ったらしインタビュアー・木村俊介氏を伴って中之島のダイビルにやって来たミシマ氏から丸裸にされた経験があるが、今回もまさにそうであった。

三島邦弘氏は、きっと一面では江弘毅以上にとてつもない「俺」的編集者であるが、取材対象者と向かい合った瞬間に自分をうまくスッと消す。微笑みは絶やさずに相手の息づかいや「ペース」に乗っかって、語り手が勝手に話してしまうようにいつの間にか「流れ」をつくってしまう。サーファーであり人形遣い(人間遣いか)である。

来週はどんな話がアップされているか想像するだに怖いが、ノセられてしまった私が悪いと割り切って、残りの2週も愉しみにしておこう。

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凍える日にこそあったまる食欲話。

お寒うございます。

今年一番の冷え込みとなった今日こそ、なみなみと張ったダシがふつふつと沸いているような「あったまる食い物」の話で存分に食欲をかきたて、明日の健康の糧としていただきたいものです。

今日19時から開かれるナカノシマ大学1月講座の講師は、辻調理師学校で和食を教え、著者『「辻調」直伝和食のコツ』、『プロのためのわかりやすい日本料理』や人気番組『上沼恵美子のおしゃべりクッキング』でもおなじみ、畑耕一郎さん。テーマは「京都の味、大阪の味」です。

もちろん今日は料理教室ではないけれど、目からウロコが落ちるような京都・大阪の料理の話に、想像力を存分にふくらませていただけること確実。終わった後は、きっと身体がホカホカ、食欲モリモリ、この後何か旨いもん食いに行こかいな、いやいや先生が言うてはった一品を試しに作ってみよかいな……いずれにしても、「関西人でよかった」としみじみ感じることでしょう。

残席はあと若干名残っております。会場に直接お越しになっても全然OKですが、心配な方はまず弊社までお電話くださいませ(06-4799-1340)。現場では大迫や松本、道田、青木、そして中島が受付を務めさせていただきます。

場所は大阪城丸見えの絶景スポット・追手門学院大阪城スクエアで18時半開場、19時スタート。京阪・地下鉄の天満橋駅からわずか300メートル程ですが、スポーツ観戦好きには大阪国際女子マラソン選手と同じコースを通って行く楽しさ(苦笑)も、ちょっとだけ味わってお越しください。

「わたしを変えた1冊」書きません?

出版販売会社の大阪屋さんから、面白いお題を昨年秋に戴いた。

「創立60周年(2009年)を記念して、本と読者の出会いの場を増やす事業をしたいので、手伝ってほしい」

とのことであった。自社本をまだ2点しか出していない出版編集集団に取次業界3位の大阪屋さんが白羽の矢を立ててくれるとは光栄至極であるが、そのココロはきっと

「あそこは変なもん含めていろんなもの作れるし、小回り利きそうだし、安そうだし」

というものかもしれない(特に最後はきっとそうだ)。が、出版がお寒いこのご時世に、大阪に本社のある取次さんから「一緒に盛り上げてくれ」と言われてよっしゃ!と思わんかったらここで出版やってる価値がない。がんこの店員でなくとも「はい喜んで!」である。

それで、大阪屋と本好き読者をつなぐ新しいメディア『本歩(hompo)』を立ち上げ、このメディアの0号を使って本にまつわるエッセイ(「本歩読者大賞」でっせ)を募集し、この3月に発刊される『本歩』第1号でその優秀作品15名分を全文掲載しようということになった。

エッセイのお題は「わたしを変えた1冊」である。応募要項はコレ。呼びかけにはこう書かれている。

 これまでにあった数多くの転機。

その横には1冊の「本」があった。

泣いた。笑った。後押しをしてくれた。

この「本」 のおかげでどれだけ救われたことか……。

そんなシーンを切り取って、あなたと「本」との場面を

ショートエッセイにしてご応募ください。

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河井寛次郎記念館、ふたたび。

久しぶりに河井寛次郎記念館にお邪魔する。

以前は[リーチバー] にまつわる思い出を娘の河井須也子さんからお聞きするためだったが、今回は日本テレネットが手がけている「スローネット」の連載「観るより過ごす美術館」にちなんだものである。橋本麻里さんが書き下ろしているので、これはファンならずともお金を払って読む価値ありのサイトである。

その第1回は油小路中立売にある樂美術館(読めます)、河井寛次郎記念館は第2回で1月22日(金)にアップされる。

原稿については橋本麻里さんが明快かつ体系的かつフレンドリーに河井寛次郎とこの記念館のことについて語ってくれているので、読んでのお楽しみ・しばしお待ちを、なのであるが、私はここにまだ2回しかお邪魔したことはないのに完全にヤラレてしまった。

この美術館が実際に河井寛次郎の住まいであり仕事場であったということが一番の理由であろう。来館者は「河井家」に訪れるように玄関をくぐり靴を脱ぎチケットを買って1階の板の間に入るが、囲炉裏のあるこの部屋に入った瞬間、「寛次郎を訪れたバーナード・リーチ」や「河井家の家族」と同じ目線・同じ気分でくつろいだり歩き回ったりできるのである。

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あれから、1年が過ぎ。

 1年ほど前の日記(2008年11月11日)を読み返していたら、こんなことが書いてあった。

「デザイン出しがスッスッと片付いたお蔭で、三枝師匠のインタビューに同席できた」 

「同席」ゆえ、聞き手は私ではない。インタビュアーは140B創立のころからよく知っている人であった。そのひと月ほど前のある日、思いも寄らない話を切り出される。

「繁昌亭のことを書き残しておきたいんです。できれば本にしたいのですが、中島さんがどこか適当な出版社をご存じでしたら紹介してください。無理でしたら自費出版でもいいし、職場の冊子にしてもいいと思っています」

私が知っている大阪商工会議所の堤成光(しげあき)さんは、会社の立ち上げを応援してくれただけでなく、その後も何かと私たちのことを気にかけてくれる「気は優しくて力持ち、けどいらんことは言わん」という文字通り男前な人だった。そんな人が「自分で書いて残したい」と言うぐらいだから、その決意は並々ならぬものなのだろう。しかも…

「桂三枝師匠に3回ほどインタビューして、改めて振り返っていただこうと思っています。三枝師匠も快諾していただきました」 と聞き、仰天する。物書きでも、ましてやマスコミ・芸能関係者でもない人があの忙しい桂三枝に3度のインタビューを「快諾」させるとは、この人はいったい何者なのだろうか?

頭の回りにクエスチョンマークがいくつも揺れていたが、「それはスゴいですね。楽しみにしております」 と言ってその場は別れた。それからおよそひと月後に、堤さんから電話が入る。

「今日は2回目のインタビューなので、できれば同席してください。三枝師匠には私から説明します」

それが、昨年の11月11日(火)だったという訳である。

至近距離で桂三枝師匠に会ったのは、35年ぶりのこと。あの時はテレビの公開録画だった。

公開録画といっても「新婚さんいらっしゃい!」でも「ヤングおー!おー!」でも「パンチDEデート」でもない。全国ネットではなかったが、サンテレビで毎週水曜(だったと思う)夜9時から「上方落語大全集」という番組をやっていて、これが当時数少ない「中島家5人全員が楽しみな番組」だった。堺の中学生が放課後に電車を乗り継いで、当時は神戸市兵庫区にあったサンテレビのスタジオにわざわざ出かけていったのである。

スタジオにしつらえた畳敷きの客席は150席程度で、客席からお題が出たりすることもあり、この上なくアットホームな雰囲気。六代目笑福亭松鶴師匠の「三十石」が終わった後のインターバルに司会の三枝師匠がクイズか何かを出していて、目の前で手を挙げていた自分がたまたま当ててもらい、賞品を貰ったことは覚えている。大きな、かつ重い狸の置物を堺まで持って帰るのは大変だったことも。普段は視聴者や芸能人を「いじる」三枝が、落語家の顔と衣裳で先輩と後輩に挟まれて寄席を仕切るというスタンスが新鮮であった。三枝も「落語を盛り上げる一人」として自然体で取り組んでいたように思う。

この番組が「長寿」にならなかったことは、彼にとっても無念であったろう。インタビューでの話は一貫して、「噺家として落語をやるための場に飢えていた」「だからその場をつくりたかった」「けれどその場は守らなければすぐに消えてしまう」というもので、デビュー以来40数年の歴史の断片が垣間見えたが、その断片はあくまでも「お笑い芸人」「司会者」でなく「噺家」桂三枝の歴史だった。

三枝師匠は斜め向かいで話を聞いている私の存在をどう見ていたのかは分からないが(ほとんど目を合わせなかった)、堤さんの質問に訥々と、かつ静かに答える彼の姿勢は真剣そのもので、「この2人には、他人には分からない絆のようなものがあるんだな」と理解する(後に原稿を読めば腑に落ちた)。

この時に凄いと感心したのは、日本人1億3千万人のうち1億人は知っているであろう桂三枝を前にしても、いつもの堤さんらしく「あーそうなんですか」「それは大変でしたでしょうね」と相づちを打ち、淡々と無駄なくインタビューを進めていることである。決して強引でもなく、遠慮気味でもない。自らの職務に忠実な仕事人・堤成光の顔が実に新鮮だった。

1週間後の11月18日(火)、再度インタビューに同席した私は、帰りに堤さんを茶屋町の喫茶店に誘い、おそるおそるだがこう切り出した。

「繁昌亭の本、よかったらウチでやりませんか?」

あれから1年が過ぎた。本が世に出ただけでなく、いろんな新聞や雑誌にも紹介してもらい、あの平川克美さんからもお褒めを頂戴した。今日も朝日ファミリーに紹介されている。繁昌亭内の売店でも大変好評だと聞いた。版元として実にうれしい限りである。

しかしそれ以上に「今までに誰も書いていなかった繁昌亭の本」の件を真っ先に私たちに相談してくれたこと、連休や夏休みそっちのけで3ヵ月間書いてくれたこと、発売後も自ら書店を回り、販促をしてくれていること。そんな著者と関係が持つことができ、著作を通じて新たな読者が生まれたことが、何よりもこの1年間の大きな財産であり収穫である。

雨中のナカノシマルシェ。

このところピーカンの日なたに出ずっぱりで、鏡を見るごとに「私の顔はこんなんやったかいな?」と独り言をほざいてしまうようなマルシェ(産直農産物市)呼び込みの日々が続いていた。

そしていよいよ本日、「大阪テロワール(固有の物)」を掲げるマルシェ部隊は中之島へ上陸。三橋美智也ではないが「夕焼け空がまっかっか♪」の下で家路を急ぐ島民の皆さまに野菜やお米を売ろうと目論んだが、会場である水都大阪2009水辺広場は一転して雨。お彼岸の一心寺、日曜の天保山マーケットプレースとは違い、夜の帳が降りる雨の中之島公園は実に物哀しい。そして寂しい。

中之島中央公会堂前で濡れた歩道にて呼び込みをするも、大して人通りがないから声が空しく雨空に消える。が、やはり少ないながらも通行人の3割ほどは「何事や?」とばかりに水辺に並ぶマルシェのテントを見て「へぇ~」と言いながらそのまま通り過ぎたり、テント目指して寄り道したりという感じである。昨日のポスティングのお蔭か、チラシを持って買いに来る人もしっかりいた。

とはいえこの天気、「野菜買って帰ろ」という気分ではない。しかし出店者の人たちは意外に陽気だったのがありがたい。「こんな日もあるわいな」と軽く思ってくれたならうれしい限りである。私の戦利品は淡路産のプチトマト、丹波産のオクラとツルムラサキの葉っぱ、黒豆茶、和歌山産の味噌を、長友啓典さんのロゴがかわいいトートバッグ(1,200円で発売中。大は1,600円)に入れて会場を後にした。

しかしもっと料理のレパートリーを覚えないと「生で食うorレンジでチンする」というワンパターンで人生終わってしまいそうな気がする(たぶん弊社男子の中では私が一番持ちネタが少ない)。どなたか会場で「あなたも簡単にできます野菜の食い方料理教室」やってくれへんかいな、ええ匂いもして一石二鳥やし……。

一転して明日10月1日(木)はここ中央公会堂で、知のスーパースター3人(鷲田清一、内田樹、釈徹宗)と平松市長がナカノシマ大学キックオフの記念セミナーで19時から登壇する。終演後会場でスペシャル大学芋を売ります。それもお楽しみに。残席がまだ少しだけあるはずなので、「行きたい!」と思った人はtel.06-4799-1340(140B)までお電話ください。では9月はこれにてさようなら。

大阪マルシェ、天保山へ。

連休は天王寺区の一心寺にて開催した産地直送の野菜市「大阪マルシェ“ほんまもん”」は舞台を天保山マーケットプレースに移し、海遊館の巨大な外壁を臨む場所で朝からテントブースが張られた。

私は午後から参加であったが(午前中は青木と道田)、どうせ水の傍へ行くのならうれしがって船でまいろう(時間もそない変わらないだろうと高をくくる)と、阪神なんば線で西九条に出てJRゆめ咲線に乗り換え、USJ客を横目に終点の桜島まで行ってそこから河口の工場&倉庫街を歩く。

十数年前、まだUSJが出来てなかった頃は、日立造船の工場がひと際存在感を醸し出すエリアだった。「ご安全に」という印象的な標語が大きく出ていたのを思い出すが、今や駅の背後にUSJの施設がドンと控え、日本の港町離れしたそらぞらしい風景に変わっている。 それでも此花桜島郵便局から渡船場までの食堂や喫茶の並ぶ通りは、たぶん昭和の頃からこのままであろう、夕日が似合う生活者の道である。休日のため店が休みだったのが残念。 渡船場に着いたが間一髪アウトで次の船まで時間を潰す。

対岸に天保山客船ターミナル、海遊館、今日の会場であるマーケットプレースが指呼の距離にあり、泳いで行けそうな気もするが思いとどまり、船を待つ。 ヨーロッパ製の高そうな自転車に乗ったオヤジやご近所散歩の老夫婦、ママチャリおばちゃん、乗り物オタクそうな青年、クルマを桜島側に停めて乗船するカップル、海遊館目当ての家族連れなど、混雑まではいかないがヒトビト感満点の客層である。こんな季節、やっぱり船はよろしな。

現場に着くと、前日から周辺の住宅地にチラシをポスティングしたおかげで、朝から好調だとの報せ。めでたい! 地元客と観光客とが混ざり合い、不思議な雰囲気を醸し出していた。一心寺と違ってこちらは四方八方からお客さんが押し寄せる。ブースこそ少ないが向かって左が淡路島、右が泉州。前者は「冬瓜、玉ネギ、無農薬米」などが売り、後者は「水なす、蜂蜜、紅あずま(さつまいも)」。甲乙つけがたい。

前回とは違ってスタッフの客あしらいも少しずつ慣れてきたような気がするし(自分自身もそうである)、お客さんの滞在時間も心なしか長くなってきたような気がする。私は1時間半ほどしかいられなかったが、どんどん減っていく野菜を見て安堵し、泉州ブースで前回(一心寺)のリベンジをすべくその蜂蜜と小芋、紀州の梅を買って帰った(淡路島は次回ね)。

ちなみに阪神電車で天保山に行くには、なんば線の九条で降り、そこから地下鉄中央線に乗り換えて大阪港、というのが一番の近道だと分かった。それぞれの九条駅は随分離れていると思ったが、実際に利用してみたらすぐ。先入観というのはコワいものである。

そしていよいよ9.30(水)には、このマルシェがわが地元・中之島にやって来る。場所は中央公会堂南側、水辺広場、初の「夕市」です。みなさま、川べりで逢いましょう。

「呼び込み」という広報。

9.21(祝)も19(土)に引き続いて9:00より「大阪マルシェ“ほんまもん”」にお参り客を誘導するべく一心寺正門前に立つ。ご覧の通りこれは誇張でも何でもなく、同じ時間に撮った写真。お客さんの数が圧倒的に増えていた。

この日は第2会場である一心寺北会所(写真正面奥)を閉め、ここから南(左側)に50メートルほど行った一心寺シアター前駐車場に即売テントを集中させたので、とにかく左方向にお参りが済んだお客さんを誘導する形である。チラシ配布スタッフは別にいたので、私はこの位置でひたすら呼び込みを続けた。マルシェで買った丹波の栗orネギを右手に持ち、左手には矢印ポップ。声だけでは足りんので視覚に訴えるのである。

「大阪マルシェ“ほんまもん”はこちら左手すぐの会場でございます~。早朝より地元農家の方が採れたての野菜や食材を積んでここ一心寺へとやって参りました。丹波の栗、泉州の水茄子、淡路の玉ネギ、伊賀のお茶……そのほか地元自慢のお米、卵、ジャガイモ、サツマイモなど。変わったところでは水茄子カレーや蛸カレー、生のブルーベリーやそれでつくったジャムもありまっせー」というフレーズを、微妙に固有名詞を代えながら繰り返す。

喋っているうちに、一心寺にお参りをする人の背中に印象的なフレーズを残せば、帰りに寄ってくれる確率が高いということに気がついた。必ずまたここを通ってくれるから有り難い。逆に、お参り後のお客さんにいきなり言っても、よっぽど野菜やマルシェに興味がある人でないと方向転換させるのは難しい。それで参拝前のお客さんからも見えるように、ポップの裏にも矢印を書いた(写真下)。それでどの程度効果があったかどうかは分からないが、現場でお客さんを呼ぶためにアレコレ工夫するのはやはり愉しいものである(自己満足かもしらんけど)。

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一心寺に、野菜買いに来てくだされ。

「(チラシを差し出し)とれたての野菜市やってます。お参りの帰りに寄ったってください」

「(お参りに来られたある女性)どこでなん?」

「一つは、こっから左に行ったすぐのところ(一心寺シアター前)で、丹波の栗やら淡路の玉ネギやら伊賀のお米やお茶を売ってます。もう一会場(一心寺北会所)は、あそこに旗(写真の正面左奥)が見えるでしょ? 泉州の水ナスやら春菊やら和歌山のトマトやら……卵もええのありますよ」

「そうなん? なら帰りに寄るわね(チラシを受け取って一心寺の境内へ向かう)」

出版社で企画・編集・執筆のプロダクションでもある140Bが、産地直送の野菜市をやっているのはまさしく「畑違い」ではあるが、月刊島民やナカノシマ大学の仕事をやっているうちに、私らなりに「働く場所としての地元」自体をもっと盛り上げなアカンわということになり(というよりも面白そうだし愉快な人たちがたくさんいるので)、この10月から本格的に始まる「大阪マルシェ“ほんまもん”」の事業に積極的にかかわることになった。

事業主体はこの夏に立ち上がった「マルシェ・ド・大阪テロワール実行委員会」で、農林水産省の平成21年度事業「マルシェ・ジャポン」(簡単に言うたら産直農産物の即売市を都会で普及させるというプロジェクト)を全国で担う10団体のうちの一つである。

この「マルシェ・ド・大阪テロワール実行委員会」には財団法人泉佐野市公園緑化協会、ワイルドプラン、都市文化研究所と共に140Bも入っていて、月刊島民やナカノシマ大学でお世話になってる電通チームの皆さんやイベント会場設営のエキスパートの方、生産者と強力なネットワークを持つ面々と一緒に8月以降わいわいがやがやとミーティングを積み重ね、「まずは9月19~21日の一心寺会場で試運転」ということでスタートした(写真は一心寺北会所会場)。

 

四天王寺から徒歩7分、天王寺駅からも恵美須町駅からも徒歩10分という、上町台地の「ええとこ」を背負って立つようなロケーションに建つ一心寺。実は今回が初めてと恥ずかしさ満載なのであるが(前を何度も通ってはいた)、辺りの空気は私にとって「大阪の好きなものの一つ」である。

お参りに来る人のエネルギーを感じていると、大阪が落ち目だというのは目に見えている経済的指標がどうやこうやというだけで、数百年続く「お彼岸」の熱気の前にはそんなものは全くかすんでしまう。ここでマルシェをさせていただくことに尽力してくれた、天王寺区がホームグラウンドの田中邦子さん(料理の名手でもある)曰く「お彼岸で10万人は来ますからね、マルシェのことを知らせるにはもってこいでしょ?」

10万人!? 甲子園球場を2回満杯にしてもお釣りが来る人数ではないか。そんなヒトビトにチラシ(今回の出店生産者や今後の予定が書いてある)を配り、マルシェ会場へ誘導して買ってもらえるなら万々歳である。それで19日(土)朝9時に会場入りし、2会場を挟む位置にある一心寺正門前で、ひたすらチラシを配り呼び込みをした。新刊発売記念キャンペーンを書店でするのとやや勝手が違ったが、お客さんの前に出るライブはやはり楽しい(写真は一心寺シアター前会場)。

冒頭のようなやりとりを信号待ちのお参り客や参拝後の人たちと何度も繰り返す。普通、あのような広告宣伝物を差し出しても素通りされることが多いのだが、ホンマに2人に1人ぐらいの割合でチラシを取ってくれた(たいていは女性。オーバー40)。 のみならず、「マルシェって何なん?」と大概はつっこみが入り、これに受け答えするのがまた面白い。

中にはわざわざ「モノはよかったよ。安ぅはないけど(笑)」と戻って報告してくれる人や、「そのチラシ、ウチの店にも置いたげよか」という新町の雑貨屋さんなどコミュニケーション旺盛な人が多い。私に対する呼び方も「お兄ちゃん」から「ご主人」までさまざま。しかし、「お彼岸に一心寺さんに行ったら、楽しそうなことをやっていたので寄ってみた」というニュースを少しだけでもプレゼントできたのではないか。

この「ニュース」である大阪マルシェ@一心寺は明日21日(祝)まで、9:00~14:00の間やってます。場所は同じく一心寺シアターと一心寺北会所。正門前で、こんなノリの人たちを見かけたら「チラシおくれ」「まだええの残ってんの」とお声がけください。私も朝からいてます。

頼む、もうちょい見せてくれ。

9月15日は天満天神繁昌亭の誕生日。今日で満3歳になった。

 

青木と私は午前10時からの3周年記念式典をこの目で見ようと正面玄関の前に陣取っていたが、いかんせんこの雨。傘の花が咲く中、月亭八方師匠の司会で10時05分から式典が始まった。

「玄関前のこのカメラの放列を見ておりますと、酒井法子の保釈を撮ろうと陣取る湾岸署を思い出してしまうのですが」と八方らしく時節ネタで笑いを取る。

桂三枝上方落語協会会長の挨拶、土居年樹天神橋筋商店連合会会長の祝辞。その後は鏡割りで振る舞い酒の接待にあずかり、さぁ支配人の恩田さんと協会の小山さん(事務局長)にご挨拶して売店を覗いて帰ろかいなと思っていたら、天神橋筋の和菓子店[薫々堂]の林喜久さんがいるではないか!?

 

 「まいど。アレすごくええ本やないですか!?」

[御菓子司 薫々堂]はこの界隈でもう150年近く営業している老舗の和菓子屋さんだが、いつの時代にも「ひとびと」を惹きつける新しいヒット作を次々と生み出してきた。お茶会にも使われる生菓子もあるが、近所の子供が小銭を持って買いに来る饅頭や冷菓もあるし、季節のフルーツを使った大福といえばもう……の勢いである。林さん、あの本どこで読んだんですか!?

「へっへー、実は」

まだ関係者にしか渡っていない堤成光さんの『奇跡の寄席 天満天神繁昌亭』(弊社刊)であるが、さすが天神橋筋ネイティブはハヤい。と、そのとき背後から……

「素晴らしい本が出来まして」

と三枝会長の声がした。鏡割り→振る舞い酒の後、同じ場所で「囲み取材」のような感じで答えている。先ほどの式典ほどの音量はないが、「この繁昌亭が出来るまで、そして今日までの記録としてぜひお読みいただければ」という台詞がハッキリ聞こえる。手に持っておられる本は、もしや……!!

両サイドのカメラマンさん、もうちょい開けたってくださいよ。でも考えてみれば彼らがしっかり仕事してくれた方が、「桂三枝with自社商品」という普通に考えればウン千万円ほど積まないと実現しないような映像をタダで撮っていただき、かつ当サイトの1,000倍以上の人が観られる訳である。ですから皆様、こんなギリギリの写真で我慢してください。あとは新聞やテレビの方、ちゃんと載せたってくださいね、ええ場所で写真撮ってんねんから。

『奇跡の寄席 天満天神繁昌亭』(税込880円)は、9月15日は繁昌亭内の売店と天神橋筋の[西日本書店]のみで発売したが、16日からは順次、一般書店の店頭に並びます。

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9月12日の大ビンゴ@浅草。

起きて外へ出るとどしゃぶりの雨。土曜日の天気としては最悪だったが、参加者の方々にとってはそんなことは関係なかったようである。

11:30に雷門でバッキー、平川さん、桃知ファミリーと共に集合し、鰻の名店[小柳]にて本日の受付を担当していただく桃組のアベさん、東山さんと合流。鰻重で腹ごしらえをして(このあたりが浅草のたまらんとこ)、とことこと合羽橋商店街を抜け、台東区生涯学習センターへ向かう。

やはり[合羽橋珈琲]には人の足を止める力があるのであろう。時間の余裕もなかったが、ここで休憩して1杯。平川氏、バッキー共にここや[小柳]を「ええ店やなぁ」とホメちぎる。桃知さんがきっと一番うれしいだろうが、私自身もすこぶるうれしく感じ、お前はどこの人間やねんと自分自身に軽く突っ込む。

13:30に全国から集まった中小建設会社の人々による「桃組」の会合が504号室で始まり、最初に登壇した成田で建設会社を営む平山秀樹氏が、いい街の条件として「異人(よそ者)の存在」 「過去の遺産」 「自由」 「往来の大切さ」を挙げておられた。京都にしても浅草にしてもまさにその通りだと感心。

その後、桃組の主宰者である桃知利男氏が「共同体性を保ちながらいかに外とつながるのか」という話をする。その試みの一つとして「ブログを立ち上げること」を改めて言っておられたが、桃知氏がブログ立ち上げで「入力の仕方」を指導するために140Bに来社されてからもう2年が過ぎたのだと感慨に浸ってしまった。2007年の8月に立ち上がったこのブログのお蔭で、バッキー井上の『京都店特撰』という連載がその年の11月から始まり、それが40回ほど続いて初の自社発行本が出来たのである。

休憩時間の後、そのバッキーと平川克美さんが入場。参加者も40人ほどに増え、15:15にいよいよメインイベント第1部が始まった。まず私の方から、桃知さんのつくってくれたブログなしにはこの本は生まれなかったこと、そして平川さんが会社立ち上げや経営のアドバイスをしてくれなかったら弊社が生まれることも続くこともなかったであろうこと、ゆえに今日は著者と版元とでこの本を支えてくれた恩人への「ご挨拶」で浅草にやって来ましたと少し謙虚な前振りをしつつ、でも売れ残った本をかついでとぼとぼ大阪に帰るのは悲しいので皆さん買ってねと厚かましく押して笑いを取り、二人にマイクをバトンタッチした。

実はこの二人は今日が初対面である。けれど3分も経たないうちに両者の息が上手く合い、互いのリスペクトが場内をハートウォームな雰囲気にしていた。平川氏はバッキー井上という書き手の「非凡さ」について、「肯定と否定が共存するスタンスだから文学になるし風通しがいい」ということをいろんな事例を挙げながらひたすら賞賛し、バッキーは歓びながらいつもの「間」で応じつつ「平川さんはスパイ度が高い」と、また独特のフレーズで返す。「スパイ度が高い」とはバッキー的には偵察能力が高いということではなく、「ゴルゴ13のあったかい版ですわ」なのである。場内大爆笑。バッキーには東京も全然「アウェー」ではなさそうだ。

話題は「酒飲みはせこい」から始まり、バッキーがコースターになぜフレーズを書くようになったかの話の後で自らの青春時代へと変わり、「“サタデー・ナイト・フィーバー”のような配管工をなぜ辞めたか」「踊り子だったころ」「父親に対するコンプレックス」などへと発展し、バッキーと10年以上仕事をやっている私ですら「へぇー」と初めて聞く話満載で全く退屈しなかった。

「お猪口の形を選ぶ人間の法則」や「建設業界に新たな需要を創り出すビジネスの提案」など、いつものようにブッ飛んだ話で皆のホホをどんどんユルませてくれた。しかし「エアコンのおかげでどの家どの会社も窓をすべて閉め切ってしまい、外からも中からも人のざわめきが聞こえなくなった。最近の街はちょっと危ない」との発言は、建設会社の人たちには実に新鮮な問題提起であったと思う。

平川さんは先輩として、バッキーがひたすら「おいしいフレーズ」を繰り出して場内を盛り上げるためのホストに徹してくださったようで、ひたすら頭が下がる。霞ヶ関の官僚や財界人に講演されるような人なのに、ホンマにありがとうございました。

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9.12浅草&合羽橋はあなたを待つ。

明日(もう今日だが)の『京都店特撰』発売記念イベント~バッキー井上&平川克美さんの対談が行われる「台東区生涯学習センター」に桃知利男夫妻と一緒に下見に行く(右は504号室のカギを開けてくれた警備員さん。ありがとうございました)。多数の方に申し込んでいただき、バッキー&平川ファンの多さに感謝感激である。

最初、会場名を聞いた時は「きっと、公民館に毛の生えたようなトコなんや」「あの二人には全然似つかわしくない名前ですな」と思っていた。 しかし現場に行くとびっくり。「もっと早く下見に行けばよかった」とつくづく反省。ロケーションといい施設といい実に洒落ている。

携帯カメラでは最大広角にしても一部しか写らない規模である。入れば巨大な吹き抜けの空間があり、スケルトンエレベーターに乗って504号室を覗かせてもらう(写真下のカウンターを右に行きます)。

生涯学習センターだけに部屋自体は京都の[アルペジオ]に比べると華やかさには欠けるが(当たり前か)、壇上にバッキーと平川さんが立つと感じがガラリと変わりそうである。

1階は台東区立中央図書館。この中に何と![池波正太郎記念文庫]というスペースがあり、「鬼平」「藤枝梅安」ファンは必見。「俺もあんな机が欲しいよ」と桃知氏を唸らせた書斎(復元)をはじめ、著作本コレクション、遺品の数々、自筆原稿に自筆絵画、そして「剣客商売」など人気作品コーナーなど、「こんなん、タダで観てよろしいんでっか!?」と思わず唸る超サービス精神満載エリアである(撮影不可なのでこれでご辛抱を)。

会場には上がらずにここで2時間ゆっくり過ごして終わり、という危険性もあるな(平川さん、ちゃんと上がって来てくださいね)。ここでは常時イベントもやっていて、今なら「池波作品の舞台は今~蝶の戦記」(9月16日まで)という展示もしている。

周辺のロケーションがまた合羽橋(かっぱばし)商店街という、お江戸料理人の聖地のような商店街(大阪で言うと道具屋筋)の終点にあり、刃物に鍋、陶器、漆器、包装用品、お菓子、おつまみなどの問屋が160軒以上並んで小売りもしている。私もこの後に行く場所への差し入れのため、思わず駄菓子問屋で煎餅を買ってしまった。会場までに手ぶらで入るのはこれまた至難の業だと言える。

商店街散策が終わり、生涯学習センターに入る直前には[合羽橋珈琲]というええ店があり、おいしい1杯でくつろいでいたら「あぁ愉しい散歩やったね。浅草寺にでも寄って帰ろか」という気分にもなりかねない。「抜群のロケーション」とは、実は諸刃の剣であった。しかしそんな場所で自社イベントができる身分はしあわせとしか言いようがないが、「主催者」よりお客さんで来たかったなぁとちょっと残念な気もするなぁ(贅沢者め!)。

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バッキー井上&平川克美、夢の対談。

皆様をやきもきさせていた東京での「『京都店特撰』発売記念読者のつどい」を9月12日(土)、浅草にて行うことが決定した。

このイベントは140Bサイト「岸和田・浅草往復書簡」でもおなじみ桃知利男さんが主宰する「桃組」イベントの一環として行われるもので、桃知氏のクライアントである中小建設会社の面々が全国から参集する実に賑やかな会合である。こんな場所に「ぜひバッキーを」とご指名がかかるのだから、彼の顔も徐々に全国区化してきたと喜ばしい限り。

当日のゲストは、近著『経済成長という病』で「経済社会のありよう」に見事な一石を投じた平川克美さんである。バッキーの本をご自身のブログでもリスペクトしてくれていて、桃知氏に負けず劣らず浅草が大好きな「街の玄人」。要するに「京都の玄人」と「江戸の玄人」が浅草を舞台にそれぞれの街や店の「おもしろさ」を語るという展開になりそうである。この二人は当日が初顔合わせゆえ、どう話が転ぶか私にも全く見えない(笑)。

桃知さんのサイト(モモログ)によれば、当日は台東区生涯学習センター504号室にて13時半の開始だが、バッキーと平川さんが登壇して丁々発止となるのは15時15分からの予定。それまでは「桃組」の報告会。これも面白そうなので最初から来ていただいても全然OKです。どうぞよろしく。

第1部は17時に終わり、第2部は18時から。会場は本ブログでも何度もご紹介した浅草ホッピー通りの人気ナンバーワン店、ヒトビト感満載の[居酒屋浩司]である。生涯学習センターからは徒歩10分ほどこの日は貸し切り。バッキーと平川氏を肴に飲み&食べ放題なので、夕暮れの通りを眺めつつ(これがまたたまらん)大いに愉しんでいただきたい。

もちろん、当日も会場で本を売ってます。 まだの方もご安心を。

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そして、古河大阪ビル4階。

「おやすみなさい」などとダイビルの140B号室で呑気にブログを締めくくってから7時間後には、眼前でこのような光景が繰り広げられた。

あれよあれよと言う間もなく、段ボールの山が次々と運び出されて弊社は1時間も経たないうちにもぬけの空に。それから約6時間後、ダイビルから徒歩5分の渡辺橋北詰にある古河大阪ビル本館4階では事務所らしきものがもう出来上がっていた。この写真2点は8.28(金)夜の段ボール満載写真同様、私の席からのアングル(下写真/右から青山、青木、道田)。

絨毯がライトグレーのため、同系色の机や椅子、打ち合わせテーブルや棚とこちらはこちらでよく調和している。天井が低くなったが、明るさが増したように思う。そして正面奥(入り口からはすぐ)にはダイビルから持ってきた天地120×左右450センチの巨大白板がデン。真ん中に白っぽい帯のようなものがあるが、「このままの大きさだったら階段の踊り場を通れない」ということで、引っ越し屋さんが真ん中でいったん切断し、部屋に運び込んでから接着した。その名残である。

左斜め前には打ち合わせテーブルと新しい白板。打ち合わせスペースも白板も倍になったので、これまで狭いところで窮屈な思いを我慢していただいたお客さんには、少しはゆったりできるかもしれないが、そんな時に限ってお客さんが一時に大勢来られたりするからなぁ(でもお越しくださいね)。

ダイビル時代に弊社の向かい、137号室にいたクエストルーム(代表は弊社役員の石原卓)とは、この古河大阪ビルでルームシェアをしている。部屋の入り口に表示板があり、右はクエスト、左が弊社。

「シブヤ系のカフェっぽい編集室やけど、これが140Bかいな?」

部屋に入ってこんな疑問を持たれたあなた、すぐに入り口まで戻って左に入り直しましょう。弊社はカフェどころか「小学校の職員室か捜査一係」だし、平均年齢も軽く10歳は上ですから。でも「カフェっぽいページを作ってもらった方がいいかも」というお客さんには、入り口まで戻らなくても「専用通路」経由でクエストまでご案内いたします(笑)。

ほかにもいろいろありますが、弊社のスタッフが新事務所については順繰りにいろいろ書くことでしょう。このビルには「屋上」というとっておきのネタもありますんで。

しかし私は何と言っても、イートインもテイクアウトもOKの、地下1階のパン屋[ボンシャンヌ]。これが同じビルにあるというだけで残り人生の愉しみが5%増になった。ダイビル時代から午後4時を過ぎて小腹が空いてくると、田蓑橋をトコトコ渡ってここで「あんドーナツ」や「クリームデニッシュ」をゲットし、スタバのコーヒーと共に至福のひと時を過ごしていた。それが明日からは「エレベーターに乗ってすぐ」という毎日。今のところはそれだけでも生きる力が湧くというものだ(それだけかい)。

[ボンシャンヌ]については、9.1(火)発行の『月刊島民』にて松本創が書いているからどうぞお楽しみに。

明日午前10時より、140B新事務所が正式にオープンします。 住所だけでなく電話番号などのご登録変更もぜひ。

〒530-0004  大阪市北区堂島浜2-1-29  古河大阪ビル4F

tel.06-4799-1340 fax.06-4799-1341

 

最後の夜は社名の話で。

ダイビル最後の夜を、最後の一人として居残りさせていただく。贅沢な時間ではあるが、視界はこの通りである。明日は8時半から引っ越し作業なので仕方がない。

しかしこのビルのお蔭で、ホンマに愉快な3年半を過ごさせてもらった。感謝してもしきれないけれど、このご恩はどこかで誰かに返したいと思っている。仕事の本質は「パス」をすることだと内田樹先生も書いておられるし。

思えば、会社を辞めた翌日(2006年3月1日)にこのビルで石原、江と3人で「新会社をどうするか」を話し合った。石原は弊社の役員であるが、お向かい137号室のクエストルーム代表でもある。彼が江と私がつくる新会社を「ダイビルの中へ」引っ張り込んでくれたのである。

京阪神エルマガジン社在籍中、特に最後の5年間(販売部時代)は特集タイトルや本のネーミングでは編集にいたころより「切れ味」が増したと自負していたが、肝心の「自分たちでつくる新会社のタイトル」は何を出しても全然ダメだった。社名も決まらないまま3月を迎えていたが、ひと月で新会社の定款を作り株主を募り資本金を集め登記設立をせねばならない。非常に重苦しいどしゃ降りの雨の日だったと思い出す。

弊社の隣、142号室で3人がテーブルを囲む。

江「イシハラくん、ウチはどの部屋に入れるん?」

石原「今やったら138か140Bですね」 

中島「イチヨンマルビー……(!!)」 

建物と空間のチカラ畏るべし。2月にあれだけウンウン唸っていろいろ考えても満足なものが出なかった社名なのに、部屋番号という風が突然吹いてくる。しかもダイビルの140B号室ということは、少なくとも80年以上続いている由緒ある部屋。こんな場所を社名にしない手はないし、何よりも社名を音読した響きがよかった(R音も濁点もオンビキも入っている。 “Meets  Regional”と同じ)。

しかしそんな名前、ホンマに会社名として登録してくれるのだろうか? 翌日に江と、天満橋の大阪法務局を訪れた。この頃はもうアルファベットや数字も社名として認めてくれるようにはなっていた。「株式会社イチヨンマルビー」ではなく「株式会社140B」もイケるかもしれないと設立登記相談窓口に問い合わせたのである。

「株式会社140B? 大阪市北区でね。ちょっと待ってくださいよ……あ、大丈夫です。登記できます。念のため、今日の日付を書いておきますね」 

「140B」というのは私の字、「大阪市北区」「株式会社」「OK」という字は窓口におられた植田さんという方のサインである。平成18年3月2日というスタンプとご自身の捺印までしてくれた。設立の話は140Bという固有名詞が決まってから一気に加速し、石原のクエストルームで居候しながら会社の定款をシコシコと作り、我々3人以外の株主(発起人)を8人募り、定款に実印を捺して資本金を振り込んでいただき、公証役場で発起人全員の実印が捺してある定款を認証してもらい、そして3月31日に銀行から株式払込金保管証明書が発行される。

月明けの4月3日月曜日、めでたく株式会社140Bの設立登記を迎えた訳であるが、よくよく考えてみると生まれてからこの時まで、法務局に行ったことなど一度もなかった。そんな世間知らずの人間が「経験したことがないこと」を1ヵ月でやることが出来たのも、やはりダイビルの力であろう。

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強烈な読者は突然、現れる。

24日(月)のブログで、22日(土)に京都で行われた『京都店特撰~たとえあなたが行かなくとも店の明かりは灯ってる。』発刊記念トークショーのことを書いたが、そこに参加されていた心斎橋[ザ・メロディ]のモリモトさんが自らのブログに、このバッキー本に凄いファンがついていることを紹介してくれました。

百聞は一読、いや写真入りだから一見にしかずか。明日から毎日、「芋たこなんきん」食べまっせー(古いか)。

晩夏のサタデー・イノウエ・ショー@木屋町~裏寺

ちょっと報告が遅れて失礼したが、8.22(土)に『京都店特撰~たとえあなたが行かなくても店の明かりは灯ってる。』発刊記念イベント第2弾の「バッキー井上の“テクスト”を読む。」と題したトークショーを京都で開いた。写真は参加者への直筆サイン・コースターで、ちゃんと会場の焼印も押してある。

場所はこの本の59ページに登場する木屋町の[アルペジオ]。バッキー曰く「まるで夜の京都のセントラルステーション。カップル合コン単身赴任、背広とアロハが入り乱れ、芸能人に酒場の女、口説くテーブルシャンパン攻撃、待ち人多しカウンター、始発待ってるナニワの娘。様々な体質の奴がそれぞれの動機でやって来てそれぞれに店と関わっている」(『京都店特撰』より)と最上級の賛辞を惜しまない、ヒトビト感満載の空間である。

ショーはまず江弘毅が単独で登場し、なぜバッキーのテクストは取り上げるに値するのかということを、若干アウェー(江にとっての京都)ゆえにやや緊張しつつも、「ジグソーパズル」を例にとって説明する江らしいトークから始まった。

「完成させる最後のピースが最初から決まっているような文章なんて面白くも何ともない。井上さんの(さん付けですね今日は)書いたものはどこに転ぶか分からない危うさとブレイクスルーがあるからたまらん」。乱暴に要約すればこんな感じか。会場が江の主張にウンウンとうなずき始めたあたりで主役の登場である。

それから約1時間ほどは「絶対ケンカが多いはずや、この店は」と江が乱暴に決めつける(それを聞くたび苦労人マスター氏は苦笑いしていたが)空間に似つかわしくなく、ほぼ全員が『京都店特撰』をテーブルに広げ、バッキーの表現の唯一無二さに笑ったり感心したり、「期待したものが返ってこなかったらすぐ不機嫌になる人間はヘンコリスト行きや」というバッキーの主張に「そやなそやな」と納得したりであっという間に過ぎていった。

なかでも江はいきなり79ページの「真智子の膝はごく普通だった。ごく普通」(診察室には女医がいた)について、「ごく普通」という単語をリフレインさせたバッキーの「やらしさ」を見逃さず、あの勝ち誇ったような笑顔を振りまいて客席にアピールしていた。逆にバッキーには江の突っ込みを「あー、それはねぇ」と独特の間でかわす「ホーム」の余裕が少し見受けられた。今度は大阪でホームとアウェーを入れ替えてまたやりたいものである。

しかし今から思い出しても不思議な空間であった。ちょっと薄暗い夕暮れのレストランバーで、素人玄人、20代から60代までの男女約50名がある一人の人間が書いた本が好きだ、という共通点だけで集まり、著者&編集者と共に和やかかつエキサイティングな時間を過ごせるなんて、今の日本も捨てたものではないと思ってしまうのは言い過ぎか。しかも場所が世界に轟く盛り場、京都・木屋町というのがまた素晴らしい。

お休みの日にお越しいただいた皆様、また[アルペジオ]のスタッフの方々、ホンマにありがとうございました。そして作家の久坂部羊さん、[バー・ウイスキー]の小野寺清さん、[ザ・メロディ]のモリモトさん、夕刊フジの豊田次長、そして表紙デザインの太田賀司彦さん、表紙写真の打田浩一さん、掲載写真が最多登場の内藤貞保さん、お忙しいところご来場いただき、大変感謝しております。著者バッキーを囲んでまた1年後か2年後に、こんな集いでお会いしましょう。

今度は[アルペジオ]に客で来てゆっくりヒトビト空間の中で酒を飲みたいと後ろ髪引かれつつ夕暮れの河原町通を横切り、裏寺の[百練]で豆腐とかしわの鍋で緊張がユルみまくり、そして同じビル(しのぶ会館)のモアイ酒場や男子専科バーなどをバッキーの案内で社会見学しながら最後は熱唱酒場にたどり着く。バッキーが「永遠の嘘をついてくれ」より好きだという永ちゃんの「もうひとりの俺」熱唱の図である(アゴが表紙とソックリであるな)。

私らはこの店で失礼したが、このあとも延々、京都組の「土曜日の夜」は続いたそうである。黛ジュンも山下達郎もビージーズもベイ・シティ・ローラーズも、彼らにはびっくりなのであった(たぶん)。

出版第2弾は「繁昌亭」の本。

弊社の出版第2弾は、この9月15日に開席3周年を迎える「天満天神繁昌亭」の本である。

それも落語関係者の手によるのではなく、大阪商工会議所の現役所員である堤成光(つつみ・しげあき)さんが書いた。

堤さんは10年前、シカゴ駐在時代に仕事で桂三枝と出会い、三枝と一緒に仕事を積み重ねる中で、この希有な才能を持つ落語家のもう一つの顔「顧客の期待に誠実に応えようとする有能なビジネスマン・桂三枝」を見出したという。そして2003年の正月、その三枝から「落語の定席を建設したいんです」という告白を聞く。

定席とは「常打ちの寄席」のこと。もちろんなんばグランド花月角座も定席だが、興行会社が所属芸人だけを集めて舞台に上げる、という限界がある。三枝が言う定席は「興行会社」や「一門」の壁を取っ払って、上方落語の精鋭が競演するようなものを指していた。

例えばある都市でホールが新築したとする。そんな時だけは前座から仲トリ、そして大トリまで数人の実力者(松鶴米朝春團治文枝の「四天王」の一門から選出)が高座に上がり、「夢の競演」が観られる。事実、私はそんな場所で何度か「オールスターゲーム」を堪能したが、三枝はこれを「毎日、決まった場所で」やることを、そしてそのための建物を造りたいと言い出したのである。それがどんなに困難なことかは、この半世紀の間に「定席」が存在し得なかった事実だけで十分だろう。

「定席」は戦前には存在し、戦後すぐに「戎橋松竹(通称・戎松)」という場所が生まれたが、昭和32年(1957)に閉館する。その後「定席」は復活せぬまま上方落語は漫才やテレビの影響を受けて衰退していくのだが、その反面「テレビ」というメディアから月亭可朝笑福亭仁鶴桂春蝶(先代)などの新しい落語家も登場し始めた。桂三枝はその一人だった。

私が桂三枝という活字を初めて見たのはもう40年も前、博多に住んでいた頃だ。二つ上の兄がたまたま『平凡』を読んでいて(あの頃の『平凡』や『明星』には付録に歌集ーコード進行付きーがあった)それを横から覗くと、人気絶頂のピンキーこと今陽子と「ホネホネ」という痩せぎすの落語家・桂三枝が対談をしている。

「ピンキーと対談するぐらいやけん、人気あるとねこの人?」 「さぁ…」

大阪の芸人なら、「ガッチリ買いまショウ」の夢路いとし喜味こいしも、売り出し中の横山やすし・西川きよしも「くっさ~」の岡八郎も知ってはいたが、そんな落語家がいるとは初耳だった。が、昭和44年(1969)当時はすでに2年前に始まったヤンタンがブレイクし、あの人気番組「ヤングおー!おー!」もスタートしている。桂三枝の名が全国に轟き始めるころだが、私が三枝の圧倒的人気を知るのは、昭和45年(1970)に大阪に引っ越してからである。

テレビでもラジオでも、三枝の顔を見、声を聴かない日はない。懐かしの中之島SABホール(新朝日ビル地下)での「ヤングおー!おー!」の公開録画観たさにハガキで何度も応募したが、抽選でいつも涙を呑んだ。

白いスーツでマイク片手に颯爽と立つ三枝の「別な顔」を知ったのは、70年代前半にサンテレビで放映していた「上方落語大全集」という番組を見てからである。着物姿の三枝が書道家の望月美佐と一緒に司会をしていた。九州から引っ越して慣れない大阪弁に苦労していた中学時代にどうして「上方落語」に惹かれたのか今から考えてもよく分からないが、なぜかこの番組に私はハマってしまった。その収録を観に行くために放課後、神戸市兵庫区にあったスタジオ(当時)に堺から出かけ、帰り道は夜更けの街を兵庫駅までトボトボ歩いていたのを思い出す。

この番組のトリは必ず「四天王」のいずれかが務めるほど本格的なもので、今から考えると「定席」を先取りしていたようなものだった。特に六代目笑福亭松鶴の「三十石」や「天王寺詣り」は、中学生の落語初心者が聴いてもリアル感抜群で分かりやすく、思わず唸る名人芸である。この番組での三枝の司会ぶりは、それまでに観てきたバラエティ番組とは違い、自らの落語家としての立場を大事にしつつ、四天王を始め諸先輩方を立て、上方落語のファン層をもっと広げようという情熱に溢れていたように思う。

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須飼秀和展と「いつか見た江井ヶ島」。

明石市立文化博物館で開かれている「いつか見た蒼い空 須飼秀和展」に出かける。

この人は以前、青山ゆみこ繋がりで弊社に来ていただいたことがあり、作品を見て「むっちゃいい絵やなぁ」と思っていたのだが描いてもらう機会がなく今日まで来てしまった。確か明石の人だったと記憶する。明石は第二とは言わないが、五本の指には確実に入っている私の故郷ゆえ、須飼氏へのご無沙汰のお詫びも兼ねて久しぶりに出向いた。

博物館は、明石公園の東の端、淡路島が目と鼻の先に見える高台にあり、そこから5分ほど東へ歩くと、「日本標準時子午線」でおなじみ明石市立天文科学館がある。今回の展覧会ポスターやチケットは、山陽電車の人丸前駅あたりから天文科学館&天文台を描いた風景画を使っている。

須飼氏の絵のことをうまく表現できないのがもどかしいが、そこに生きる「ひとびと」の生活を季節感と情感たっぷりに切り取った風景画だと言ったらいいのだろうか。でも「ひとびと」が絵の中に描かれていないのが独特。バイクで出かけた先で風景を見つけてスケッチをすると聞いたが、バイクが運んだ土埃の匂いや、タンクにしたたり落ちる汗の匂いも「込み」で伝わってくるような気がする。

私は、この人の描いた絵の中に頻繁に登場する自動販売機がなぜか気になった(目録がなかったので写真は『西の旅』08年夏号より)。

ある時はコカ・コーラであったり、ダイドードリンコであったりキャビンマイルドであったり、ポッカ缶コーヒーの自販機であったりする。バイク乗りにとって自販機の存在は何よりも有り難いものであったと思うが、それだけではないだろう。自販機のディテールを丁寧に追うことで、ある年のある季節に○○県××郡△△町字◇◇の街角で商店を営んでいる人やその店に集まる人の「顔」を浮き上がらせる。彼の絵の中で自販機は、「人と人とが出会わないシステムの象徴」ではなく「その街の息づかいの象徴」として現れる。

自販機が出てこない場合は、屋台のパラソルや「活魚」の看板やトロ箱を積んだ自転車がその代わりをする。こう書いているとお腹が空いてくるのであった。

絵の風景は彼のホームグラウンドである明石や兵庫県内のほか、 雑誌『西の旅』の舞台である岡山以西の瀬戸内や山形、東京などもあった。そして小さい絵だが、「中之島ダイビル前」(2006)というのもあった。ダイビルの全景ではなく、「田蓑橋バス停」越しに見た通り沿いのショーウィンドウと外壁を彼は、珍しくセピア調だけでまとめていた。ひょっとしたら来社の際にささっと描かれたたのだろうか?

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合格は忘れた頃にやって来る。

「ウチで、こんなことを始めるんです……」

4月のある日、弊社の強力ブレーンである大阪商工会議所堤成光(つつみ・しげあき)さんが教えてくれたのは、「なにわなんでも大阪検定」を同会議所が主催するという話。聞くところによるとその参考書である『大阪の教科書』(創元社)という本がけっこう売れているらしい。弊社もとりあえず資料用に1冊買っていた。

堤さんにはそのころからずっと、大阪の「あること」についての原稿を書いてもらっていて、9月にはバッキー井上『京都店特撰~たとえあなたが行かなくとも店の明かりは灯ってる。』に続く第2弾として弊社から出版する予定になっている。その原稿には「知らない大阪」のことがふんだんに載っていて、バッキーのとはまた違った意味ですこぶる面白い。

その堤さんから検定の話を聞くまでは「えっ、大阪までやんの? 一番場違いやろ!?」とは思っていた。が、身近な人からそういう話を聞くと、それ以来何となく気にはなっていた。5月13日(水)が確か受験(イヤな言葉やなぁ)申し込みの締め切りだったように記憶している。

「まぁこれも縁のもんやし、どんな人間が受けに来るか見るのも面白いかもしれんな」と思い、アバンザのジュンク堂大阪本店で申込用紙をもらい、近所のコンビニで受験料を払う。3級か2級か迷ったが、ここは難しい方にいったれ、で2級を選択。数日後に受験票が送られてきた。

試験は6月21日(日)。会場は杉本町の大阪市立大学である。前の日に昼メシを食いがてらと、夜に[リーチバー]であのパイナップルを漬け込んだ「フィンランディア・インフュージョン」を飲みながらパイナップルにも負けてしまう文字通りの一夜漬けで(バーで一夜漬けすんなよ)参考書を7割ほど読み、当日久しぶりに阪和線に乗った。小学校6年の終わりから中学校3年まで百舌鳥駅のそばに住んでいたので、この脱力感&下町感満点の車両が懐かしい。

が、電車に乗り込むや脱力どころか、参考書片手にハイテンションの中高年受験者(自分もそうやのに忘れとる)の醸し出す空気が「日曜午後の阪和線普通電車」ののどかさを破り、乗客に軽い一瞥が加えられる。あのぉ~、別に大学受験と違って他人が合格してもあなたが落ちる訳ではないので、そこはもっとリラックスして行きましょうよ。

杉本町駅で降りると、そこから市大までは聖者ではなく受験者の行進である。たまたま京阪神エルマガジン社の木村くん(名門・三国丘高出身)と駅でばったり会ったので、世間話をしながら歩いたが、これ一人やったらツライなぁ。みんなマジメな顔してはるし。受験番号の別に会場が指定され、そちらの教室に入る。

こんな教室で受験したのである。確か、女性の試験官に「では始めてください」と言われてから制限時間90分だったと思うが、とにかく100問をマークシートで潰す要領。ラストの10問は選択問題で「大阪市」「北大阪」「東部大阪」「南河内」「堺・泉州」のうちどれかを選ぶ、というもの。ここは第二の故郷である「堺・泉州」を選んで書いた(これが一番出来が悪かったのが情けない)。

問題自体はちゃんと参考書から出ているし、それほどの難問もなかったし逆に『月刊島民』や最近の仕事で知ったことが出題されていたからそれはそれで良かったし、普段はなかなか味わえない経験をさせてもらってラッキーだったが、あの「受験会場」の空気と「大阪」とがどうも合わへんなぁと思ったのは私だけか。

「一言、“いらんこと”を入れて自己紹介を書きなさい」とか、「あなたの職場(or住まい)のある街の有名人(or名物メニュー)について、会いに(or食べに)行きたいと思わせる紹介文を400字以内で書け」とか、「“大阪の人ってどうして歩くのも喋るのも速いんですか”と言われた時に、相手が思わずニヤリとする切り返し文句を考えなさい」とか……それは無理な話だろうか?

「あいつ、2級落ちよったんやて」よりも「合格した」という方がめでたい話だが(大阪の本や『月刊島民』を出している出版社の代表が不合格やったら首吊りものだろう)、合格通知にあるように「次回1級の挑戦をお待ちしています」と言われて「へぇへぇ、そうでんな」というところまでは残念ながら今のところいってない。1級となると、あの「アホな冗談が通じそうもない」雰囲気にさらに輪をかけたような受験会場の空気が待っているだろうからである。

京都より神戸より東京より大阪が抜きん出ていると思うのは、「3つの国(摂津・河内・和泉)に分かれていることによる人種の多様さ」と「見知らぬ他者にも開かれたコミュニケーション能力」「農産物・海産物・工業製品などのレベルの高さ」「新しいこと、ものを躊躇せず取り入れる柔軟さや発想力」「食べ物やオモロいものに対するひとびとの旺盛さ」ではないか。大阪検定というならこの財産をもっと前面に押し出さないともったいないと思う。

とはいえ「合格者特典クーポン」という褒美をもらったので、まだ行ったことがない[大阪歴史博物館]や[東洋陶磁美術館]などにこの際出かけてみますわ(この二つはクーポンがあれば無料で入れる)。少なくとも落ちていたら「もうちょっと大阪のことを知らなアカンな」とは思わないだろうし。

堤さんの本については、まもなくご紹介できると思います。

夕暮れの四条通、一時騒然!

「こんな暑い日にサイン会なんか並んでたら、暴動になりそやわな」

家から京都に直接入る予定であったが、JR三ノ宮駅の東側に小規模の玩具問屋街があったことを思い出し、団扇をたくさん買ってから行こうと考えた。エルマガ時代に夏遊び特集で水鉄砲や花火やらここでネタを仕入れたことを思い出したのである。

だが駅東側は、覚えのある玩具問屋が飲食店や駐車場に変わっているか更地になっているかで、あの懐かしい賑わいはどこかへ行っていた。携帯からあれこれ検索して店を見つけるも、電話がつながらない。炎天下をちんたら徘徊していたら、高架下近くに小さな菓子問屋と玩具問屋が並んでいるのを発見。玩具問屋にはカギがかかっていたが、ガラス越しに中に人が見えたので、開けてもらう。

「すんません団扇をまとめ買いしたいんですが」 「奥に置いてる分だけやけどね」

それはオッサンが持ったら死ぬほどこっぱずかしい可愛い絵入りのミニ団扇で、ご丁寧に一つひとつがセロファンのラベルで包まれてて、いかにも駄菓子屋に売っているようなものだったが、こんなハレの日にはスポーツクラブや携帯のキャンペーン団扇よりずっといい。ある分40本全部いただいても1,470円。暑いなか歩き回った甲斐があったぜ。

昼メシを食ってから京都・四条富小路のジュンク堂書店に入る。エルマガ時代の京都本シリーズでも『キョースマ!』でも発売記念キャンペーンでお世話になった場所であるが、今日は140B史上でも私の人生でも初の「著者サイン会」である。

朝日新聞でも「バッキー井上」という文字を見た時には違和感があったが、『1Q84』のポスターがドーンと貼られたこの書店で、大量の自社商品と「バッキー井上さんサイン会」というパネルは違和感を通り越して違う惑星のような気がした。午後3時から四条通に面した場所に特設ブースができ、呼び込みが始まる(左の読者は道田惠理子)。

とは言うものの、最初は超スローペースである。緑のエプロンを着けたジュンク軍団もまだテンションはさほど上がっていなかったが、「錦市場の漬物店主・バッキー井上さんの『京都店特撰』発売記念サイン会が5時よりこちらで行われま~す。ぜひともお買い求めくださ~い!」とええ声で道行く人にお声がけしていた。このユルい雰囲気が、16時半の著者入りを境にガラリと変わる。

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週末にはあなたの元へ『京都店特撰』。

先週末に『京都店特撰~たとえあなたが行かなくとも店の明かりは灯ってる。』の見本刷り50部が上がり、あっという間に取次窓口や、新聞・週刊誌・そして「書評を書いてくれそうな人」の元へ旅立った。

本の刷り上がりを開けるのは、 何度やっても気持ちのいいものである。ましてや自前の本なのでいつもとは、ちょっと違う。できればあと百回ぐらいはこれを味わってから死にたいものである。そしてだれがどんなところで書いてくださるか分からないので、とりあえず簡単なお手紙を付けて本と一緒に送る。

こんな時や礼状を書く時、いつも「ペン字の美子ちゃん」にでも習ったらよかったと思うが、もはや後の祭り。親も草葉の陰で泣いているだろうが、何も書かないよりはマシだと言い聞かせる。

見本刷りが上がってから本はずっと私のカバンの中にいた。電車の中で、休憩時間で、カバンから出しては目を通した。WEBやゲラで何度も読んでいたにもかかわらず、背表紙がついて製本されたものを改めて通して読むと、やはりこの書き手の非凡な力が伝わってくる。

満腹の時でも、「もう酔うたから酒ええわ」の時でも、「江畑の焼肉また行きたいな」とか「やっぱり熱燗は人生の友やな」とか思えてしまう。あそこの暖簾をくぐるのはいつにしようかと頭の中でカレンダーが動き出す。そう考えると、この本には38軒の店しか載ってないが、短い人生、京都で行きたい店が38軒もあるなんて、何てしあわせなことなのだろうと自然に思えてくる。

「22日のトークショーやけど、俺も行きたいんで申し込んどくわ」

昨日お邪魔した心斎橋[ザ・メロディ]のモリモトさんはカウンターに私が座るや(レコードショップだがカフェ&バーでもある)そうおっしゃった。「やっぱり、夕方に京都いうのがええやん」。モリモトさんはご機嫌な話にはハヤい。友達と出かけ、トークショーで街的気分が盛り上がったところで、『京都店特撰』に載っているどっかの店に出かける……あーええなぁ。翌週に引っ越しを控えた私らは、果たしてそんなお楽しみが可能かどうか。

でも会場の[アルペジオ]は河原町蛸薬師と、街のど真ん中。バッキーが書くところの「まるで夜の京都のセントラルステーション」ゆえ、終了後すぐに帰るのはあまりにも芸がない。せめて[たつみ]で熱燗をツイーと1杯飲んでからか、[喜幸]で豆腐ぐらいは食うてから大阪に帰りたいもんである。いやいや[蛸八]でもうちょっと腰を落ち着けて、そうそう、[タバーンシンプソン]という手もあったな……これらはいずれも[アルペジオ]から徒歩10分以内である。

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ナマ「序の舞」に会った日。

7月25日(土) 先週末、浅草の翌日。

飲み過ぎたためにお昼まで起きることが出来ず、チェックアウトをしてタクシーに。浅草から上野は目と鼻の先である。そして上野駅からかなり離れた東京藝術大学大学美術館東京国立博物館のもう少し西)も西浅草のホテルから千円程度である。

コレクションの誕生、成長、変容ー藝大美術館所蔵品選ー

と題された展覧会には後漢時代の文具や飛鳥時代の裂に始まり、奈良時代の仏像も狩野派や若冲の絵も、高村光雲の彫刻も仏セーブル国立陶磁製作所がつくった人形も出展され、この上もないバラエティ感が500円で味わえる素晴らしい展覧会なのだが、お目当てナンバー1は、同館所蔵の上村松園「序の舞」である。

小学1年生で「序の舞」と出会った時は、作者の名前もいつ頃の絵なのかも全然分からなかったが(記念切手の図案ということだけ知っていた)、6月にふらっと奈良・学園前の松伯美術館にお邪魔した際に、明治大正昭和を代表する日本画家(女性初の文化勲章受章者でもある)上村松園の最高傑作だということを初対面から44年経って初めて知った。

それからというもの、なぜか松園の絵が気になって、他の場所でやっている展覧会に出かけたり宮尾登美子の小説『序の舞』を買って読んだりしていた。小説は「序の舞」の作者・上村松園の生涯をモデルにしているが実に壮絶な話である。

明治8年(1875)生まれの上村松園(小説では島村松翠)にとって、男社会である京都画壇で生きていくのは「世間の目」と「仲間の嫉妬」を両方はねのけるだけの相当なエネルギーが必要だった。彼女はそれを天性の才能と人一倍の努力で乗り越えていくのだが、師匠と道ならぬ関係になって子供まで出来てしまったり(息子の上村松篁はその師匠が父親である)、それに嫌気がさして別の画家に師事するがまたまたその人とも恋に落ちてしまう。それも報われぬと知るや今度は7つ年下の恋人ができ、夫婦になる一歩手前までいくが先方の親族の反対で破綻してしまう。それでも諦めきれない彼女はストーカーまがいの行動に出るが、逆に愛想をつかされてしまい……と、かなりドロドロである。

読んでいると、「ホンマにしゃあない人やなぁ、無理なん分かってるのに」と思うのだが、あの完璧な構図の美人画と、諦めきれない想いをストーカー(という概念は当時なかったが)でしか表現できない不器用な女性とのギャップがものすごい。それが読者にとっては愛おしくもあり、これで松園ファンが日本全国にきっと量産されたことであろう。彼女もドロドロのフルコースを味わったが絵だけは捨てなかった。身を切られるような想いをその都度絵に託し、一つひとつ傑作を生み出してきたのである。それがまたファンにはたまらない。宮尾登美子も確信犯である。

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「人生のうどん屋」とのしばしお別れ。

「実は明日で閉めるんです」 「えっ!?」

ダイビル1階にある創業40年余の名店そば処[宗是(そうぜ)]のご主人・野村氏が弊社にやって来られたのは昨日(27日)の15時ごろ。つい2、3日前までは「ウチの最終日? 8月11日、12日ぐらいかな」 とおっしゃっていたのに……。

このところダイビルの取り壊しが近づいているため、櫛の歯が抜け落ちるように会社がどんどん移転している(アートアンドクラフトさんも京町堀に移られた)。おまけに隣の新ピカ「中之島ダイビル」には飲食ゾーンがオープンしたお蔭で、客足が急激に減ったらしい。

お盆までは「ちょっと[宗是]でササッと食うてくるわ」の楽しみがあったと思ったのに、それも叶わぬ話となった。非常に残念であるが8月3日(月)にはその「中之島ダイビル」で再オープンとなるので、[宗是]ファンにとっては一安心だ。

弊社の松本創は、昨年8月の『月刊島民』第1号にこの店のことを書いている。

 

大正末期にその威容を現したダイビルが、よく言われるとおり、船をかたどったとするならば、  1階のパッサージュ(商店街)に昼の行列を溢れさせるそば処[宗是]は、クルーの絶大な信頼を集める“船内食堂”である。

「99%がビル内の会社の人。雨の日なんか、そばにご飯もの、おかず一品が付く日替わり定食はすぐなくなるわ」とご店主。単品では、鴨なんば、たぬき、カレーそばが御三家。いずれも大阪では珍しい平打ちの麺が使われる。(中略)

何より、中之島の富豪にちなむ旧町名・宗是町から取った屋号。これだけは開店以来変わらない。老貨客船に見立てられるビル同様、存在自体が街の来歴を語っているのだ。  

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浅草はバッキーとあなたを待つ。

浅草の桃知利男さんと、バッキー井上『京都店特撰~たとえあなたが行かなくても店の明かりは灯ってる。』の出版記念イベント「読者のつどい@浅草」の打ち合わせを、あの[居酒屋浩司]にて。

この人は中小建設会社のコンサルタント(著書もある)として全国を飛び回っていて、この日(24日)も北海道から帰ってきたばかりで前夜は「胃液を吐くまで飲んだ」というタフな日々を過ごしているが、小雨そぼ降る浅草「ホッピー通り」の居酒屋に定刻通りにやって来られた。

酔っぱらわないうちに、9.12(土)イベントの概要だけでも話し合う。8.8(土)のサイン会(ジュンク堂書店京都店)、8.22(土)のトークショー(アルペジオ@河原町蛸薬師)に続く第3弾である。

詳細は改めてWEBにアップするが、第1部は14時から浅草公会堂の集会室にてバッキー&桃知さん&スペシャルゲスト(今のところ内緒)による鼎談、第2部は[居酒屋浩司]にて18時から懇親会。公会堂から徒歩5分の近さである。

本日(25日)のアメリカ出版研究会にて、弊社初めての自前出版本である『京都店特撰』と読者のつどいの話をしたら、「東京でもやるんですか!? 絶対行きます」という人が数名。あの反応はどうやら社交辞令でもなさそうである。やはり「浅草」という土地の魔力が半分はあるだろう。

これまで東京で泊まった場所は、翌日の仕事を考えると千代田区か港区、中央区が圧倒的に多かった。浅草に泊まるようになったのは、桃知さんと知り合うようになってからなので最近のことだ。ホテルに荷物を置いてちょっと一服してから徒歩数分の[居酒屋浩司]まで歩く道のりが、「盛り場」っぽさ満載で気分が華やぐし、目的地がちゃんとあるのに右に左にええ店がオンパレードで目移りする。

店に入れば目の前にスポーツ中継(この日はオールスター)をやっている大画面テレビ。始終忙しく立ち働く店の人たちや機嫌よさそうに酒を飲む客の顔、その向こうには通りをゆくひとびと……こんなパノラマを見ながら生ビールをクイッといっただけで自然にこちらもデレッとくる。東京では何かと「緊張」や「ストレス」を感じてしまうのに、浅草では思いきりリラックスしてますな。

アメリカ出版研究会の面々が「浅草」にピンときたのは、やはり彼らもユルみたいし、あの場所では自然にユルむことを知っているのだ。しかも当日は土曜日。隅田川の船で乗りつけるもよしだし、都バスでのんびりやって来るのもよかろう。

桃知さん曰く「桃組(桃知さんが主宰する勉強会の名称)の連中なんて、当日シラフで公会堂に来るヤツの方が少ねえんじゃねぇか」ときている。寿司屋、鰻屋、おでん屋、バー……あの名店[駒形どぜう]も近くだし、人気漫画『あんどーなつ』の舞台だけあって、和菓子のええ店もよりどりみどりである。詳しくは桃知サイトをご覧あれ

何よりも、スーパースター浅草寺がある。

経営の神様(神様でっせ)松下幸之助が寄付した雷門の大提灯の前で外国人観光客にシャッターを押してあげたり、仲見世をきょろきょろしながら冷やかしたり、もろもろのお楽しみを一通り終えてから公会堂に集結するのがナイスであろう。

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「贈り物」は回る回るよ。

永遠の嘘をついてくれ」という題名が相当な破壊力で脳にひっついてしまった。

一昨日の夜。バッキー井上が『京都店特撰~たとえあなたが行かなくとも、店の明かりは灯ってる。』の最終校正のために来社し、終了後は北新地の[黒門さかえ]か[がるぼ]あたりでメシを食ってお開きにしようと思ったが、バッキーが「プレゴの写真だけ撮り直したいわ」と言い出し、急きょ東心斎橋のべっぴんバー[プレゴ]目指して男5人がタクシーに乗り込む。うまそうに酒を飲んでいるカウンター風景をオオサコが撮る、という仕事(やや苦笑)は、店に入って15分後には終了した。

「ウマいなぁこのワイン、も一本頼むわ」(バ)

つい5分前までは「ナカジマさん大阪駅の終電って何時やったっけ」と聞いていた声の主は、サンセールをクイクイと口に運び、べっぴん薩摩隼人バーテンドレス・マリさんに「構うてもらう」モードに早変わりしていたが、急に江が「パソコンないですか? YOU TUBE観たいんやけど」と言い出す。仕事もう終わったのに何ですの? 曲名は知らんけど感じのええ音が流れているのになぁ…。

目の前のMacBookが立ち上がり、それを江がかちゃかちゃと検索すると、東心斎橋のリラクシンなバーは一瞬にして吉田拓郎&中島みゆきの暑苦しい世界に変貌した。2006年つま恋のクライマックス、突如ステージに現れたスペシャルゲスト・中島みゆきが吉田拓郎と一緒に歌う「永遠の嘘をついてくれ」(作詞・作曲/中島みゆき)である

「なんかい観てもスゴいなこれは」(江・私の右)  「お前に分かんのかい?」(バ・同左)

両者ともこの映像は4桁(!?)の回数で観ているらしく、一家言どころの騒ぎではない。YOU TUBEから流れる大音量の楽曲に、声のデカイ左右の会話が5.1サラウンドの10倍ものボリュームで迫り窒息寸前となったが、ワインもつまみも旨いので私も「終電乗らんでもエエかなぁ」というアナーキーな気分になる。

そうなったらもう、後は野となれ山となれ。江は江で「中島みゆきのな、『ファイト!』の歌詞かってスゴいんやで。生命保険のCMで誤解されてるけどな……」と言いながら今度は「ファイト!」を検索してまた映像を流し、隣にいたデザイナーの路万君やオオサコに熱弁を振るう有り様。バはカウンターを挟んでマリさんに「べっぴんやのにオッサンやからなぁ」(そういう美人は確かに多い)などと言い、そしていつの間にか他のお客さんもいなくなった……。 

とにかくその「永遠の嘘をついてくれ」という曲は、酒場の空気を一変させるのに十分だった。

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中高年登山者の一人として思う。

北海道、大雪山系トムラウシ山で8名、近くも含めると計10名が遭難死したというニュースは、山好きにはホンマにこたえる。

亡くなった方たちのご冥福を心からお祈りすると共に、主催者であるアミューズトラベルが過去の事例も含めて包み隠さず証言してくれることを願うのみである。それまでにも(事故には至っていないが)萌芽となるような事例はきっとあったはずである。山岳ツアーを企画実施する会社がそこから学ばなければ、同じような事故が必ず今後も起こると私は思っている。

実は27年前の今ごろ、まさにあの山域で私の所属する大学ワンダーフォーゲル部は合宿をしていた。合宿といってもどこかの宿をベースに練習を行う、というものではない。上富良野から入山し、上ホロカメットク山~十勝岳~美瑛岳~トムラウシ山~白雲岳~旭岳~黒岳~層雲峡へ下山するという10泊11日の行程を、ひたすら30㎏近いリュックサックにテントなどの装備や食料、寝袋、防寒具などを入れて歩く(途中で「沼ノ原」という秘境へ往復するというハイキングな日もあったが)、という原始的な山行そのものが「合宿」である。

荷物は、食料が減るごとに少しずつ軽くはなっていくが、疲労は逆に蓄積されていく。頼るのは自分たちの体力や経験、コースの正しい把握とあとはパーティー7人(男3人・女4人)の結束だけである。いつも一緒に練習したり酒を飲んだりする相手だったが、共に山に登るのは初めて、という人間もいた。それで山行の1週間前に、リュックに石を入れ同じ荷物にしてこの7人パーティーで六甲山に登り、それぞれの人間の「登り方、降り方、食い方、バテ方」を何となく知ることができた。

北海道の山に登るのは全員初めてだった。特に山の「大きさ」というものに対する把握(関西の山や日本アルプスと比べて、一つの山の大きさが全然違う)が皮膚感覚では分からなかったのだ。コースの地図を見て思ったのは、何かあったら途中からエスケープする「逃げ道」が大きく言って二つほどしかない、ということであった。10泊11日もの長い行程なのに、である。

終始先頭を歩く私にとっては、まず落伍者が出ないようなペース配分を考えること(一番バテる可能性のある人間を二番手に。最後尾はリーダー)。私が速い場合は後ろから「もうちょいゆっくり行けよ」、遅い場合は「それやと日が暮れるで」と声がかかる。それとヒグマに遭遇しないように、「ここ人間が歩いてまっせ」とデモ隊のようにホイッスルを吹き続けること、この二つが至上命令だった。

大阪駅から青森までは特急、そこから青函連絡船(がまだあった)、函館から旭川までまた特急、旭川から普通列車でやっと上富良野。ここまでで既に28時間経過している。ラベンダー畑を横切り、登山口のキャンプ場に着いた時、あまりの風の強さに「この先、大丈夫か」と心配が増えた。

翌日、登り始めてやっと尾根にたどり着いたらびっくり。標高2,000メートルにも満たない場所なのに、雪渓がべっとりと残っている。大阪ではもう30℃を超えているのに夜の寒さがケタ違い。十勝岳(2,077メートル)の山頂付近は火山だけあって、富士山のように岩と砂しかない。幸いにもその時は雨風もない穏やかな天候で通過できたが、あのとき悪天候だったらどうなっていたか?

美瑛岳(2,052メートル)からの5日間はずっと雨具を着ていて相当気が滅入った記憶がある。雨脚こそ視界が全く利かなくなるほど強くはなかったが、これに風が加わったら一気に体温を取られてヤバイやろな、というのが実感だった。トムラウシの頂上(2,141メートル)には5分ぐらいしかいなかったように思う。昼食のおにぎりをアルミホイルから開ける時、手がかじかんでいた。気温5℃の「真夏」のおにぎりの味は忘れられない。

私たち7人は、文句の言い合いなどを繰り返しながらも人間関係の破綻なく一つのテントで生活し、だれかが急病になったとか食料が足りないとかテントが浸水したとかヒグマに襲われた(前を歩いていた大学は襲われたらしい)とかの破局を見ることなく、無事に旭岳(2,291メートル)のピークを踏み、層雲峡に下山することができた。もちろん各人不満などいくらでもあったに違いない。が、初めての北海道、逃げ道ほとんどなし、寒い、何が起こるか分からん……もろもろの要素で我々は勝手に結束していったような気がする。

そして体だけはとことん鍛えていた。ワンダーフォーゲル部トレーナーでもあった私の当時の趣味はトレーニングだったし(若いな)、クラブの練習では徹底的に走り込み、腹筋と背筋をとことん鍛えた。だからバテてこれ以上歩けない、脱水症状になったという夏合宿特有の事態も避けられた(直射日光がほとんど当たらなかったのも良かったといえる)。

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団栗橋の遭遇と「ヒットの予感」。

夕方から烏丸御池にある某社に企画書の説明に出かける。その後、バッキーがいるはずの[百練]に『京都店特撰』のゲラを持って行ったものの、店には奥様の貴代ちゃんと彼女の女友達が数人……

「さっきまでいてたけど、もう八坂さんの方へ行かはりましたよ」

間一髪間に合わず、店の人にゲラを託して祇園祭の神輿渡御ルートを調べると、どうやら八坂神社を出発して花見小路通を下がり、団栗橋の手前で南座の方へ上がるようなので団栗橋で待ち伏せすることにした。ぬるま湯のような夏の雨がひっきりなしに降っている。

「だいたい、7時20分ほどかな、ここに来るのは」

お巡りさんに訊くとそう言ってくれた。時刻は6時36分。こんな雨の中を40分以上も待つのはツライし腹も減ってきたので、目の前にあったジンギスカン屋で腹と間を持たす。焼き上がったラム肉と野菜を超高速でバクバク入れていると、外では法被を着た面々や警備の人間が徐々に増え、「神輿到着」ムードが高まっているではないか。外に出ると「ホイットー、ホイットー」のかけ声と共に神輿は団栗橋東詰の交差点に到着した。

西御座の面々は背中に「錦」の文字がバーンと入った法被姿であるが、雨と汗でびちょびちょである。みんなどこにいてるのかと見回していたら「中島さんやないですか」とソデオカ(電通勤務/エルマガ時代に彼の上司を計4回やった)が逆に見つけてくれた。相変わらずデカイ声で祭を仕切っとるわ。

「タフでめげない若社長」を絵に描いたような株式会社のぞみの藤田功博君(写真左)や野球チーム「エディーズ」の重鎮ハタヤンなど役者が勢揃い、そして「ナカジマさーん、来てくれたんやね」といつもの太い低音でバッキー登場である。しかしこんな祭り顔してたら今日は校正は無理やな。

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朝の連ドラ主演女優の「気構え」。

NHK朝の連続テレビ小説の主演女優にインタビューする機会を得た。長生きはするもんである。

9月28日(月)から始まる『ウェルかめ』の主人公、浜本波美(なみ)役の倉科カナさんは熊本県出身の21歳。それで故郷の熊本日日新聞から土曜発行のタブロイド判『くまにちすぱいす』最終面「このひとclick~いま熊本で輝いている女性」のインタビュー取材を仰せつかった。

取材は6月17日(水)にNHK大阪放送局(BK)9Fの部屋で行われたが、同じ時間に江弘毅は4Fのスタジオで『ラジオ深夜便』の収録をしていたオンエアは7.24金曜深夜1時台)というから世間は狭い。

この日の主演女優は早朝3時起きで4時BK集合、ずっとロケで大阪市内を回ってから昼食前に1本取材が入り、その後が私のインタビューという、腹が減って不機嫌の極致になりそうなコンディションにもかかわらず、疲れも全く見せることなく、前向きかつフレンドリーなハイテンションで次々と質問に答えてくれた。気合が漲っている感じがよろしいな。

印象に残っているのは、この年齢にしてはお祖父さんの影響で時代劇が好き(春日太一さん、喜べ)ということと、その結果だろうか「セリフの掛け合い、間合いが大事」という彼女の言葉である。失礼な話だがこういう取材はプロダクションや広報の人にがっちりガードされて当たり障りのない答えに終始するだろうと思っていたら、なかなかどうして、受け答えは完全に本人に任せっきりだった。しかも、過去の連ドラで私が屈指の名作と思っている『ちりとてちん』のDVDも彼女はすべて持っているというではないか!?

「時代劇好きなんやったら絶対、大覚寺行かなあきませんわ」 「『ちりとてちん』で一番印象に残ってるシーンはどれですか?」

インタビュアー君、ちゃんと『ウェルかめ』の話をしなさい。レコーダーを再生すると思わず自分の声に力が入っており、ひたすら(苦笑)の巻であるが、倉科カナさんも気を使ってくれたのかネタの振りがよかったのか(たぶん前者ですな)、「大覚寺って、時代劇とそんなに関係あるんですか?」とか「やっぱり最初はあのお祖父ちゃん(米倉斉加年)が亡くなるシーンですよね」とか言いながら彼女の顔つきが変わり、ノリもさらに良くなっていったのである。

少ない字数でこのあたりを表現でするのはなかなか難しかったが、何とか活字になりました(7月11日号に掲載/写真も筆者)。

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岩谷時子さんの空間。

お暑うございます。今日も34℃ほどあった大阪ですが、岡田山ではちょっと涼しい歓迎がありました。

打ち合わせの前に中庭に寄り、しばし陶然のひととき…。しかし日陰がないので、あわてて戻る。

弊社では2010年度の神戸女学院大学の入学案内を青山ゆみこが中心となって企画編集したが、今回の「お題」はまたそれとは別のものである。まずは1回目の打ち合わせを終えて帰ろうとしたが、担当教員の田辺希久子先生(2008年英文学科ベスト・ティーチャーですわ)が図書館を案内してくれるという。いやー、やっと来ましたよ。

「最も美しい図書館」と「NHK日曜美術館」でも絶賛されたこの場所は、大学案内でもヴォーリズ展のフライヤーでも顔となっている。天井の梁に描かれたアラベスク模様の花が何とも可愛らしいが、これを当時53歳のオッサンが考えたとはなぁ……ただただ驚嘆。

岡田山の神戸女学院校舎が完成した昭和8年(1933)は滝川事件などで大学が軍国主義にじわじわと侵されていったさ中であるのに、ここだけはまだ特別だったのだろう。静謐な空気がまた「特別」感を3倍増ぐらいしている。階上から見下ろすと、図書館の広い机の向こう、窓を隔てて中庭の景色が映り、圧巻である。

「ここで6時間ひたすら本を読むだけのイベントをやったとしても、この図書館なら関西中から希望者が集まるんちゃう?」

と知り合いが言っていたが、それもむべなるかな。その時は文庫や新書でなく、「読まなアカンと思っていたけど時間が取れないで置いといたハードカバー」を持参しても、館内にあるOGの松岡享子さん翻訳の童話を片っ端から読むでも愉しかろう。いつも「うらやましいぞ女学院生」ばかり言っているからもう言わんけど、こんな図書館の「有り難み」を在学中から感じられたら最高であろう。

この空気感がとても懐かしく、つい最近も似たような場所にいた記憶をたどっていたら……神戸の[カフェ・フロインドリーブ]を思い出した。あの店も吹き抜けの上部に、全体を見渡せる空間があって、そこからの景色がまた素晴らしい。かたや図書館、かたや礼拝堂を改修したカフェという違いはあれど、人を穏やかにさせる場所が持つ空気には共通のものがある。何と言っても建築家が一緒なのだし。

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ダイビル、終わりと始まり。

先週の金曜日に、この春竣工した超高層オフィスビル「中之島ダイビル」(弊社のある「ダイビル」の東隣です)飲食&物販ゾーンのお披露目会があり、ちょっとだけ覗く。写真は3階から大西ユカリさんライブの賑わいを写したものであるが、何の風景だかさっぱり分かりませんな。

ご覧の通り、ど広い吹き抜けの3フロアに今のところ12軒の店。とてつもなくゆったりレイアウトされているのが特徴で、新梅田食道街あたりの店が見たら頭から湯気を出して怒ってきそうな設計である(このゾーン全体は間宮吉彦氏のinfixが手がけた)。

月刊島民』にもご登場いただいた[サトウ花店]やオーダーシャツの[LES LESTON]以外はすべて飲食系で、[丸福珈琲店][レストラン ヴァリエ][やきとり ばかや][アリアラスカ マーブルトレ]など「オフィスビルの飲食店舗」にしては破格の超人気テナントが入っている。

このビルの登場によって周辺の昼間人口が増えたかというと、まだ何とも言えない。ピカピカの超高層ビルで働く人たちと我々とは生活サイクルが違う(出社も退社も早いですし)というのもあるが、たぶんこのエリアに「賑わい」らしきものが出来るのはまだまだこれからだろう。9月以降は「ダイビル」というとこのビルを指すことになる。

とりあえず8月も10日を過ぎると、わがダイビルが誇るツートップ[宗是そば]とスペイン料理の[カボ デル ポニエンテ]がここを去り、弊社のビルでは「メシが食えない」事態になるので、8月28日(金)のお別れまでは新しい「中之島ダイビル」で2週間ほどメシをかっこむ(そんな表現が似合う場所ではないが)ことになる。お世話になります。

しかし新品のビルを見た後にこの光景(ダイビルのエレベーターホールです)に出くわすと、やはり何だかホッとしますな。

このエレベーターホールを奥まで突っ切り、つき当たりを右へ曲がったところが140Bである(「140A」という部屋もエレベーター右手奥にある)。同じ吹き抜けでもやはりこの重厚感はいくら金積んでも出せませんわ。携帯電話の人が公衆電話の台を使ってメモを広げている光景もここならでは。

向かって左手、エレベーターと公衆電話の間に見えるのは真鍮のポストで、最上階の8階から2階まで、投函された郵便が専用のシューターを通ってここに落ちてくる。1階にいる我々はこのポストに直接、礼状のハガキを出したり掲載誌を投函したり、役所に届け出を送ったりしたものである(いかん、過去形になっている)。

このエレベーターには「閉」ボタンがない。1階から乗る際にはビーッとブザーが鳴るまでドアが閉まらない。いちいち「閉」を押すのはジェントルマン(このビルに似合う言葉やね)じゃねえよ、と言われているかのようである。エレベーターを降りようとする人の傍で「閉」ボタンを押すのを今か今かと待っているオッサンはここにはいない。建物の教育的指導の賜物であろう。

そんな光景もあと40日ちょっとで終わってしまい、8月29日(土)にはいよいよ古河大阪ビルへ引っ越し、31日(月)から彼の地での営業が始まるが、なんと衆議院総選挙はその最中、8月30日(日)に決まったらしい。

「ダイビルにいた時期? まだ自民党が政権取ってた頃やね」なんて思い出話をしようものなら、「こっちは普通選挙法が公布された年からおるんじゃ! そんな政党と一緒にせんといてくれ」とダイビル様に一喝されそうである。

しかしあなた、堂島川を隔てて観るとカッコよさが際立ちますな。

旅する「オモロい夫婦劇場」開幕!

明けたばかりの今年1月13日、あるライターから売り込みの電話があった。

何でも5年間ほど世界を旅しながらいろんな雑誌に原稿を送り、昨年秋に帰国して今京都に住んでいるのだという。弊社のホームページを見て「面白そうだから、一度御社にお伺いしたい」とのリクエストである。ちょうど『キョースマ!』春号(とりあえずは最終号)の取材が始まろうとした時だった。

えらい感じのええ人やなと思い、「そしたら、16日でどないですか?」と来社いただく日を告げて電話を切ったら、数分後にこんなメールをいただいた。

お世話になっております。
先ほどお電話させていただいたライターの近藤雄生です。
突然の申し出にもかかわらず、お会いいただけるとの事、
どうもありがとうございます。

えらい礼儀正しい人やなぁとまたまた感心し、16日にお会いするに至ったのであるが、感じがいいとか礼儀正しいとか以上に書くものがホンマにしっかりしている。送稿している雑誌も『世界』『読売weekly』『週刊金曜日』『中央公論』など錚々たる硬派ものばかり。その割にフレンドリーな笑みを絶やさぬライター近藤雄生氏の出現は、ちょっとした事件であった。まだ32歳と若い。

すぐに『キョースマ!』春号「この人たちの通勤・通学・練習路」というページの取材・執筆・写真まで全部お願いする。佐藤優(元外交官)については近藤氏がコンタクトした同志社の職員が佐藤の行きつけだったバーをたまたま知っていて、その店のマスターから思い出話をたっぷりと聞き出した。西田幾多郎(哲学者)はかつての住居があった場所まで行ってみたが、そこからが進まない。たまたま通りがかった近所の人に聞くと、何と西田存命中の頃を覚えているではないか……。

優れたライターには必ずこのような「幸運」が訪れる。この人の場合も最初からそうだったが、しかしこれは「幸運」というより「人徳」の成せる業だろう。

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引っ越し先はココです。

ダイビルなきあとは堂島川の対岸、古河大阪ビルの4階に移る。

見えにくい写真(田蓑橋から)で申し訳ないが、右手のチョコレート色の建物が8月末までの命であるわがダイビル、そして左手奥におぼろげに「富士電機」という青い看板が見えるだろうか? あれが古河大阪ビル。サントリー、堂島ホテルの西隣にある。

新住所は〒530-0004 大阪市北区堂島浜2-1-29 古河大阪ビル本館4F

「島」から「浜」への移転である。

ダイビルを去る寂しさは補えるものではないが、お客さんにとって今より立ち寄りやすい場所なのはめでたい。このビル、南北両方に入り口があるため、ドーチカ方面からも渡辺橋からも入りやすい。四つ橋線なら、晴れていれば肥後橋から島を通って、雨なら西梅田からドーチカをどんつきまで歩き、右の出口を上がればすぐである。いずれも徒歩5分の距離だ。

弊社は8月28日(金)までこのダイビルで仕事をして、29日(土)には引っ越します。古河大阪ビルでの業務は8月31日(月)から始まります。

というわけで、ここでの日々はあと50日を切りました。「えーっ、ダイビルってもうないんですか!?」という人が後から結構出そうだけど(フェリシモのS木H美なんか絶対そうだと思う)、わてはもう言いましたからね。あとは知りまへん。

8月になると、来るべき引っ越しがドーンと重しになり、みんな目つきが思いきり悪くなって仕事していると思います。皆さまどうぞご容赦を!

今度は江弘毅「日経1面」ジャック!

「日経に出てるらしいです、江さんが」

 というメールを青山から貰い、さっそく駅の売店で買うと……

何と1面コラム「春秋」(朝日では「天声人語」、毎日では「余録」の欄)である。

昨年の今日、お別れとなった「くいだおれ太郎」がもうすぐ復活するという話である。その中で

太郎を団塊世代の象徴と見るのは大阪で長く情報誌を編集してきた江弘毅さんだ。誕生が戦後間もなくだからというだけではない。食堂はすしとエビフライとお子様ランチを一緒に楽しむ家族の店だった。やがて消費の単位は個人に移る。食堂は寂れ、独り店頭に立つ太郎が団塊男性の共感を呼んだ、と読み解く。

くいだおれ太郎はあちこちイベントなどに行くよりも、ホームグラウンドである道頓堀にいる方が確かにめでたいしよく似合っている。街の「顔」はその街にあってこそ顔だと思うので、その飲食店が繁盛することを(一気に繁盛しなくても長く愛されることを)心から願う。

そして、「江弘毅」の間に「ベストセラー『街場の大阪論』(バジリコ)の著者である」という形容詞が入ることをこれまた心から願う次第であるが……「くいだおれ太郎」のくだりは『街場の大阪論』72ページに載ってます。まだの方はぜひ。1,470円はお買い得でっせ!

目眩するほど早く過ぎた日々。

6月29日(月)は会社が創立して3回目の株主総会。

ダイビルで開く総会は、これが最後。平川克美さんが欠席されたのは実に残念だったが、平川氏以外の株主全員にご出席いただき、予定通りに進んだ。

日本国内に中小企業は400万社以上あるらしい。その中でまともに稼働して株主総会をやっている会社がどれだけあるのかは想像もつかないが、今年も総会で株主の人達と「お会いできる」ことのしあわせを味わえる、ラッキーな代表取締役の一人になることができた。

それは今回の業績がどうとか経常利益がどうとかいうことではなく(悪いよりいいに越したことはないけど) 、私たちのことを「見守ってくれる」「何かの際に支えてくれる」人たちとお会いできる機会がひたすら有り難い、ということである。できればずっとこんな関係が続いてほしいと心から思うが、来年は新しい場所で一つぐらいは「出版でヒット」の報告をしたいものである……。

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お江戸のオアシス・北の丸。

市ヶ谷から東に歩いて千鳥ヶ淵の山種美術館に向かう(ビルの1階なので雰囲気がちょっと乏しいが)。お目当ては「没後60年記念 上村松園/美人画の粋」、上村松園ほかの作家による日本画の名作展である。

江戸期の鈴木春信や喜多川歌麿、同時代の鏑木清方、土田麦僊、伊東深水、小倉遊亀などの美人画も出展されているが、美空ひばりが主演する映画のごとく、主役の松園敵なしの風景であった。

展覧会いっとう最初の絵は「つれづれ」(1941)で一気に松園ワールドへと突入させられる。

着物の柄と色あい、そして書物を読んでいる表情がホンマに見事。そして今展の中で一番大きく扱われていた「砧」(1938)。



帰ってこない夫を案じ、砧を打って無事を祈る(動作に入る直前の)表情を描いた傑作で、遠いまなざしが素晴らしい。

先日の松伯美術館では松園の絵は松園だけの部屋、松篁(息子です)の絵は松篁の部屋ということでわからなかったが、今回はいろんな作家の作品と一緒に観ると、構図の素晴らしさが際立っていて他を寄せ付けない。そして大胆な背景の取り方がいつまでも印象に残る。この「牡丹雪」(1944)で今回も完全にヤラれてしまいました。

しあわせな松園タイムを過ごした後は、アメリカ出版研究会が始まるまでの間に北の丸公園に足を延ばす。

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突き刺さるフレーズ@京都店特撰。

バッキー井上の新刊単行本『京都 店特撰』のゲラを通しで読んでみたが、ブログの時には読み飛ばしていたような言葉がビシバシと突き刺さるように現れては消え、消えては現れる。縦組みの文字に託された井上英男という書き手のフレーズ力を改めて思い知らされ、ちょっと新鮮な驚きを味わっている。

30いくつかの話を読み終わったときに京都の街への何とも言えない「愛おしさ」や「哀しさ」がこみ上げてきた。暑い日なのに生ビールよりも日本酒の熱燗できずしが食いたいと猛烈に思った。版元の代表がこんなことを言うのは変なのを承知で申し上げれば、不思議な本である。

店のことをこんな情感たっぷりに表現したテキストを過去に読んだことはない。が、この本はどう考えても「店のガイドブック」ではない(住所や電話番号はちゃんと書いてあるが)。

少しでも★や点数が多い店に行きたいとか、1泊しかできないから「ハズさない」店に行きたいとかいって手当たり次第に情報を集めて「武装」する人には不向きな本かもしれない。それは例えば、あなたの街へ遊びに来たヨソの人が「ハズれない店知りませんか?」とガイドブック(あればの話だが)片手に目を血走らせて尋ねてきたら、きっとあなたは「まぁまぁ、そない肩に力入れんでも」「ここに載っているような店やったらどこ行っても大丈夫でっせ」と言うはずである。

京都もそれと同じことだと思う。

バッキーが「京都は選手の層が厚い」と冒頭で力説しているように、この『京都 店特撰』に載ってない名店もそれこそ星の数ほどある。だからもしこの本に登場していてあなたの琴線に触れるような店が休みだったりいっぱいだったりしても、がっかりする必要は何もない。そのすぐ近くに地元の人間で賑わう店がきっとあるはずだし、それはきっと「特撰」な店である。

この本が指し示しているのは、「俺が昔から通っているのはこんなにスペシャルな店だ」(そんなものは言わずもがなである)ということでは決してなく、「街の気配や店や人の気配を感じながらその瞬間の自分の戦闘値だけで勝負して遊ぶのが京都ではゴキゲンの近道だと思う」とか「多少失敗してもひるむことなく愛のさざ波のように京都を使い込んでしまおう」とか「外で飲むときはその店の投げる球をただ飲むことが酒場を最も楽しめるスタンスだ」(いずれも『京都 店特撰』より)とかいう、すてきな街や店への「アプローチの仕方」「敬意の払い方」ではないかと思う。

だからちょっと変わった「京都との付き合い方」のガイド本であるが、実は日本はおろか世界中どこの街へ行っても通用する「街や店でしあわせになる方法」になることは保証する。

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「師匠」金平聖之助、岡田山にて講義す。

「賑やかしにぜひぜひ、いらしてください」

神戸女学院大学英文学科准教授の田辺希久子さん(アメリカ出版研究会のメンバーであり、2008年度神戸女学院大生が選ぶ英文学科ベストティーチャーでもある)から、同大学の通訳・翻訳専門研究会の講演へのご招待をいただく。講師はわが出版人生の師匠でありアメリカ出版研究会の主宰者である金平聖之助氏(手塚治虫渥美清バート・バカラックと同じ昭和3年生まれの80歳)。テーマは金平氏の専門分野である「アメリカ出版事情と日本の翻訳出版」である。

昨年から大学案内の編集を弊社が携わることでにわかにご縁が出来、先日も妹分の結婚式でソールチャペルに訪れる機会があった神戸女学院にてわが師匠が講演をするというのは、ちょっと不思議な気分だった。

その不思議な気分の中で金平氏はいつものように簡単な自己紹介(役者の息子として京都・太秦に生まれ、その後上京し旧制中学時代に英語が好きになるも戦争で中断、戦後小学館に入り『めばえ』『よいこ』『幼稚園』の編集長を歴任し、後に国際室長となり退社。大妻女子短大の教授を最近まで務めていた)から始めた後、前半はアメリカの出版事情を、後半は日米の翻訳出版事情について80分ぶっ続けに話をした。

前半の「アメリカの出版事情」では、ドイツのベルテルスマンやフランスのアシェットなど外国出版資本がアメリカに続々と進出している現状やアマゾンの勢力拡大の話、教育界から排除されてきたコミックに市民権が与えられつつある話のほか、テレビトークの女王オプラ・ウィンフリーやおもてなし本のベストセラー作家マーサ・スチュワートの「ワタシ雑誌」のことを次々と俎上に載せる。

私にとっては「なじみ」のある話でも自分の娘世代(いたらの話)の学生と一緒に拝聴すると、実に新鮮な感じがする。何よりもそれを受け取る会場の空気が、「知ったかぶり」をしている人間も多い東京の出版業界セミナーとでは違う。そして後半はこの講演を聴きに来た神戸女学院大学の学生のためのような話で、「翻訳小国アメリカ」に対し「翻訳大国ニッポン」の現状と未来についてとてもホープフルな話をされた。

アメリカでは「何で映画を観るのに字幕見なきゃならないんだ?」という人がまだけっこう多いらしく、翻訳文化が育っていない。日本は逆に全出版発行点数の8%が翻訳物であり、翻訳エージェントの活動も非常に盛んだし(『TIME』が編集しディスカヴァー・トゥエンティワンから発刊された『オバマ~ホワイトハウスへの道』は某エージェントが4日で完訳→入稿したらしい)、東京の翻訳学校も他に仕事を持っている女性で盛況だという。

何よりも神戸女学院大学には、卒業生に松岡享子さん(東京子ども図書館理事長)という翻訳のスーパースターがいる。図書館には彼女の訳書も多く所蔵してあり、在学生・OGにとってはおなじみの存在であるが、何よりも翻訳された日本語をもう一度「耳で聴く」ことを一番大切にしていた人らしい。その松岡さんの話をされる時の金平氏の表情は、彼女へのリスペクトに満ちたチャーミングなもので、教室内はすっかり和やかな空気が支配していた。

講演終了後は、何と金平氏の私物であるアメリカ雑誌の「好きなやつ持ってって」大盤振る舞い会となり、そのあと別室で懇親会が開かれた。田辺准教授はもちろん、教授の松縄順子さん、非常勤講師の豊倉省子さん、女学院OGで話題の雑誌『ビッグイシュー』大阪編集部の馬嶋慶子さん(岸和田出身!)、そして大学案内の制作以来ずっとお世話になっている企画広報室の長谷川紹子さん(ブラジル出身!!)もご一緒である。講演に来ていた学生の多くもそのまま残り、サンドイッチやフルーツをつまみながら金平氏を囲んで談笑の輪ができる。

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ご無沙汰してました上村松園さま。

久しぶりに奈良・学園前の駅に降り、大渕池まで歩く。目的地は池の畔にある松伯(しょうはく)美術館である。

実は昨年秋に『The ROYAL』1-2月号の取材でライターの柴口育子さん、カメラマンの有本真紀さんと一緒に訪れる予定になっていたのだが、急用が出来、お二人に「すんませんあと頼んます」と言って私だけお先に失礼した経緯がある。今回の訪問は「あの時は失礼しました」が半分、あとの半分は近鉄中興の祖であり大阪商工会議所の会頭であった佐伯勇の「お屋敷ってどんなんやろ」という好奇心である。

バスがひっきりなしに通る幹線道路を北に向かって1キロほど行くと「←大渕池公園」という標識が見え、左折してしばらく歩いたらそれまでの無味乾燥な新興住宅地とはちょっと違う景色が広がった……。

池の畔に大きな木があり、木陰のベンチから松伯美術館。ここまで過酷な日なたを歩いてきた身には(別に歩かんでもよかったのだが)「オアシス」というのはこういうものかとちょっとだけ歓喜。橋を渡って美術館に入る。

松伯美術館と旧佐伯邸は同じ敷地内にあり、近鉄グループが管理している。事務局次長の伊藤隆博さんに、まずは昭和40年(1965)に完成したという旧佐伯邸に案内していただいた。設計は都ホテル(現ウェスティン都ホテル京都)佳水園新歌舞伎座(難波)、日生劇場(日比谷)、梅田地下街換気塔、そして先日書いた大成閣(心斎橋)を手がけた村野藤吾である。

この旧佐伯邸は客人をもてなす茶室と日常生活を送る室とに二分され、その間に玄関と応接間がある。一般公開はされていないが、茶室はお茶会に使われたりもするし、また茶室へのエントランスとなるこの中庭は土日祝に限ってのみ喫茶處がオープンする。丹頂鶴はもちろん置物だが、近鉄バファローズのオーナーや文楽協会会長を務めた佐伯勇の趣味の一端に、数寄屋建築にも才能をいかんなく発揮した村野藤吾の空間を通して触れることができる、ぜいたくな場所である。

このあたりは名だたる「学園前」の中でも財界重鎮のお屋敷が多く、某世界ブランド家電メーカーの社長宅も近くにあるらしい。ちなみに松伯美術館を含めた旧佐伯邸敷地の広さはどれくらいですか、と伊藤さんに訊いたら……

「だいたい、1万平米ですかね」 

簡単におっしゃるけど、日本一メガな書店であるジュンク堂池袋本店の売場総面積(約7,000平米)より広い。弊社140B(56平米)の178倍である(どんな比較や!?)。 池の対岸からボートで侵入し、敷地内の松林にテントを張って生活しても、気がつかれずそのままアウトドアライフを送れるのではなかろうか。表玄関前には見事なしだれ桜が数本、そして「逍遙の道」などのんびり歩きたくなる散歩道もいろいろあって、一日過ごしてもぜんぜん愉しいはずだ。

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エラそうに言ったからには…

先日のブログで、こんなことを書いた。

私は日本の出版界にいろいろ問題がある、というのはその通りだと思う。

ただ、出版界の体質は決して閉鎖的ではない(取次の新規口座開設のハードルは高いが)。面白い商品をつくってたくさん売りたいと思っている人間には、それが地方の出版社であろうと商売敵であろうと、聞けば親切に教えてくれるという人が出版界にはたくさんいる。少なくとも私が出会った出版関係者の中に、「君は東京の版元じゃないから」などと言う人間は一人もいなかった。みな、本や雑誌の現場が少しでも盛り上がることを望んでいた。

だから私も、「本を出したい、売りたいけどどうすればいいか?」とやる気はあっても道筋がわからない人間には、聞かれたことは可能な限りお答えしたいと思っている。それがこれまでお世話になった様々な先輩や関係先の方たちに対する最低限の礼儀だと思うからである。

自分が書いたものの引用で大変申し訳ないが、その時期があっという間にやって来た。

7月2日(木)に中崎町[コモンカフェ]にてこんな講座でお茶を濁すことになっている。講座の仕掛人は、カフェの共同オーナーの一人であり「プロデューサー」という言葉が名実ともに似合う(残念ながら似合わないのに肩書だけそうである人間の方が多いが)山納洋氏である。

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バッキー「朝日新聞」ジャック。

またオーストラリアに逆転負けかい!? 情けないのぉ」

 テレビを見るまでもなく、電車の中で携帯に毒づいて帰宅。メシを食う前に夕刊でも読んでおこうかと思ったら……

 

「バッキーが朝日に載ってる!?」

 これは朝日新聞(大阪本社)夕刊の名物コラム「ますます勝手に関西遺産」という、関西が誇る有形無形の「お宝」を紹介しているコーナーだが、今回のお題は「京都の豆腐」。その推薦人として事もあろうに(いやいやめでたい)、○千家とか××寺とか△△大学教授とかのエライさんではなくバッキー井上がドーンと前面に出ている。内容はこちらを読んでいただいた方が確かです。

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ウチダせんせに、祝福を。

「この人の文章、ホンマに凄いやろ。バツグンやろ」

江弘毅が刷り上がったばかりのミーツ(2002年2月号)を開けながら示してくれたのは、その号から始まった新連載「街場の現代思想」(後に同名の著書も刊行)だった。が、書き手の名前はいかんせん馴染みがない…

「この“樹”って人、何て読むんです?」

ウチダタツルを知らんかナカジマくん? いま日本最強の哲学者やぞ」

2001年12月28日。京阪神エルマガジン社は堂島から船場に移転した最初の年の瀬を迎えていた。納会を終えた後も、ビールやおつまみが残る会議室で江は周囲の人間を捕まえてはそのページを開いて「ウチダせんせ、スゴいやろ」と例の調子で吹聴しまくっていた。

あの頃が会社的には最も落ち込んでいたはずだが、江は「全く新しい書き手であるウチダせんせ」の登場に弾んでいて、それが他のミーツスタッフにも伝染していたように思う。

「街場の現代思想」はアプローチが全く斬新かつ内容が至極まっとうで、何度も「そうそう」とうなずかせてしまう説得力がある。ウチダせんせが神戸女学院大学の現役教授だということもあるだろうが、今どきの若い人間の心にもスッと入り込んでいけるリアル感があった(アジサカコウジ氏の4コマ漫画も冴えに冴えていた)。これまでの連載とは全然違ってて、いい意味で破壊力満点だった。

やがて江は、ウチダせんせの原稿が届く度に「見てみぃこれ」と言いながら私のいる販売部に打ち出したテキストを持って寄るようになり、「今回もスゴいなー」とみんなで食い入るように読みながら私も販売部員もすっかりウチダマニアになっていた。バッキーがよく言う、江弘毅の「勝ち誇ったような顔」である。

その頃から、目に見えないけれど少しずつ会社の中が変わっていったように思う。

とにかくよく話し合うようになった。会議をすれば、面白いタイトルなど何か前向きな結論が出るまで粘った。それはきっと、各人がこれまでの結果を会社や他人のせいにするのではなく、まず自分で「引き受ける」という目が出てきたからではないかと思う。そして少しずつ「笑い」が出始めた。みんな会社を変えたがっていたが、変えたがっている私たちの動きそのものに「新しい会社の未来像がある」ということをウチダせんせの書いたものから学んでいった。

あの頃、ミヤタ社長、ウチダせんせ(後に平川克美さんも)と立て続けに登場し、じわりじわりとその影響が社内に浸透してきた結果、私たちは変わることができたし、やがて目に見える成果として『神戸本』『大阪本』『京都本』『日帰り名人』などの大ヒットが生まれた。

あくまで結果論だが、たとえ芳しくない結果に終わったとしても、ウチダせんせは連載や著書を通じて一貫して、私たちに祝福を贈ってくれていたはずである。私もいつしか「販売の仕事っちゅうのは、人(読者、書店、編集者)に祝福を贈ることやな」と思うようになっていた。

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浅草・夜の謀議。

トーハン日販の本社口座(これがないと全国の書店さんに140Bの本がなかなか並ばない)取得のために各本社を訪れ、各担当の方と今後のもろもろについてお話をする。

薄曇り、蒸し暑いと天気はあまりよろしくないが、超高速でミリオンセラーが誕生したという出版界久々の朗報もあり、担当のお二方とも心なしか明るい感じであった。何にしてもめでたい。私が生きている間に140Bがミリオンセラーを出せる確率は、宝くじで1億円が当たる確率と同じぐらいかもしれないが、一応その「宝くじを買う」ことはできた、ということである。

トーハンのお邪魔ついでに隣のビルにある出版科学研究所の佐々木利春さん(佐野眞一の『だれが「本」を殺すのか』ー新潮文庫版ーにも登場されます)をお訪ねし、日販ではトリプルウィンという部署の古幡瑞穂さん(「本屋大賞」縁の下の力持ちです)のフロアにも寄らせていただく。

佐々木さん、古幡さんとも月1回の「アメリカ出版研究会」で幸運にも知り合うことができたが、いずれも本や出版が好きだという明るいオーラを常に漂わせるキャラで、こちらの面倒な質問やリクエストにも丁寧に答えてくださる、まことにフレンドリーな方たちである。

私は京阪神エルマガジン社時代からトーハン、日販にお邪魔した際にこのお二方の部屋に立ち寄り、無知で図々しい大阪の出版営業マンに何かと知恵を授けていただいた。しかし最近は古巣のメンバーがいずれにもお邪魔していないらしい。頼りになる人が他にたくさんいればいいのだが……と、ちょっと心配になった。

私は日本の出版界にいろいろ問題がある、というのはその通りだと思う。

ただ、出版界の体質は決して閉鎖的ではない(取次の新規口座開設のハードルは高いが)。面白い商品をつくってたくさん売りたいと思っている人間には、それが地方の出版社であろうと商売敵であろうと、聞けば親切に教えてくれるという人が出版界にはたくさんいる。少なくとも私が出会った出版関係者の中に、「君は東京の版元じゃないから」などと言う人間は一人もいなかった。みな、本や雑誌の現場が少しでも盛り上がることを望んでいた。

だから私も、「本を出したい、売りたいけどどうすればいいか?」とやる気はあっても道筋がわからない人間には、聞かれたことは可能な限りお答えしたいと思っている。それがこれまでお世話になった様々な先輩や関係先の方たちに対する最低限の礼儀だと思うからである。

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「伸」打ち、本日登場!

私が「販売」という仕事が死ぬほど面白いと思ったのは、2001年の秋、京阪神エルマガジン社販売部時代にある即売書店の社長に出会ったことがきっかけである。

雑誌は「売れる」ものでなく「売る」もの、商品とは「読者が金を出してでも買いたいもの」というポリシーをこの人からたたき込まれた。

この人が経営する店の一つである南海難波駅2階改札口前の小さな書店は、「商品が読者に響くかどうか」の結果がすぐに出る場所で「発売日キャンペーン最重要地点」である。ここで売れれば、その後も息長く売れ続ける。が、ここでダメだったらもうその商品は大して希望がないという結果を何度も味わった。

勝ったり負けたり、というより、負けたり負けたりたまに勝ったりであったが、たまに勝った時にその社長と一緒に江や担当編集者、ライター、販売部員と行く[鳴門寿司](居酒屋ライクな寿司屋さん。シメは中華そば)でのビールやどて焼きのうまさは筆舌に尽くしがたく、いつまでもこの時間が続けばいいのにと思ったものである。

逆に予想を下回る結果に終わった場合は、チェーンの居酒屋で反省会である。私はここで社長から「ちょっとこの商品、独りよがりやったんちゃうかな?」と言われて隣でうなだれる辻本弘樹(現京阪神エルマガジン社出版事業部)のしょんぼり顔を何度も見たが、次の機会で[鳴門寿司]へと昇格し喜色満面でビールをおかわりする顔も一度ならず見ることができた。

『大阪本』『日帰り名人』『京阪神おつかいもの手帖』『走る名人地図。』『1泊5食』……前の会社ではその社長の笑みと[鳴門寿司]が「大ヒット」のシンボル的存在となり、編集と販売がいつしか「大ホームラン飛ばして、あの人を[鳴門寿司]でウハウハいわさんとな」と同じ目的で仕事をするようになった。

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晴れ女のソールチャペル。

20年来の付き合いである妹分・中つる暢子(つるは雨冠に鶴)さんの結婚式が7日の日曜日、彼女の出身校である神戸女学院大学のソールチャペルで行われた。

私は不幸にも「仕事」でしかこのキャンパスにお邪魔したことがない。しかも大体「デフォレスト記念館」あたりで打ち合わせをすれば用事が終わるため、そこから奥は歩いたことがなかった。背広を着た汗っかきのオッサンが女子大のキャンパスをきょろきょろしているというのも傍目には見苦しい限りなので、大体はそこからタクシーを呼んでもらい、失礼つかまつる、というものである。

この日はちょっと違う。一応、新婦側に呼ばれた来賓でございます。奥にあるめぐみ会館(同窓会館)の2階控室で待機していたら、14時前に全員にお呼びがかかる。いよいよ、第4代院長の名前を冠したソールチャペルへと入場である。ちょっと曇っているのが気になるが…。

少し視線をふれば、ヴォーリズ建築の真骨頂であるやわらかい光と影の風景に出合う。

チャペル内も平和な空気に充ち満ちているが、これまでに入ったどんなチャペルよりも光を抑えた設計に少しおどろく。どちらかというと暗い室内だが、曇り空から太陽が顔を出した瞬間に窓を通してさあっとチャペル内がオレンジ色に染まる。

結婚指輪交換の際、計ったようにその一瞬が訪れたので、たぶんこの夫婦はうまくいくんだろうと根拠のない確信に至った次第である。式の後は記念撮影、そして中庭の噴水前にドリンクバーがしつらえられ、あたらしい夫婦を囲んでの歓談タイム、となった。

曇り空はどこへいったやら、いつの間にか噴水はきらきら輝き、氷入りのジンジャーエールが次々と抜かれ(アルコールはダメなんですな、ここは)、芝生の緑は光に映えてそよ風が嬉しく、初夏のしあわせを一手に引き受けたような光景がやってきた。さすが「晴れ女」ナカツルさん、おいしいところを全部持って行くのがイチロー並みですな。

左に文学館、右は図書館。たぶんヴォーリズの建築の美しさというのは、四季の自然やそこで学んだり遊んだり寛いだりする人間と三位一体で初めて完成されるものなんだろうと、無粋なケータイ(カシャーンというシャッター音は何とかならんか!?)のファインダー越しながら、しみじみと感じた次第である。

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杉本博司、あと1日。

今日初めて見たくせに何言うてんねん、であるが、時間のある人は絶対見といた方がいい「杉本博司 歴史の歴史」です。

 4月の初めにこの展覧会のことを教えてくれた、インテリアプロデューサーの松原女史は「すごいよ、度肝を抜くよ、絶対いいよ」と何度も強調して話してくれたが、その作家の名前も聞いたことがない私(単に無知)は、その言葉を拝聴しつつも「あぁそうなんですか」と言ってチケットを戴くのみだった。それはしばらくサイフの中で眠っていたが、「6月7日で終わりなんやな」とだけは分かっていた。

会社にいると、別の知り合いから突然メール「ぜったい見とき。後悔するで」。

今日は会議の後、決算役員会の資料づくりに来たんやけどなぁ……1時間ばかり抜ける。こんな時、国立国際美術館まで徒歩1分というロケーションは、有り難みがないようでやはりありがたい。

いきなり、第二次世界大戦中の雑誌『TIME』の表紙(なぜか蒋介石が最多出場)や東京裁判のA級戦犯の写真が登場したかと思えば、古墳時代の銅矛が出てきたり、アポロ計画の宇宙食や隕石が展示されていたり、法隆寺や正倉院のカラフルな伝来裂があったり、杉田玄白らの『解体新書』の版本が飾られていたり。それを抜けると「放電場」と題された体育館のような広大なスペースに、杉本博司の写真作品が規則的な配列で展示され、その片隅に鎌倉時代の「雷神像」やマン・レイの写真が置いてあったりする。地下3階だけで頭がトランスしてしまった。

地下2階に上がると、今度は化石の数に圧倒される。それも5億年前の三葉虫群からアンモナイト、カニ、トンボ、海サソリまで、ここは自然科学博物館でしたっけと思えるぐらい、リアルな展示が次々と続く。そして次のコーナーでは仏像や能面や屏風下絵、掛け軸など、こっちはどこかの仏教美術館ですか、と聞きたくなるほどのボリューム。

「いったい何の展覧会なんや、これは!?」

入り口のコンセプト解説をまた一から読むよりも、近くにいる係員の方に訊いた方が分かりやすかろうと、パイプ椅子に座りバッジを付けておられる女性に質問した。彼女は事もなげに

これらはすべて、写真家である杉本博司さんの個人コレクションと杉本さんの作品です

個人? あれだけのモノを、どうやって個人が所有できるのか。予算やスペースは?

杉本さんの写真は、今や1枚1億円という値段で取引されますから。奥様は銀座でギャラリーを経営しておられるそうなので、コレクションはそのビルなどに保管されていると思いますよ

実際にエルメスやカルティエ、ルイ・ヴィトンなどの企業コレクションとして杉本博司の写真が買われていると後で聞いたので、作品を売ったお金で杉本博司がそれだけの「買い物」をできるのもウソではなかろうとは思ったが、それ以上に「1枚1億」とか「銀座のギャラリー」とか極めて分かりやすい単語を使って説明してくれる学芸員のサービス精神に、さすが国立でも大阪の美術館は違う!と感心してしまった。

なぜ写真家である彼は、そこまでやってしまうのか? 杉本博司自身の説明によると

私のアートとは、私の精神の一部が目に見えるような形で表象化されたものである。いわば私の意識のサンプルと言っても良い。私はアーティストとして長年この技術を磨くことを心がけてきた。

(中略)私は私の技術を磨く過程の中で、学ぶべき先人の技術を体得する為の手本を必要とするようになっていった。手本は先人が到達することができた地平のサンプルと呼び換えても良いだろう。

(中略)ここに集められたサンプルは、私がそこから何かを学び取り、その滋養を吸収し、私自身のアートへと再転化する為に、必要上やむを得ず集められた私の分身、いや私の前身である。私はそれらのサンプルから、過去が私の作品にどのように繋がってきたのかを類推し、その現場を検証する空想に遊ぶようになった

「過去から現在までの時間の流れ」や「自らが影響を受けた出来事や作品」に思いを馳せる作家はそれこそ、世の中に掃いて捨てるほどいるだろうが、そのために5億年前の化石からアポロの宇宙食まで自分で買い集め、それを自作と一緒に国立博物館に展示するアーティストは、この人以外にはいないだろう。

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角を曲がればモリモトさん。

某誌の取材で宗右衛門町の[福龍]を訪ね、すこぶる旨い四川料理をたんまりいただく。たぶん一人では食べきれないと思い、この店のことを教えてくれた食い道楽の義兄を持つ道田惠理子と一緒に赴いたが、予想通り満腹になって[福龍](もっと書きたいけど後日に)を出、堺筋を北上する。

「ちょっと腹ごなしに歩かなアカンわなぁ」

最初は長堀橋から北浜まで地下鉄に乗り、そこから『月刊島民』御用達の京阪中之島線に乗り換えて会社に戻ろうと思ったが、「南郵便局前」の交差点で気が変わり、左折して心斎橋方面へ。そのとき江から電話が入り、今日は出たっきりで明日も夕方まで入れない、それで朝○○があるから××しといてくれ、頼んどきますー……という話を歩きながら聴く。電話を切ったらもう[大成閣](ミナミに残る村野藤吾設計の名建築)やファミマが目の前。その時ふと思い出して

「ミチダ姐さんって、モリモトさんとこ行ったことある?」 「ないけど、近くなんですか?」「そこ曲がったらすぐやで」「じゃ行きましょ」

三休橋筋を右折し、森本徹さんの店[ザ・メロディ]でお茶を飲んでから帰ることにした。

この店そしてモリモトさんのことは、江弘毅の『街場の大阪論』にも二度ほど登場する。193ページから始まる「ミナミの文脈」と203ページからの「街のMVP選手」である。内容は売上協力してほしいからこれ以上はナイショだが(そこだけ立ち読みしたらもう買いたくなりまっせ)、かつてはレコード店、今やCD&アロハショップ&カフェの店主であるこの人が、いかに「街の顔」としてミナミのおもろい人間や店の話を紡いできたかを、江独特の筆致で表現している。

今日も例によってモリモトさんのやわらかい声で、カウンター越しに「おぉ、まいど。これはこれは、お嬢さんもご一緒で」といきなりジャブ。「いやぁ、うれしいですねぇやっぱり」とゴキゲンな道田惠理子を前に、モリモトさんは一段低い声で私たちに聞こえるように「そない言うといたら、女の人はいくつになっても歓んでくれるやろ」と早々にオトし、「で、会社の方はどないなん」といつものモリモトさん時間が始まった。こちらもおいしいハワイアンコーヒーを飲みながら今の仕事や移転先のことを何やかんやと喋ってしまう。

「そうそう、ボクなぁコレ書いてんねん」

カウンターの上には、先日[隆祥館書店]で買ったのと同じPOPEYE別冊『Oily Boy』が。そう、この99ページにモリモトさんは「無人島に持って行きたい8枚のハワイアンAOR」の原稿を書いておられる。80年代前半、POPEYEが最も輝いていた時期にモリモトさんはPOPEYE誌上でウエストコースト音楽を中心に音源を紹介するコラムを執筆されていたが、そのご縁で『Oily Boy』にて再登板となった。

掲載されているアルバムはすべて[ザ・メロディ]でも手に入るので、ネットで買うのもいいがぜひこの店に、できれば休日にでも出かけることをお薦めしたい。カウンターでビールか泡盛でも飲みながらモリモトさんと世間話をしつつ、ゆっくり店内を歩き回ってCDに貼り付けられた「森本節」の手書きコピーを読むだけでも愉しいひとときである。

彼は音楽のスーパープロフェッショナルであるが、その手のウンチク話を私は聞いたことがない。訊いたらいろいろ教えてくれるだろうし、相手を選んで言わないだけなのだと思うが、この手の商売にありがちな「専門ジャンルのタコツボのことだけ詳しい」とも「売らんかな、が透けて見える感じ」とも無縁の人であり店である。 還暦を過ぎた人なのに普段走っておられるからか、全然若い。そしていい意味で変わらない。日ごろ、ミナミのさまざまな「おもろい人」と接しているだけに話題のレンジがむちゃくちゃ広いというのも、この店にいろんな人間を通わせる要素だろう。

よくよく考えたら私の携帯電話にもモリモトさんの[ザ・メロディ]が登録されているが、そういうものからアクセスするのではなく、大成閣のようなミナミらしい建物を見て「あぁ、近所にモリモトさんの店がある」と思い出して寄る、というのがこの店を訪れる感じだし、他のお客さんもきっとそうしているはずである。

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皐月の終わりに朗報二題。

マスクフェイスもめっきり減った神戸で、念願の[カフェ・フロインドリーブ]にてサンドイッチの恩恵にあずかる

2009年5月30日は全国のヴォーリズ・ファンにとってめでたい日である。

アメリカの建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計し1937(昭和12)年に竣工した滋賀県豊郷町にある旧豊郷小学校校舎が、耐震補強などの改修が終わり、町立図書館や子育て支援センターなどが入る施設として再デビューするとのこと。本日、その完成記念式典が行われた

ひと月ほどの間に、この[カフェ・フロインドリーブ](旧神戸ユニオン教会)や大丸心斎橋店、神戸女学院大学、そして彼の作品展を訪れ、最近この名建築家との強いご縁を感じる日々であるが、旧豊郷小学校校舎再デビューの報に接し、祝杯を挙げるにはやはりここしかないだろうと思い(表向き。実はサンドイッチ恋しの煩悩)、久しぶりにお邪魔したのであった。

インフル騒動開けの土曜日なので待ち時間ナシだと思ったがやはり人気店、先に二組ほど待っていた。しかしすぐに席に案内していただく。ベーコンレタストマト(BLT)サンドに陶然となりつつも、いやいやこの後出社せねばとビールではなくコーヒーに。オーナーのヘラ・フロインドリーブさんが結婚式を挙げられた祝福の場所。天井にかけて描かれる緩やかなアーチが素晴らしい。

4月に取材した際にお世話になった、立ち居振る舞いの美しいオオノさんもお元気で、「ひところはお客様が少ない時期があったのですが、きょうからまた忙しくなってます」とのことである。

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「笑いの絶えない空間」の記憶。

左から(敬称略)、内田樹平川克美鷲田清一、そして弊社の江弘毅。昔の野球少年のノリで言うと、長嶋、王、野村、そして……うーん誰でしょう?

平川克美さんが役員を務めるインターネットラジオ局「ラジオデイズ」のスペシャル版収録が、ダイビル1階の多目的スタジオ[ダイスタ]で行われた。ここで収録が行われるのは昨年6月、「秋葉原事件」についての緊急座談会(釈徹宗先生、内田、平川、江)以来である。

内容については、いずれ「ラジオデイズ」にドーンとコンテンツが登場するのでその時のお楽しみにしたいが、「学びについての共同幻想の必要性」「ブレイクスルーすることの意味」「地場の歴史がある街(大阪や岸和田)とそうでない街の違い」「ミシュランの傲慢さ」などについて、みなラジオの収録ということも忘れて(司会の平川さんは忘れていないだろうが)テンポよく熱く語っていただいた。

それぞれに「とっておきのエピソード」の出し方が振るっていて、われわれ傍聴人はもう少し静かにしていなければならないのだが、神妙な顔をして聴くよりもげらげら笑っている時間の方が圧倒的に長かった。

[ダイスタ]内リビングルームの居心地がバツグンだったようで、鷲田先生に「この部屋に出前できんの? じゃあみんなでコンパ(懐かしい単語)にしよ」と口火を切っていただき、10秒しか離れていないダイビル内のスペイン料理店[カボ・デルポニエンテ]からワインや料理をホイホイとオーダーしたのである(平川さんご馳走さまでした)。

いま日本の中でも最高に多忙な人たちが収録が終わった後もダイスタに残ってお話に付き合っていただいたことに、主催者でもない私が言うのも何であるが、心より感謝のお礼を申し上げたい。この夜の宴は、ダイビル84年の歴史の中でも特筆すべきトピックスであろう。

人がたのしそうに笑っている顔も素敵だし、人の笑いを取るためにネタを繰り出す顔もまたいい。そういう「笑いの記憶」がしみついた空間は、建築物もろとも壊れてしまったとしても地場の「空気」として次の時代にバトンタッチすることができるのではなかろうか。そう感じさせる5時間余のひとときであった。

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100→72の景色の中で。

先週の土曜日、新宿の[ベルク]を出たあと、神保町でのアメリカ出版研究会に出席する。

書店の現状というテーマだったが、いきなりショッキングな数字に驚愕。国内の書店数は2000年時点で100とすると、2009年には72に減っている。

「でも、コンビニがあるやん」

コンビニエンスストア(CVS)には雑誌、それも「CVSで売るような大部数かつ廉価の雑誌」しか置いてないし、置かれるサイクルも非常に短い。売り切れそうになっても店単位で追加を入れたりはしない(大人気の特集で重版があるが、ごく希)し、陳列サイクルが終了した時点で「即返品」である。

「すぐに売れるもんやないけど、こういう商品は置いとかんとな」というのがない。逆にそれを大事にする「街のよろず相談所」的な役割で、本屋は愛されてきた。

「子供が病気になった」「リボンの結び方のガイドは」「江戸川乱歩の小説」「小学校3年の算数ドリル」「手紙の書き方」「ドラえもんの最新刊ある?」「年賀状どうしよう」「将棋の雑誌」「ケーキの焼き方」「ここらへんの地図がほしい」「芥川賞の受賞作」「朝ドラの特集は」…

棚をすぐ探す人もいれば、なじみの店員さんに声をかけて探してもらう。よく考えたらそういう街の小さな書店さんのおかげで、私は『小学○年生』や『少年マガジン』だけでなく百科事典や世界の名作文学(あまり読まんかったが)にたやすく触れることができた。

叔母が買ってくる『週刊平凡』で加山雄三の歌詞を覚え、母あてに配達される『暮しの手帖』でモノとの付き合い方を教えてもらい、父が買って帰る『宝石』のヌードグラビアを見て下半身が固くなったりした(苦笑)。

病気で熱を出した時は、「本を買ってもらえる絶好のチャンス」である。『オバケのQ太郎』や『巨人の星』のコミックを自宅から1キロほど離れた書店から配達してもらっていた。それらはすべて西鉄雑餉隈(ざっしょのくま)駅前の[筑紫書房]を通じてである。もう40年近くも前、博多に住んでいた頃の話である。

書店さんはわが家の家族構成から趣味まで全部ご存じだったと思うし、ご近所さんの「生活」を知っているという意味で、「街の入り口」でもあったと思う。

9年前に100軒あった街の書店がいまや72軒。けれどこの数字は「街の書店を必要とする人々が28%減った」ということでは決してない。街の書店が「CVSに毛の生えた品揃えしかしていない」「書名を聞いても反応がない」ならば足が遠のくけど、「客商売」をしっかりやっている店は強いし、「同じならあそこで買おう」と客は寄ってくる。

大阪市中央区安堂寺町(谷町六丁目駅の近く)にある[隆祥館書店]は、規模は小さい方だし品揃えにも限りがあるが、お客さんからの問い合わせや注文があってからの対応がむちゃくちゃ速い。近くに24時間営業のCVSも当然あるが、客は店の人と話をするうち、いつもの雑誌のほかに「初めて知った本」をついでに買って帰る。

店に立つ二村(ふたむら)知子さんは最近、インフルエンザ騒動の中で不思議な体験をしたそうである。

「休校になった子供たちが、急に店に来るようになったんです」

聞けば、図書館にも行ってはいけないと言われたらしく、それで書店に足が向く。「何かいい本ない?」と聞いてくる子供に、二村さんは「じゃあ伝記を読んだら?」と薦めた。休校期間中はそんなやりとりが多かったそうである。ターミナルの大型書店では絶対無理な対応だし、もちろんコンビニでもアマゾンでも「何かいい本」では探しようがない。

この店は月額3,000円以上購入したお客さんには配達もするそうで、マタニティのお母さんには率先してお届けします、とも。そのことで、共働きしているお父さんからもお礼を言われたらしい。

「まだまだ地元の店の役割ってあるんだなぁ、と改めて思いました。お金儲けだけ考えたら、本屋なんて絶対アカンと思いますし、売りたい本が入らなくて心が折れそうな時もあるんですが、お客さんの存在が支えてくれますね」

店の人間から顧客に「あなたにはこれが」という「リコメンド(お薦め)」があり、「リスペクト(敬意)」が贈られる。それらは決してウン十万のスーツや時計がほしい客にだけついてくるものではない、ということを二村さんの[隆祥館書店]は日々実践している。

関西では服屋であろうがイタリア料理店であろうが客商売に必ずこの「リコメンド」や「リスペクト」がつきもので、これに「品質間違いナシの商品」があれば無敵だが、出版については一番決定的な「商品」がぐらついているから始末が悪い。

100→72の正しい読み方は、「お金を出して買う価値のある出版物が28%減った」である。版元がどこであれ、私たちのつくった本も勘定に入れなければいけない。新刊の販売金額はこの9年間で2兆4,000億円→2兆円へと、4,000億円も減った。開発途上国のGDPに匹敵する金額だ。

逆に増えたものが二つある。一つは「出版点数」、もう一つは「売り場面積」である。

前者は、書籍だけで67,000点→76,000点と9,000点も増えた。普通ならそんなに増やせば全体の売上も上がるはずだが、そうなってはいないぶん悲惨さが深刻だ。売れないから「本を出してしのぐ」という最悪のスパイラル。そんな手で出版社は「しのいだ」つもりでも、アホの一つ覚えのように出す本にいい結果がついてくる訳がない。編集者も販売担当者も疲弊し、店の人間が返品処理に手足を取られ、接客どころではなくなってくる。

後者は、28%も書店が減っているのに面積が増えているという不思議な現象だ。郊外型、ターミナル型の巨大書店の売り場が増えたからだが、二村さんのようにきめ細やかな接客をする人も一緒に増えている訳ではもちろんない。そんな店の営業を支えるのは、お客となるべく目を合わせたくなさそうにしているアルバイト君たちである。

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「ひとびと店」ベルク@新宿。

東京でもう一つ行きたかった場所は、新宿駅東口の[ベルク]という店である。

カフェともファストフード・レストランともビアパブともワインバーとも言える、行く人にとって「一番都合のいい使い方が可能な」不思議な店。朝7時から夜11時までやっている。

ゴールデンウィークさ中の5月3日、和歌山県日高川町の書店[イハラ・ハートショップ](井原万見子店長)にお邪魔した際に購入した『新宿駅最後の小さなお店ベルク』(井野朋也著)のおかげである。「自分たちが毎日でも寄りたい、旨くて安くて早い店」をつくるために、井野店長以下各スタッフが創意工夫し奮闘努力する数々のトライアルがリアルかつ克明に描かれている。

壮絶な試食の繰り返しや、パンやソーセージの職人さんに対する粘りの説得、狭い店内での写真展開催、「ベルク通信」の発行、立ち退き反対の署名集め…と、一つひとつのアクションが実にポジティブで、一気に読ませる。面白いだけでなく、「街にとってかけがえのない店とは何か」を読者自身に問いかける本(日本中のテナント家主は必読)。読み終わったらまず間違いなくこの店のファンになっているという罪な一冊だ。

汐留シオサイトを出て、新橋から赤坂見附で乗り換え、新宿へ。丸ノ内線改札口からJR新宿駅東口に向かって地下通路を歩くが見つからない。ひょっとしたら「中央東口」か?  いやここにもない。案の定、やっぱり「思いこみ」の間違いであった。

私は改札口と反対方向(東側/丸ノ内線から歩くと左手)にあるとばかり思っていたのだが、そうではなく通路の西側(右手)にあった。手前のプッシュ式自動ドアを開けると、パンやカレーやコーヒーやビールのたまらない匂いが立ちこめる。腹へった。1時半を過ぎているがもちろん満席。セルフゆえにカウンター兼レジの行列も私の前に3組いる。

改札口(日本一乗降客数が多い新宿駅)から徒歩15秒のカフェが、そりゃスッと座れる訳はない。満席ならスタンディングカウンターもある。ソーセージがパキンと割れ肉汁が飛び出すホットドッグにも一瞬目移りしたが、迷ったあげく五穀米と十種野菜のカレー&アイスティーのセットにする。714円。ホットコーヒーかウーロン茶のセットだったら630円だそうな。凄すぎる。

カレーが熱いのは当然としても、飯も炊きたてでお皿に盛ったばかりのアツアツ。料理とアイスティーが私のトレイに乗った瞬間、入り口横の席が空く。すばやく移動。カレー、実に旨い。そりゃステーキハウスの1,500円するようなカレーとは違うけど、こんな忙しい店で、よくぞここまでバランスのいい味で腹に沁みるカレーが作れるものだ。このカレーやったら週2回、いや3回でも全然いける。一気に極道食いをしてアイスティーをゴクゴク。はぁー(至福)。

研究会までまだ若干時間があったので、もう一品頼んで本でも読もうと思ったが、待っているお客さんもいるし、それは次のお楽しみにしてラスト一個だけ残っていたあんパンを買って店を出ようとした時に、何か引っかかっていることを思い出した。

「そや、木村衣有子さんがこの店のことを書いてたっけ」

神保町へは都営新宿線で1本だから、ジュンク堂紀伊國屋でその本を買ってから地下鉄に乗ろうと思い、あんパンをカウンターのレジに。

「ありがとうございました。またお越しください」 日限萬里子さんが生きてたらスタッフに向かって「あんたら、ホンマによう頑張ってるなぁ」とホメちぎるであろう、そんな接客。中は地獄のような忙しさだろうが、だれ一人借り物の言葉(あのマニュアル接客用語)を発していない。みな「俺らの客やし、喜んでもらわな」と顔に書いてある。

さ、「ベルク詣」は済んだ。あんパンは帰りの新幹線ででも食べるか。また来よう、と奥のドアから出てもう一度[ベルク]を振り返った瞬間……

「あるやん、その本!」

なんと、Meets Regional別冊『東京ひとりめし』をこの店でも陳列販売していた。三度目のレジ。「すんませんこの本も。このままでいいです」

木村さんはこの『東京ひとりめし』でベルクのことを書くにあたり、「ベルク通信」 15年分を一気に読んだ上で、珠玉のフレーズを抜き出した。なかでも02年7月(99号)に店長(井野朋也氏)が書いたこの一文は、客とベルクの幸福な「同盟関係」を浮き彫りにしている。

先日、ごった返す店内で客になりすましてましたら、隣で老紳士がグラスを傾け、連れ合いの方に落ち着いた口調で、わしの目の黒いうちはこの店は潰させん、と断言してらっしゃいました。どなたか存じませんが、乾杯!末永く黒い目で! (『東京ひとりめし』P52)

3年前に東京のガイドブックで原稿を依頼された際、私は[ベルク]の存在も知らず、「新宿・渋谷・池袋のターミナルで乗り換えたら人混みでストレスが溜まるだけだから、そこをエスケープする方法を選ぶべし」とし、小田急線なら千代田線を、京王線なら都営新宿線を、東横線は日比谷線を、西武池袋線は有楽町線を使えば直通電車だからまだマシだ、などと書いた。

この場で、「渋谷・池袋はさておき、新宿では15分余裕があれば[ベルク]に寄れる。旨いコーヒーとパンを腹に入れて気分転換してから行きなさい」と訂正させていただきます。

住民100人しかいない和歌山県日高川町初湯川の「書店兼日用雑貨店」で目に入った本のおかげで、新宿のど真ん中のええ店と知り合えた。井原さんには頭が上がりませんわ。次はどんな時間帯に[ベルク]へ行き、何を食べて飲もうか。旨そうなマイスターハムサンドで樽生ビールをぐびぐびやっていたオッサン、うらやましかったなぁ。

ちなみに『新宿駅最後の小さなお店ベルク』は、井野店長の一人称で語られるストーリーであるが、時折、試食の鬼であるメニュー開発者・迫川副店長に語り手が代わったりする。この迫川さんというキャラは井野店長以上になかなかクセ者そうで、私は映画『クライマーズ・ハイ』の舞台である新聞社になぞらえ、井野さんが日航機事故全権デスクの悠木和雅(堤真一)なら、迫川副店長は県警キャップの佐山達哉(堺雅人)だと勝手に思っていた。当たりは柔らかそうだけど、「とことんいったれ」的な感じが似ていたからである。

「思いこみ」というのはホンマに怖い。詳しくはこの本読んでみてください。

ヴォーリズ浴@汐留。

お恥ずかしい話だが(別に恥ずかしくないか)、汐留の超高層ビル群に初めて足を踏み入れた。汐留シオサイトというらしい。再開発ビル独特のそらぞらしい空間や、人に会うのにいちいち自動改札機のようなゲートを通るのが苦手なので、何たらヒルズとか東京何たらタウンのような場所からは完全に足が遠のいている。

しかし「ウィリアム・メレル・ヴォーリズの展覧会」と聞くと話は別である。パナソニック電工本社ビルの4階、汐留ミュージアムを訪れた。

ビル4階ではどこかの企業が主催するイベントの受付でごった返していたが、ガラス扉を開けてミュージアムに入ると、途端に静けさに包まれる。

まずはヴォーリズが初めて日本の土を踏み、後に住居も置いて会社(近江兄弟社)もつくり、建築家として最も多くの仕事をした近江八幡での作品写真や図面、模型が飾られている。お恥ずかしい話だが(かなり恥ずかしい)、昨年4月まで2年間、電車で20分の大津に住んでいたくせにヴォーリズ建築の聖地・近江八幡へはついぞ行かずじまい。

この近江八幡市の建築群をはじめ、維持か改築かの住民の対立で何度も報道されている豊郷小学校堅田教会など県内(草津、貴生川、水口、安土、八日市、彦根、米原、今津、大津)にあるヴォーリズの設計した教会や学校、図書館などが展示されているが、滋賀県民であったころは見事に無縁であった。寝に帰るだけの生活を今になって反省する。

お次は全国各地の教会やミッションスクールのブロックに移るが、古巣・京阪神エルマガジン社の近くにあった日本基督教団大阪教会関学同志社など「なじみ」の深い建物が続々と現れる。

行ったことはないが東京・白金台にある明治学院の礼拝堂も彼の作品で、アートディレクター佐藤可士和があの見事なロゴやブランドデザインをつくれたのも、やっぱりヴォーリズの仕事あればこその「継承」なのだと分かった。

東洋英和女学院本館・階段踊り場の写真などは、広々とした窓一面に映る新緑と床のくすんだ焦げ茶色のコントラストがもう、ため息が出るほど美しかった。でもなかなか「真打ち」が出て来んなぁ、と思って角を曲がったら…

「おお!」 そこはもう、神戸女学院一色のコーナーである。

畳一畳分ぐらいある昭和8年(1933)竣工当時の模型が中央をドーンと占め、その周りにスペイン瓦の現物や音楽館、文学館、中庭、講堂、そしてこの展覧会のフライヤーにも使われている図書館本館閲覧室(青山ゆみこが制作した2010年度大学案内の表紙ー平野愛撮影ーもここです)の写真や図面が展示されている。汐留の超高層ビル内に先日お邪魔した岡田山が現れ、いきなり親近感ヒートアップとなった。

圧巻は天地4メートル×幅2メートルほどある、自然光が差し込むソールチャペルの内観写真。2週間後にこの場所に行けるとは(主役は私の妹分ですが)ラッキーこの上なしであるが、ひたすらうらやましいぞ女学院OG。

この汐留ミュージアムから1キロと離れていない帝国ホテルを仕事場としている偉大な作詞家(神戸女学院OG)の岩谷時子さんは、展覧会での「母校の晴れ姿」を観てくれているだろうか? 彼女が神戸女学院大学に入学したのは確か昭和10年(1935)年。ヴォーリズの学舎がまだ「新築」だったころだから、懐かしさもひとしおではないかと思う。観ていてくれてたらうれしい限りである。

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永江朗と松岡正剛の「明日の出版」

5月21日(木)の朝日新聞夕刊コラム「休刊時代のメディア考」では、弊社が日ごろ多大なお世話になっている永江朗氏が「若者と書店 置き去りの末」と題し、「雑誌が売れないのは、雑誌がつまらないからである」という主張を展開している。早稲田大学で日々20歳前後の学生と接しているだけに、リアルな深刻さが浮かび上がる。

新しく魅力的なもの(携帯やインターネットなど/筆者注)が登場すると、古いものは相対的につまらなく見えてしまう。変わらないだけではだめなのだ。雑誌が売れないのは、雑誌を相対的につまらなくした、編集者と作家のせいである。

とし、「もちろんそこにはライターである私自身も含まれる」という自省も忘れない。

人びとの好奇心、何かを知りたいという気持ちは変わらない。たぶんこれからも変わらないだろう。日ごろ学生たちと対話していて、これだけは確信を持って言える(中略)休刊した雑誌、あるいは苦戦を伝えられる雑誌の目次を眺めると驚く。書き手の顔ぶれは20年前と変わっていない。若者たちにしてみれば、自分の祖父母ぐらいといっても大げさではない。

ホンマに大げさではないし、かなり耳の痛い指摘ではある。しかし永江氏は「若者たちの雑誌への関心は高い」と希望のあるメッセージも送っている。

たとえばいま、学生たちのあいだではフリーペーパーづくりが盛んである。(中略)書き手・作り手の側に立ちたい者ばかりのカラオケ化かと思いきや、読む方も熱心だ。彼らは同世代が何を考えているのかに強い関心を持っている。私がいま20歳の学生だったら、フリーペーパーとインターネットと携帯電話があればそれで充分だと思うだろう。

先月、早稲田の永江研究室にお邪魔した際に、彼がこんなことを語ってくれた。

「大学2年の35人に、免許持ってる人は?って訊いたんです。するとねぇ、手を挙げた人はたったの2人。新聞購読率は3分の1ぐらいだったかな。免許より多い? でもマスコミを専攻している学生ですよねぇ……で、もっとスゴいのはドラマ見ている子が1人しかいなかったこと」

日本の出版・マスコミ界に最大の人材貢献をしてきた早稲田大学ですら、ものすごい地殻変動が起きているのだ。その状況に対して「若者は無理だからもっと上の年齢層にシフトするか」と思うか、「この人たちが読者になるメディアとはどんなんだろう?」と試行錯誤しながら考えるか。選択はこちら作り手送り手に委ねられているが、前者を選んだら間違いなく「縮小のち破綻」の道である。

最後に永江氏は流通のことにも触れる。雑誌販売を支えた小さな書店が毎年1,000店単位で廃業する状況に対して出版社が何ら救済の手を差し伸べることなく放置しておいたことに鋭い批判を加え、こう結んでいる。

いまの雑誌の苦境は、若い読者を大事にしなかったことと、小さな書店を大事にしなかったことのしっぺ返しかもしれない。

これは「もう手遅れだ」ということではなく、逆に「小さな書店と一緒になって若い読者を育てられるような、あるいは若い読者と一緒になって小さな書店を盛り上げられるとような雑誌とはどのようなものか?」という方向で考えると「しあわせ」への視界が開けるのではないか。

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出版に「しあわせ」はあるか?

 一昨日、河井寛次郎記念館にお邪魔する前に訪れたのが西本願寺

5月20日(水)・21日(木)の両日にわたり親鸞聖人のハッピー・バースデイを祝う「降誕会(ごうたんえ)」に来賓としてご招待いただき、末席を汚した。

なぜそんな会に呼んでいただけるのかというと……2年半ほど前に本願寺出版社の冊子『千の風~大切な人を失ったあなたへ』の編集アドバイスをこの会社の藤本真美女史から依頼され、「そうそう、そんな感じでええですやん」「バッチリですがな」などと言う程度の頼りない仕事をさせてもらった記憶がある。それでも、スタッフが一堂に会してディスカッションしたひとときは非常に刺激的な時間だった。

とにもかくにもその冊子は、詰めを漏らさぬプロデューサー兼編集者・藤本真美さんの指揮の下、西脇顕真さんの熱のこもった原稿に、カオリとマリ子の美しいイラスト、そして太田賀司彦さんのデザインが見事なハーモニーを奏で、発売直前から「千の風」という唄(正直、苦手だが)がブレイクしたこともあり、30万部近い大ヒットになったとお聞きしている。

何があったからそれに貢献出来たのかは私にとってほとんど「?」だったが、それ以来、本願寺出版社や藤本さんから何かと気にかけていただいている。それで年明け早々の「報恩講」に引き続きこのおめでたい席に呼んでいただいた。

浄土真宗本願寺派の法要や式典についての知識は皆無に近く、1時間あまりの内容がほとんど分からないも同然だったが、落成したばかりの御影堂(ごえいどう・重文)での法要の最後に、僧侶の重鎮が登壇して話された内容は、今さらながら「あ!」と膝を打つもので、確かこんな趣旨であったと思う。

「しあわせ、というと今は当然のごとく『幸せ』と書きますが、少なくとも戦前まではそんな字は使わなかった。正しくは『仕合わせ』。これは『あなたのことを気にかけてくれる人と出会う』という意味なのです。『幸せ』の『幸』という字は手かせのことなので、必ずしもいい意味とは限りません」

「幸せ」のために欲望に執着するのは手錠をかけられた身も同然やで、との仏教の戒めは何百年と続いて今日に至っているのであろう。グサッとくる。

豚インフルの次は「戦後最悪の国内総生産後退」と、また分かりやすい見出しが躍っているけれど、たしか去年の今ごろの見出しは「上場企業、5年連続で最高益更新!」ではなかっただろうか。

けれどそんなジェットコースターのように変わる景気に一喜一憂していたら身が持たない。われわれのように、本や雑誌をつくって売る人間としては「気にかけるべき人(読者なり書き手なり書店さんなり)をちゃんと気にかけ、気にかけていただいた人にはちゃんと応える」しか道はない、ということだと思う。考えるべきはまず読者の「しあわせ」しかない。

しかないけど、いま決算の最中ゆえ、利益が1円でも上がると零細企業の代表としてはやっぱり「幸せ」だと感じる(減るとその逆)。道田惠理子からは「目がドルになってる」とチェックが入る。「しあわせ」の道は難しい。

来賓の役得でお茶をいただいた国宝・飛雲閣藤本さんはアラーキーを起用し、『飛雲閣ものがたり』という凄い写真集をつくった)でほっと一息つきつつ、そういえば今まさに進行中である本願寺出版社の本の編集がもうすぐ山場を迎えることを思い出した。

この本の執筆者は釈徹宗先生、テーマは「落語と仏教」。これだけでも読みたくなるが、オマケというにはあまりにも凄すぎるオマケもついてて、もう「無敵」と言えます。オマケの内容は、もう少ししてから。

4年目の140Bのテーマは(少なくとも私は)、読者の「しあわせ」である。

「上機嫌集団」がつくったバー。

「お酒もタバコもやっていたのは寛次郎ぐらいで、あとの皆さん(「民藝」の濱田庄司棟方志功芹澤銈介柳宗悦)は本当にどちらもおやりになりませんでしたね。リーチさんもそうでした。父が一手に引き受けていたんでしょうね」

もうすぐ85歳になられるというのに実に華やかでチャーミングな河井須也子さん(河井寛次郎記念館館長)は、父親である河井寛次郎の元に出入りする「民藝」の面々やバーナード・リーチのことを懐かしく思い出しておられた。

この記念館は、東山五条の交差点から徒歩5分ほどの、クルマが1台やっと通れるような町家に囲まれた一角にあるかつての自宅である。河井はここで寝起きし、奥の陶房で作業し、登り窯で作品を完成させていた。

外から見たら普通の町家だが、中は驚くほど広く、かつ風通しが素晴らしい。部屋に置かれた河井寛次郎の作品越しに見える木々の美しさが、はっとするほど。自宅と作業場を行き来する中庭もゆったり取ってあり、歩き疲れた観光客にとってはオアシスだろうとつくづく思う。

生活全般にわたって使う作品をつくり続けてきた河井は、酒器や喫煙具なども自分の手で考えた。とりわけ団十郎菊五郎左団次に代表される江戸歌舞伎の「荒事」を愛し、白浪五人男の名台詞を諳んじていた河井は、名場面で六代目菊五郎が使う煙管遣いに憧れ、自分でもつくったという。『細雪』でも「菊五郎」という名詞が頻繁に登場するが、昭和10年代の菊五郎はスーパースターであったのだろう。

「煙管のために煙草を吸うような人でした」と須也子さんがおっしゃるように、ぴかぴかに磨かれた形の違う煙管と、その隣のガラスケースにはぐい飲みやビアマグがいくつも展示されていた。

先日、リーガロイヤルホテル[リーチバー]での不思議なご縁のことを書いたが、あの空間には河井寛次郎と「民藝」の巨匠が設計に協力し作品を提供している。

河井一人を除いて全員が酒も煙草もやらないというアーティスト集団に、歴史に残る世界的バーの空間設計を頼んだ山本為三郎(当時の大阪ロイヤルホテル社長)や吉田五十八(同ホテル建築設計者)としては、酒や煙草に大した縁がなくとも、全然違うバーをつくってくれると踏んだのだろう。

「酒も煙草もやらないので、まるで清教徒みたいだと父は笑ってましたけどね。でも民藝の人たちはいつも上機嫌でしたよぉ」

上機嫌な人間集団がつくったバーの磁力やおそるべし。オモロい人間が集まるのは自然の道理であったろう。先日お会いした先輩はパイプや葉巻が大好きな人だったし、バッキーもあの店に行くとうれしそうに煙草を吸っていた。

河井寛次郎は[リーチバー]創業1年後の昭和41年に他界したが、記念館に並んでいたぴかぴかの煙管は、河井の手で[リーチバー]の灰皿とランデブーできたかどうか、気になるところである。

さて娘の須也子さんが母(寛次郎の妻)のつねさんとリーガロイヤルホテルを訪れたのは、それから17年ほど後のこと。そこで須也子さんはバーに展示された父親の作品と初の対面をするのだが、その話はいずれ書きたい。

河井寛次郎の孫で記念館の学芸員である鷺珠江さんにご縁をつないでいただき、心より感謝いたします。

神戸はふつうに営業中。

相変わらずニュースではこの世の終わりのような神戸のマスクフェイスをこれでもかというぐらい映している。よくもまぁ、マスクばかりの絵を撮るためにテレビ局の皆さん頑張っているんだとつくづく感心するが、その中にいる人間にとっては、実は全然大したことではなかったりする。

身も蓋もない言い方だが、豚インフルで人が死んだわけでもあるまいし(それ自体は今のところめでたい)、そんなに人の命や健康が重要なことだと思っているのなら、年間の交通事故死の6倍以上(32,249人)もが死んでいる自殺者の増加ストップに、メディアも役所もこのインフルエンザで使った予算と人員すべて費やしても費やしすぎることはなかろう。

エルマガ時代からお世話になっている神戸のクセ者集団「ルリコプランニング」代表の星加ルリコさんと神戸でメシを食い、お酒をご一緒させていただく。[天竺園]の水餃子はもちもちプリプリでのども胃も歓ばせてくれたし、[ローハイド]のテキーラサワーやアルマニャックはバッキー井上でなくとも尻尾を振るに十分な味であった。

[ローハイド]マスターの山本氏曰く「バーテンダーがマスクしている店で酒飲みたい? それやったら店開くなよと言われるよね」。おっしゃる通り。[天竺園]では店の人たちと共に、頼近美津子の映像を見ながら別れを惜しんだのである。

星加ルリコさんは、アートディレクターでありプランナーでありプロデューサーであり、何屋さんか言われたら私も返答に窮するぐらい神戸でも東京でも幅広く活躍している人であるが、秋田のお米を全国全世界に広める「こめたび」という会社を秋田っ子の鈴木絵美さんと一緒に2007年に立ち上げている。

その星加さんから、今ブームだと言われているが実はむちゃくちゃ厳しい日本の農業の実情や、お米が「生活必需品」ではなく今やコーヒー豆に近い「嗜好品」のレベルに変質していること、秋田で「こめたび」を立ち上げた理由などいろいろ聞かせていただいたが、それはぜひ、どこかで書いてほしいところである。

星加さんは私より20歳近く年下だが、彼女が神戸市のエライさんからマンションの1室でアクセサリーをつくる職人さんまでいろんな人をつなぎながら商品やイベントなどを「かたち」にしていくのを端から見るのはすごく刺激的だった。すこぶる明るいキャラなので、人が集まってくるのも道理である。

会社をやめて独立しようと思った時も、すでに先輩として事務所を立ち上げて頑張っていたこの人の存在が大きな支えになった。

「大阪、神戸の出張は見合わせなさい」と社内に通達を出す東京の会社も出ていると聞くが、「インフルエンザにかかるかもしれない」という不安をとりあえず回避する道を選ぶか、星加さんみたいな人と一緒に仕事をしてそのあと[天竺園]でメシを食い[ローハイド]で酒を飲んで「あー、また来たいなぁ神戸」と感じられる道を選ぶか…。

人生で、ええ人ええ店に出会える機会は、ホンマに少ないよ。

こんな時こそ薔薇に酔え。

というわけで、芦屋市と西宮市の境にある岩園トンネル近くの[岩が平(ひら)公園]にやって来たのは雨の日曜日。閑散としていたが、色とりどりの薔薇が遠くからでもはっきりとわかるほど美しく咲いていた。

幹線道路沿いでもないし、近くには店があるわけでもない、駐車場もない。そんなロケーションにそこそこ広い公園があり、4月は桜、5月は藤、そしてこれからの季節は薔薇で愉しませてくれる。ご近所さんを中心に人気の公園である。

岩が平公園の存在を教えてくれたのは、昨年の『ななじゅうまる』第2号で芦屋川かいわいを案内してくれた梅田多美子さん。当時はホテル竹園芦屋の経営陣の一人として働いておられたが、今はリタイアされている(でも行動力の人だから、じっとしてはおられないだろう)。

ホテルにおられた頃から竹園芦屋ホームページの人気コーナー「芦屋便り」を担当されていて、「散歩の達人」である梅田多美子さんが日々、実際に何度も歩いて愉しんでおられるコースがバラエティ豊かに紹介されている。

一読いただければ分かるが、芦屋に対する「愛」が行間からにじみ出ている。なかでも自然や歴史、子供の頃からの思い出の場所のことを書いた文章が共感を誘うし、地元のことを読者に伝えるために市役所など関係者にしっかり取材して書く、という記者のお手本のような方である。

「芦屋便り」を読んでいると、ベンツに乗らんでもこの街は徒歩でたっぷり愉しめるということがよそ者にも伝わってきて、私は「梅田多美子フォロワー」としてあちこち散歩に出向いたのであった。その一つが「岩が平公園」である。この敷地に、米カリフォルニア州モンテベロ市が芦屋市に姉妹都市提携を結んだ際に寄贈したバラが植えられた一角がある。

雨とはいえ(雨だからか)、薔薇の香りが素晴らしい。ついつい橋幸夫の「雨の中の二人」(♪雨が小粒の真珠なら恋はピンクのバラの花)に始まり、ブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」(♪バラの香りが苦しくて)、マイク真木「バラが咲いた」西城秀樹の「薔薇の鎖」布施明「君は薔薇より美しい」、そして日本歌謡界に燦然と輝く大作曲家・浜口庫之助のCMソング「サンカラー薔薇の歌」(昔のテレビは「嵯峨」とか「歓」とか「薔薇」とか漢字の商品名が流行ったのです)などなどバラにちなんだ名曲が次々と脳裏に甦り、「そういえば最近、薔薇の唄ってあんまりないよなぁ」などと考えながらしばしボーッと佇んでいたのであった。

そして自分なりに勝手に出した結論は、「あの頃は、お蝶夫人(エースをねらえ!)のような人が唄になるような時代だったのではなかろうか」。登場すると、必ず背後にバラがあしらわれていたし、「バラの香りのお礼よ」という台詞もあったし…。

さて電車に乗っても、地下街を歩いても、ニュースを観ても、どの顔もマスクをつけている。

1年のうちで一番気候がいい時に、目を開けたらこんな景色ばかりでは息が詰まりそうである。予防はするに越したことはない。けれど、マスクしてない人間が電車に乗るのがそんな反人道的なことかいな…というのも一方で思うのである。

そして、そうやって大騒ぎしている間にもバラは散ってしまう。明日の昼は気分転換に、『月刊島民』の最新号に載っていた中之島バラ園にでも息抜きしに行こう。薔薇はきっと分かってくれるよな。

『少女の友100周年号』ブレイクの陰に。

「思い切って5,000部刷ることにしました」「そりゃスゴい」

実業之日本社の編集者・岩野裕一氏から、同社でかつて大人気を博した雑誌の創刊100周年記念号を出す、と聞いたのは2月の終わり。定価は4,000円近い。当たれば大ホームランだが、ダメな場合は制作原価はペイしないわ返品金額は強烈やわで会社の危機にかかわるような事業である。

しかし、今朝(17日)の朝日新聞読書欄を見て、思わずホホエミが。「売れてる本」のコーナーで「少女の友 創刊100周年記念号純粋な少女の幸福な雑誌像」という見出しと共に、4段抜きの記事でドーンと紹介されていたからである。そこから一部紹介すると

初版部数の五千部は版元としては冒険だった。が注文が相次いで刊行前に重版が決定。購買層は元読者の80代前後、そして乙女文化好きの20~30代の女性たち。

愛読者カードに書かれた読者の反響がスゴい。

「昨年夫を亡くしまして一人暮らしになった灰色の世界が(中略)急に華やかになりました」(70代)、病床の母に贈ったら顔を輝かせました」(60代)、「100年も前に、こんなにポップでキュートな雑誌が出ていたなんて!」(20代)などなど。

内容はかつての記事のほか、雑誌の歴史や田辺聖子(元読者)のインタビューなどを収録している。当時の執筆陣は後のノーベル賞作家・川端康成や堀口大学、中原中也など。小説、詩のほかに名画の紹介、海外ルポもあり総合誌のようなつくりらしい。口絵や付録もため息が出るほど美しく、作り手の心意気が感じられると評者の瀧井朝世さんは書いている。読んでみたい。

「雑誌の黄金期は昭和10年代。その後の戦争や混乱を体験した方々にとって、幸福な時代の思い出のパートナーであるようです」

 藤森文乃さんと共にこの本の担当編集者である岩野裕一氏のコメントが紹介されている。この人とは月に1回神保町で開かれる「アメリカ出版研究会」で知り合ったのだが、指揮者・朝比奈隆に関する著作を何冊も上梓したノンフィクションライターでもある。この人のおかげで大阪フィルハーモニー交響楽団とつながりができ、私たちの世界も広がった。

茶目っ気たっぷり、けど昔ながらの編集者的な骨と粘りもある。大ヒットとなった新書『知らなかった!驚いた!日本全国の「県境」謎』はこの人の編集。さいきん実業之日本社のメンバーを岩野氏からいろいろ紹介されたが、いずれも明るいキャラばかり。ノッてる会社は違うよなと感じる。

「新聞見たで」とメールを入れると、今日は会社で仕事だそうで(売れっ子は大変や)、夜遅くに返事が返ってきた。

「よい本を作るとちゃんと伝わる、というのは幸せですね」

こう言えるまでにはホンマにいろんな紆余曲折や試行錯誤があったと思う。私らも早く言ってみたい。

出会い頭の「歌之助」ラッキー。

仕事が予定より早く片付きそうだったので、繁昌亭のホームページを見たら、桂歌之助の独演会が17時半から始まるとのこと。ダメモトで向かったが、残り何席かの当日券にありつけ、寄席囃子を客席で聴く。

前座の笑福亭呂竹が「延陽伯(江戸では「たらちね」)」の半ばまで演じた後は、本日の主役・歌之助がまずは「看板の一」でご機嫌伺い。マクラでたっぷりウォーミングアップを行った後、グッとアクセルを踏んで一気にトップギアまで飛ばし、オチまでたたみかける。

中入り前の2席目も歌之助は「桜の宮(江戸では「花見の仇討」)」で、大川のほとりで「花見の余興」として計画された狂言仇討ちをめぐるハチャメチャな顛末を聴衆の脳裏に再現させ、唸らせる。

中入り後のトリは大阪・日本橋の旅籠でのスリリングな一夜を描く「宿屋仇」。前夜、岸和田の旅籠に泊まった際に狭い相部屋に詰め込まれ(巡礼は御詠歌を唱えるわ、駆け落ち男女はいちゃつくわ…)、寝不足になりすこぶる不機嫌な侍が通された部屋の隣は、お伊勢参りを済ませ兵庫に帰る最後の夜を大阪でパアッとやろうと目論む能天気な遊び人3人組の部屋だった。

静かに寝かしてほしい侍、どんちゃん騒ぎで夜更かししたい3人組、仲裁に入る旅籠の手代・伊八の三者の場面が次々と登場してはまた入れ替わり(このスピーディーな展開が見物である)、そして意外な「事実」まで明らかになるが……最後はどんでん返しのオチが用意された舞台を堪能させてもらいました。

歌之助は背広を着たら公務員か銀行員という感じだが、愛嬌たっぷりの端正なルックスには華があるし、発声が美しく客席の隅まで響く。動きもメリハリがあってダイナミック。まだ38歳なのでこれからが楽しみな噺家だと思う。

春團治三枝師匠は別格として松喬都丸米團治……若い人がいないかなと思っていたら、いましたねぇ。お金を払って観に行きたい噺家が増えて、ラッキーこの上なし。

こんなご時世ゆえに主催者の米朝事務所からは「新型インフルエンザに関するお願い」が配られ、万が一に備えてアンケートに連絡先を書いてくれとお願いが添えられていた(書きましたとも)。

アトラクションで舞台に楽屋が再現された際、歌之助にお茶を出すお茶子さんが消毒液を手にすり込むシーンで会場は苦笑い。以前、別の噺家さんの独演会の日はたまたま草彅剛が逮捕された日だったが、もちろん何人もがネタにした。繁昌亭は「ニュース」にハヤい。

しかし、この日に代表選があった民主党のことは、歌之助も呂竹も一切さわらない。このあたりにあの党(今の政局全体も)のしんどさがあると実感した。

繁昌亭は上方唯一の「定席」であるが、東京には「定席」が4つもあるし噺家が「文化人」となっている例も多く見られる。これは人口のせいもあるし、江戸落語の方が「格式」ばっていたり全国区になりやすいという土地柄がある。でもそれ以上に「身近な人のいつもの話で声出して笑えるか?」という日常が関係しているのではないか。

私は歌之助の噺で何度も声に出して笑った。けれど普段の生活に笑いがないのかというと逆で、江弘毅の岸和田における人間描写には(若干の誇張もあろうが)いつも大笑いさせられるし、昨日は道田惠理子の「80~90年代お見合い始末記」に一同何度も爆笑した。そして[リーチバー]のような超一級のホテルバー空間ですら、偶然出会った先輩の話が場を支配し、それにコロがされ何度もゲラゲラしてしまう。

私の会社が少し極端なのかもしれない(きっとそうだ)が、程度の違いはあっても大阪の職場やコミュニティというのは「笑いを取る」(そのために自分を笑う)という行為が、お天気の話をするのと同程度に昔から日常化されている。

逆に東京に行っていつも思うのは、親切な人、公衆のマナーを守る人は多いが「不機嫌な人」が目立つ。自分を笑ったらアカンような空気さえ感じる。そんな空気をたまに緩和するためには、定席の4つぐらい必要だろうし、真打ちをたくさんつくらないとやっていけないのではなかろうか。

大阪の噺家はハードルが高くて大変だ。漫才という巨大なライバルもいるし、落語の見巧者に加えて「普段から話がおもろい」人たち、「おもろい話を聞く機会が日常にある」人たちを笑わせなくてはならないから。歌之助の噺で笑った後、ふとこんなことを考えた。

今回は歌之助ファンが8割を占めるいわば「ホーム」での試合。次回は昼席のような「アウェー」での歌之助を観たい。当日券2,500円は、ぜんぜん値打ちがありました。

[リーチバー]と「ご縁」について。

もう40年近くも前だが、引っ越してきた大阪という街がどうしても好きになれなかった私は、春休みを利用して故郷の博多に帰るのが何よりも楽しみだった。

その頃は新幹線などなかったため、夜行列車で行くか、昼間の特急を使うか、飛行機で行くかの選択である。当時は板付(いたづけ)米軍基地兼用の福岡空港近くにかつての家や親戚の住まいがあったため、ガキのくせに奮発して空路を利用することもあった。

なんばから出る空港バスは、そのまま伊丹へ…といかずその前にいったん高速道路を下りて「新大阪ホテル」に停車する。アタッシェケースを抱えたグレゴリー・ペックのような外国人やいかにも大企業の役員然とした人が乗りこんできた。そこから再び阪神高速池田線に入って大阪空港へ行くのである。朝日新聞大阪本社の隣、いま「住友中之島ビル」が建つ場所である。

大きなホテルではなかったが、「わざわざこのためにバスが停まるのも当然」とだれもが認める威厳のようなものが備わっていた。空港バスの中から見ているだけで一度も入ったことはないけれど、回転ドアがしびれるほどかっこよく、大人以外は入ってはいけない場所だったという印象がある。

昭和10年(1935)に開業した新大阪ホテルは、裕次郎の映画『憎いあンちくしょう』(恋人役の浅丘ルリ子が泊まっていた)や、姫野カオルコの名作『ハルカ・エイティ』のラストにも登場する素敵なホテルだったが、残念ながら創業40年も経たないうちに歴史を終えてしまう。

そのスピリットは西へ1キロほどの場所に同じ会社がつくった「大阪ロイヤルホテル」に引き継がれる。大阪ロイヤルホテルは、やがて「ロイヤルホテル」、そして「リーガロイヤルホテル」と名称を変えるが、空間のたたずまいやサービスの手触りは変わっていない。

とりわけ不変なのが昭和40年(1965)の大阪ロイヤルホテル創業時からあった[リーチバー]。昨日、相手からの連絡を待つ間の「時間つぶしに」2~3杯飲んでいようと思い、コツコツと木の床に靴音を鳴らしながら[リーチバー]のカウンターに座った。相変わらずいい音がする。バッキーはやはりええことを書く。

先日飲んで「これはたまらん」と唸った酒ーフィンランディアというウォッカにパイナップルの果肉をしっかり漬け込んだ「フィンランディア・インフュージョン」からいただく。普通にパイナップルを食べるより百倍旨い。土曜日で、昼の3時ぐらいだったら千倍旨いかもしれない。

あっという間に1杯空くが、相手からはまだ連絡がない。2杯目は松澤マダムが「激砂漠化した心のツボにどんどん吸い取られて」しまうほど旨いジントニックにしようか、モヒートにしようかと思案したが、軽い方からいきましょう、ジントニック。

バーテンダーの方に、景気やお酒の話などのお相手をしてもらいつつ、カウンターの後ろを振り返ると、リーチバーにかかわったお歴々の写真や陶芸、版画などの作品が絶妙のバランスで配置されている。内装も作品も「もはや美術館ですよ」というだけの値打ちがあるのだが、あくまで「バーを盛り立てるもの」の一線は越えていない。

主役はあくまでお客さんであり旨い酒。このあたりのさじ加減が見事だなぁと来るたんびに思う。

2杯目も終わりに近づいたころ相手から連絡があり、次の場所に移動するとのこと。もうちょっと飲んだらすぐ出るからどうぞお先にと返し、やれやれ、モヒートは次回のお楽しみかいなと思いつつ、ジントニックの残りをゆっくり飲もうとした。

「こんばんは!」聞き慣れた張りのある声。声の主は靴音を鳴らしてずんずん入ってきたが、「ヤバい!」と思う間もなくもう私の左側に立っていた。

「いやぁ、これは久しぶり! 一緒に飲みましょう」 「実は…ちょっと待ってる相手がおりましてですねぇ、そちらに行かんと…」 「何言うてんや!(大音量) 一杯だけ一杯。せっかく溝口(久美/エルマガジン社別冊編集者)もいてるのに」「はぁ…」

「3杯目にモヒート飲みたい」と顔に書いてあったのだろうか? テーブル席に腰を掛けたら溝口久美さんが「何でここにいてるんですか!?」と共にやって来た。聞けばその張りのある声の先輩と一緒に別冊の取材であちこち回っていたらしいのだが、それが終わり打ち上げも兼ねて[リーチバー]にやって来られたという次第。

その先輩はレストラン[アラスカ]を皮切りに、ホテルの飲食・宴会部門や飲食店の仕事を経て独立し、飲食業のコンサルティングや店舗プロデュースなどをしている人で、もう45年近くもこの業界におられる。彼が[リーチバー]に通った回数はきっと、軽く4ケタを超えているであろう。それを裏付けるようにこの空間にすっぽり溶け込み、絵になっている。

その彼が溝口久美さんや私に、いま刑務所の篤志面接委員をやっておられる話を披露してくれた。全くの手弁当ボランティアらしいが、誰かが絶対やらねばならない、非常にやりがいのある仕事だということが伝わってくる。明日出所だという時に受刑者を集めて話をするらしいのだが、どの顔も神妙で、中にはメモを取る人もいるらしい。

「それで最後にな、絶対に戻って来てはいけませんよ、と俺は何度も何度も言うんや。それなのにな、(ホンマに情けない顔で)そのうちの何人かは戻って来よんねんなぁ…」

ここで笑ってはいけないのだが、つい笑ってしまう面白さ、哀しさがこの人の話には溢れている。BGMのない[リーチバー]は、そんなナマな話もうまいこと取り込んで、心地よいざわめきにしてしまう。笑ったりうなずいたりしているうちにモヒートが空になり、お別れする時間になった。

 「社長! 健闘を祈るぞ。経営がんばってくれ。今日は会えてうれしかった」との言葉にグラッ。さっきまでは「ヤバい!」と思っていたのに、失礼するとなると名残惜しい。不思議な人である。

大阪が嫌いだった子供がなぜ、いつからそうでなくなったのか? 正直よくわからない。ただあの頃は茗荷の苦さやキムチの辛さ、ニラの臭さ、夏ミカンの酸っぱさタケノコのえぐさなどが嫌だったのが、今や逆に、苦くない茗荷、辛くないキムチ、臭くないニラ、酸っぱくない夏ミカン、えぐくないタケノコなんて何が旨いねん、いらんわという人間に変わっていた。

たぶん、食いもんの好き嫌いと同様に「土地や人間の好き嫌い」も、どこかの時期を越えるといつの間にか「嫌い」が「それがないと物足りない」になるのであろう。

大阪以外では絶対に存在し得ないような[リーチバー]にて、その権化のような人と再会したことで、東京には行かず博多にも戻らずに、大阪の中小企業のオッサンとしてダイビルで原稿を書いているご縁について考えされられた。

実は、かつて私が空港バスの窓越しに新大阪ホテルを見ていた昭和46年ごろ、彼はあの回転ドアの向こう側で食堂宴会部のスタッフとして働いていた。人はいつ出会うか分からないからおもしろい。

あの先輩が書いた本を、読んでみようと思う。

木もれ日の岡田山に嫉妬。

久々に訪れた神戸女学院大学は、日本各地にある「自然に恵まれた美しいキャンパス」が束になってかかっても、全員「失礼しました」とひれ伏してしまうほどの圧倒的なパワーに包まれ、しばし呆然とする。しかも新緑。「うらやましいぞ女学院生」である。

私の大学も、神戸の山の手にあったから周辺に自然はあった。しかしぜんぜん「格」が違う。あちらは自然は自然、建物は建物と両者がただ共存しているだけの風景。女学院の場合は岡田山の自然とヴォーリスの校舎が協力し合って見事なハーモニーと景観をつくり上げ、その空間に足を踏み入れるだけで何かこう、思わずホホエミがこぼれそうだと言ったらいいのか……。

内田樹先生が「できるだけ長い時間をこのキャンパスで過ごすように」と書かれたのはまさに至言である。

『恋のバカンス』『夜明けのうた』『君といつまでも』『愛の讃歌(訳詞)』などを手がけ60年代の歌謡界に光彩を放った作詞家の岩谷時子さんや、82歳にして今なお現役のラテンシンガー・あい御影さんもこのキャンパスで学んだし、今や「女子」の範疇を超えてNHKの看板アナウンサーである武内陶子さんや有働由美子さんもここの卒業生である。

この人たちに共通しているのは(岩谷さんは会ったことがないが)、自分の道をとことん貫く強さがありつつも人にホホエミをもたらす笑顔を惜しげもなく振りまき、楽観主義の権化のようなキャラだということ。

それはこんな祝福的キャンパスで一番大事な時間を過ごしたからだなと少しだけ納得し、男だってここに4年間いたらさぞかし人間が円満に、かつ物事を深くじっくり考えられるようになるだろうと、草と木の匂いの中で考えた次第である。

神戸女学院大学を卒業した妹分のような後輩が、この6月に女学院のチャペルで結婚式を挙げるということで、案内を送りたいから住所を教えてほしいとたまたま今日メールが入った。彼女もまたホホエミを与えられる人で、関西だと女性はたった一人しかいないというユニークな職業で頑張っている。私が神戸女学院という名前に以前から好感を持っていたのは、先のビッグネームの人たちというより、その10歳年下の後輩ゆえである。

来月もお邪魔できるとはラッキーの一言だが、私のような門外漢のオッサンが一体、神戸女学院にどんな用事があったのか……?

そのあたりは、いずれ青山ゆみこが書いてくれるはずなので、そちらにバトンタッチします。

ダイビル「最後の夏」の始まり。

背広を着るのも、ネクタイをするのもツラい季節になった。

今日は30℃まで気温が上昇したようだが、もっぱらアスファルトとコンクリートばかりで、表通りは相変わらず工事中が続くダイビル界隈を歩くのはもっとツラい。中之島でも弊社の近所はバラが咲いたり柳がしだれたりはしないし、川沿いのレストランやカフェも皆無である。

唯一ホッとするのは、広々としているのにクルマどころか傍若無人なチャリも全然来ない(というより入れない)堂島川沿いの新しい遊歩道だ。堂島ロールの行列が絶えない渡辺橋から朝日新聞への信号を渡らず、この遊歩道を田蓑橋近くまで歩くと、日差しを高層ビルや高速道路の蔭でしばし遮ることができるし、川からの風や船のエンジン音が、少しばかりの涼を運んでくれる。

遊歩道の左手に見えるはチョコレート色した大正14年(1925)竣工のダイビル最後の姿、右手には堂島川と田蓑橋、その奥に「ほたるまち」のビル群。2009年8月まで、あと3ヶ月間の期間限定ビューゆえ、『月刊島民』のバックナンバーを弊社にお買い求めに来られるついでに(カボ宗是でランチするついででも結構です)ぜひ眺めてみてください。

フェスティバルホールのあった新朝日ビルは外観がすっぽりと覆われ、4年後に再度お目見えということである。逆にかつて関西電力本社のあった場所(ダイビルの東隣)にこの4月、「中之島ダイビル」が竣工し、早くも本家ダイビルからクリニック系が続々移転している。8月には飲食ゾーンもオープンするらしい。すでにビルに出入りするビジネスマンの姿を見かけるが、ちょっと気分が高揚しているような感じだ。歩く姿が颯爽としている。

そしてわがダイビルは、8月31日までにすべてのテナントが退去することが決まっている。

ニュースなどで、「ダイビル存続!?」などと報道されたが、外壁の一部を新しいビルの装飾に使うとか、デザインのニュアンスをどこかに残すとかいう程度で、全面取り壊しには変わりない。残念だけど「140B号室」を3年間使わせてもらった弊社も8月に出て行かざるを得ないが、新しい場所はもうすぐご報告できると思います。

初夏だというのにお別れの話で、おまけに作曲家の三木たかしまで64歳の若さで亡くなったというニュースにガクッとなっていたら(悪いが小沢辞任のニュースにはガクッとこなかった)、今朝の朝日新聞GLOBEに、一昨日紹介した『ぼくと1ルピーの神様』の執筆者、ヴィカス・スワラップのインタビューが載っていた。

この人の職業はインドの外交官。物語では自国にとって知られたくないような話も結構出てくるのに、そのあたりは平然とこう答えている。

幸い、政府は私たちの創造力に足かせをはめたりはしません。前の外務報道官も恋愛小説を書いて出版しました。それが文学で、自分個人の考えだと明言できる限り、書いてはならないと言われないし、出版許可を得る必要もありません。

インドはいつも多様な意見がある国です。これこそインドの力なのです。

インド政府の寛容さに驚いたが、もっと驚いたのはこの夏、彼が大阪駐在のインド総領事に就任するということである。

任期も3年ほどあるらしいから、その間に大阪が舞台の面白い小説をぜひとも書いていただきたい。弊社の出版物と織田作之助賞を争うなんて、どうです? これも何かの縁だし(何の縁やねん)。

不精者の新緑ハイク3時間@六甲。

阪急の駅から芦屋川を遡り、途中から道標に従って左手の道を登っていくと、そのうち住宅街が途切れて高座川沿いの昼なお暗い道に入り、さらに15分も歩くと茶店が現れ、突き当たりには涼しげな高座(こうざ)の滝が目を楽しませてくれる。

本当は午前中から出かけた方がいいのかもしれないが、起きるのが遅いし、何かと用事もあり出かけるのがずるずると遅くなる。それでここに来るのは大体15時ぐらいと、一番気温が高い時間帯になる。

新緑の時期、芦屋川駅から高座の滝までは大体30分ぐらい。特に高座川沿いの木蔭道に入るまでの最初の15分は直射日光を「いや」というほど浴びないといけないので、ホンマに我慢のしどころであるが、茶店と滝の存在に、まだゴールではないのに「やっと着いたわ」と小躍りしてしまう。

この茶屋でビールとおでんをつついて和んでも、幸せな休日の午後が過ごせること請け合いなのだが、リュックを背負いそれなりの靴を履いて来た身としては、「とりあえず一服して靴紐を結び直し、足の筋肉を伸ばしてから護摩堂にお参りして行こかい」などとワンダーフォーゲル部的戦闘モードになってて我ながら笑ってしまう。

ここから小さな橋を渡ったら即、ロックガーデンの尾根づたいに風吹岩(かざふきいわ)を目指す眺望のいい登山道に入り、いきなりの急登が待っているが、滝の左手には、芦屋ロックガーデンを開き、日本近代登山の父と言われる藤木九三(くぞう)のレリーフがある。

山好きの二人に一人が読んでいると言われる(!?)、新田次郎(作家でありながら気象庁の役人として富士山頂レーダーの建設にかかわり、「プロジェクトX」でも紹介された人。息子は『国家の品格』を書いた数学者です)の代表作にして大ロングセラー『孤高の人』の中で、主人公である実在の人物・加藤文太郎がこの場所で藤木九三(小説では「藤沢久造」)に出会うシーンがある。

芦屋川にそっての広い道を歩いていって、やがて住宅地をはずれて山道へ入ると川のせせらぎが近くに聞えて来る。そして間もなく、せせらぎが滝の音となるあたりの滝壺のほとりにお堂がある。加藤はそこまで来て一息ついた。セミの声と滝の音とが入りまじって、何か深山にでも入ったような気がした。加藤は滝の方を見上げたがそっちの方へはいかずに、指導標に書いてあるとおり、道を東六甲への尾根道に取った。意外なほど、荒々しい白い肌の露岩にまつわりつくように松が生えていた(中略)。

妙なことがその谷を形成する岸壁の傾斜面でなされていた。綱に人と人とがつながれて、垂直にも近いような岸壁を登ろうとしているのである。いつか外山三郎の家に行ったとき見せて貰った外国の本に、たしかそのような挿絵が載っていたが、眼の前で、それを見ることは初めてだった。

この場面のあと加藤はロックガーデンで、自らが研修生として働いている神港造船所の技師(登山家でもある)外山三郎から藤沢久造を紹介される。加藤はロッククライミングをやらないかという藤沢の誘いは一蹴するが、登山家としての資質を見抜いた藤沢は加藤にさまざまな助言を与え影響を及ぼすようになり、加藤はヒマラヤ登山をしようと貯金を始め、より過酷なトレーニングや山行を自らに課すようになる。

高座の滝の小橋を渡り、「さぁ行こかいな」と藤木九三のレリーフを見上げる時に、いつも私は『孤高の人』を思い出してしまう。

もう30年以上も前、堺の高校生だった頃に図書館でこの『孤高の人』をたまたま見かけて読んでしまった。それからというもの、私は加藤文太郎というヒーローにハマり、ワンゲル部の定例登山以外にも一人で山へ行くようになった(彼は「単独行」の人だった)。『孤高の人』の舞台が神戸&六甲山だったので、「大学は絶対神戸に行くんや」と張り切ったものである。

さて高座の滝からロックガーデンの尾根伝いにどんどん高度を稼いでいくが、暗い滝道からまた直射日光の尾根道に出るため、汗がどっと噴き出してくる。無慈悲なくらいの汗、喉の渇き、そして心臓はばくばくである。それなら頻繁に小休止しながら登ったらいいのであるが、そこは「元ワンゲル」の片意地さ。「30分耐えて登ったら風吹岩に着く」と分かっているため、今回も律儀に守って黙々と歩いた。しかし暑い!

風吹岩は、なかなか東西南北に眺望が利くところが少ない六甲山の中でも、360度の大パノラマが見渡せる、その名の通りのごつごつした岩場のピークだが、ここで感じる風が堪らないためにわざわざしんどい思いをして登ってくる人間は多い。

東側には、伊丹空港から万博公園、大阪市内、大阪湾、金剛山系、関空などがドーンと広がり、後ろを振り返ると六甲山系の山また山、その間から三宮のビル街も淡路島も見える。ここで涼風のご馳走とウグイスの声をいやというほど味わってから、靴の紐を再度結び直していつも下りに入る。

下り道はよりどりみどり。来た道を引き返したら茶屋でビール&おでんの恩恵にまだ与れるかもしれないし、同じ芦屋市内の会下山(えげのやま)遺跡に下るも、甲南女子大のあたりに出る魚屋道(ととやみち)を使う手もある。が、今回は「新緑気分」を重んじて、保久良(ほくら)神社から阪急岡本駅に出るルートを取った。

ごつごつ岩場の登りとは違い、下りは安全な新緑の道をゆっくり下るというもので、ところどころで六甲ならではの「ふもとの集落はビル街」的眺望も味わえる。向こうに海が見えるのはこの時期とてもうれしいが、即都会、というのはやっぱりちょっと微妙であろう。

最後のお楽しみは下山間近の保久良神社にある梅林が「緑のトンネル」になっていること。大体ここまで来たらあとはスニーカーでも歩ける道なので、持ってきた食い物をここで全部平らげてから降りる、という感じなのだが、こんな訪問者が突然やって来ると、食べ物はそそくさとリュックの中に仕舞い込まないといけない。何せ、彼らも阪神間育ちだから旨いもんには目がない。私がリンゴをシャクシャクとかじる音を聞きつけ、いつの間にやら目の前にいた。

ベンチに座る私の目の前でさかんに「何か持ってんのやろ? はよ出せよ、悪いこと言わへんから」 と草をかき分けてエサ探しパフォーマンスを行い、進路を邪魔するのである。でもエサは与えたら絶対あきません。たまりかねてそろそろ帰ろかいなと立ち上がったら急に道をふさがれた。疲れてるのにかなわん話やなぁと思ったが、ここは持久戦だとイノくんを刺激せんように立ったままお互い5分ほどにらみ合うと、そのうち視線をはずしてどっかに行ってしまった。

「今日はこれぐらいにしといたるわ」と言っていたのかもしれない。皆さんくれぐれも、野生動物を刺激しないように。こちらもそぉ~っとその場を去った。

そこからは阪急岡本駅まで15分ほど。 芦屋川駅からだと、占めて3時間もあれば余裕で愉しめるが、すでに足はかなり棒になっているし、膝は笑っているため、これ以上笑わさないことが肝心。家でも銭湯でもゆっくり湯船で体をほぐしたいところである。昼間が30度を超えると、もはやこの道も「熱暑ハイク」となり、とても過酷なコース。5月が旬であります。

ちなみに私が高校時代に憧れた『孤高の人』の加藤文太郎は、朝6時に塩屋を出てから「六甲全山縦走コース」の56キロを宝塚まで歩き、そこから地上ルートで兵庫和田岬の寮に日付が変わらないうちに帰宅したという強者。1日だけで100キロを歩いている。

「そんな超人にはなれない」とすでに若い頃に悟ったのがよかった。だから今では「いつでも途中リタイアできる」ルートしか歩かず、あくまでハイキング程度をちんたらやっている。けれど、『細雪』とほぼ同じような時期に同じような場所で、四姉妹のような女性には目もくれずに山に夢中になっていた男の物語を、久しぶりに読んでみたくなった。

それと、手抜きもええとこだが、千葉に住む義理の母には高座の滝と風吹岩からの眺望の写真をメールして、カーネーション代わりにさせてもらいました。

『ぼくと1ルピーの神様』読後に。

先月、ランダムハウス講談社の松村芽衣子さんから本を1冊戴いた。

「この本が映画化されて、今年のアカデミー賞を8部門も受賞したんですよ。もうすぐ日本でも封切られます。よかったら読んでみてください」

ということは、 超売れ筋の自社商品ではないか!? 彼女の太っ腹(見た目はスマートです)に感謝しつつ、しっかり読んで面白かったら言いふらそうと思い、4月中旬から通勤電車では『細雪』、枕元では『ぼくと1ルピーの神様』が寄り添う。ただ、本を読み始めると「すぐ寝る」タチなのでこれも5月4日までかかってしまった。

ヴィカス・スワラップが2006年に上梓した『ぼくと1ルピーの神様(原題:Q&A)』は、ムンバイのバー&レストランでウェイターをやっている18歳の孤児ラム・ムハンマド・トーマスが主人公。彼が出場したクイズ番組で、出る問題出る問題すべてに正解し、10億ルピーをかけた最後の問題にも見事正解してしまう。

「そんな奇跡があるはずがない。インチキに決まっている。引っ捕らえて調べろ」というシーンから物語は始まる。

私はクイズ番組というものが子供の頃から三度の飯より好きで、特に夕飯の時間に放映があると親の制止を振り切ってブラウン管にかじりつく「一家団欒の敵」のようなガキであった。

高橋圭三(「クイズクイズクイズ」とか)や田宮二郎(おなじみ「クイズタイムショック」)、ロイ・ジェームス(「赤白パネルマッチ」とかありましたね)、大橋巨泉(その名も「巨泉まとめて100万円」)が画面に登場するだけで急に世の中が明るくなったように錯覚する、まさに番組制作者の思うつぼのような視聴者である。

その頃を思い出すと、いつしか一般参加者である解答者に感情移入し、「ファン」になって喝采を贈ったり「ざまぁみろ」と溜飲が下がったりするからテレビはホンマに怖い。そしてそのような「世論操作」には司会者の勿体ぶり方や間の取り方、解答者のいじり方とかが大きくモノを言う。「華とケレン味」はやはり、クイズ番組司会者の必要十分条件であろう。

『ぼくと1ルピーの神様』で登場する「十億は誰の手に?(Who  will  win  a  billion?)」というクイズ番組の司会者プレム・クマールも、そんな世論操作でスタジオの見物客やテレビカメラの向こうにいる視聴者を手玉に取りながら、どういうわけか出場できたこの場違いな18歳のウェイターを弄びながら出題していくが、いかんせん彼の意に反して確実に正解が積み重ねられていく。

正解の陰には解答者である主人公が生きてきた、数奇という言葉では表現できないほどの「何でもあり」の人生が下支えしているが(ラム・ムハンマド・トーマスという、ヒンズー教、イスラム教、キリスト教が合体したような名前がすでに「何でもあり」)、司会者をはじめ関係者にはそんなことは分からない。それで警察の手を使って拷問にかけインチキだと自白させようとするが、その時スミタ・シャーという美しい女性弁護士が登場し、彼女の手でラムは救出される。

そして、スミタの家でクイズ番組のDVDを再生しながら、次から次へと問題に答えられた理由としての彼の人生が回想されるというのがこの物語の大ざっぱな流れである。賞金の額ごとに章立てがなされ、いわば短編小説集的な魅力もある。最後には見事などんでん返しもあるが、残念なことに小説ではこのクイズ番組が実際にオンエアされた際の、「インド国民の熱狂」のようなものは描かれていない。スタジオ内は興奮しているが、それはあくまで録画で、オンエアの前にラムは逮捕されている。

そのあたりを映画がどう描くかは興味津々だったのだが、ダニー・ボイルは老いも若きも金持ちも貧乏人も40年以上前の私のようなガキもテレビの前にくぎづけになり、主人公がインドの国民的英雄になるさまをしっかりと映像化してくれた。小説が波瀾万丈の人生を描いた12編の刺激的な短編集だとすれば、映画は「音と映像の洪水に2時間ヤラれる、21世紀のムンバイというジェットコースター」といったところである。

両者は「クイズ番組に全問正解し、インチキだとの嫌疑をかけられ警察に拷問される。けれど全問正解したのは彼の人生にとって全くの必然」という部分だけ共通しているが、あとは全くの別物だと考えた方がいい(主人公の役名もクイズの出題も違う)。だから私のように、本から入った人間も映画が楽しめたのと同様、まず映画を観てから(たぶんこっちが断然多い)この本を読んでも全然楽しめること保証します。

司会者のプレム・クマールは小説でも映画でも同じ役名である。解答者をいたぶりながら進行させる手際も甲乙つけがたい(「ファイナルアンサー?」という決め台詞は日本のあの人にそっくりである)。きょうびのクイズ番組は、お国柄に関係なく賞金が高くなればなるほど司会者は増長し、権力的になるということだろうか。

「10問正解して、さあ、夢のハワイへ行きましょう」

華もケレン味もなかったけど、長寿番組「アップダウンクイズ」を20年間支えた小池清アナウンサーの生真面目な司会ぶりが懐かしい。難しい問題にかろうじて正解すると「よろしゅうこざいます!」なんてね、なかなか言えませんで。

『細雪』2カ月の旅が終わる。

「まだ読んでなかったんかい!?」

とお叱りを受けそうだが、半世紀生きてから読み始めた谷崎潤一郎の『細雪』。きっかけは、読売新聞「阪神なんば線開通企画」で芦屋市谷崎潤一郎記念館を取材する際に「作品を全然読んでへんのは恥ずかしい話やな」と(今さらではあるが)気がついたからである。

映画で観た『細雪』だったらまぁ入りやすいのではないかと思い、たまたま立ち寄った駅構内の書店に揃っていたので買い求めたが、これが上中下3巻(新潮文庫)ある。改行はほとんどなくて字がぎっしり詰まっている(谷崎先生、1文が長いっす)。大した通勤時間でないのも手伝ってなかなか進まず(しかも途中「急ぎの本」が割り込む)、全部読み終わるまでに何と2ヵ月も要してしまった。

この2カ月間は、蒔岡家の人々と一緒に昭和初期を過ごしたような感があり、大きな満足感をもって読了したが(終わり方がちょっと唐突だけど)、映画とはかなり違っていたのがかえって面白かった。 

1983年に公開された映画『細雪』は、長女である鶴子(岸惠子) が主役である。もちろん次女の幸子に佐久間良子、三女の雪子に吉永小百合、四女(こいさん)の妙子に古手川祐子というラインアップゆえ、それぞれの女優に見せ場があり、「さすが東宝オールスター!」の映像美となっているが、やっぱり市川崑監督は長年起用している岸惠子を美しく見せるのに一番力を割いたのだなぁと思わずにはいられなかった。

映画では上本町の本家にいた鶴子一家が東京へ引っ越す大阪駅のシーンがクライマックスだが、小説では上巻の後半で早くも鶴子は上京してしまう。物語の大半は芦屋の貞之助・幸子宅を中心に繰り広げられる幸子、雪子、妙子の「三姉妹」の話で、谷崎の妻・松子がモデルだと言われる幸子の心理描写を軸にストーリーが展開される。

東京へ行った鶴子はたまに手紙のやりとりで出てくるか、幸子たちが上京した際に登場する程度で大した場面は割かれない。華があり、本家の妻として君臨する「岸惠子の鶴子」を想像しながら読むとちょっと拍子抜けの感があり、途中から鶴子のイメージを修正せざるを得なくなる。

逆に、幸子の夫である貞之助役の石坂浩二(姉妹から何かと頼られ、面倒な交渉ごとも上手く片付ける優しくてちょっとヘタレな趣味人)や、妙子の婚約者としてつきまとうも結局はふられ、腹いせに「僕がどれだけこいさんに貢いだと思ってますねん? 少しは埋め合わせしてくださいよ」と貞之助に金を無心する奥畑の啓坊(ぼん)役の桂小米朝(現・米團治)師匠などは、まさにうってつけの配役だし、物語の最後まで映画のイメージと寄り添ってくれたように思う。

読んで改めて感心したのは、「関西人は日本一旺盛な人種なんや」ということ。

芝居を観たり、花見に行ったり、舞の発表会を開いたり、映画を観たり、見合いをしたり……その前後には必ず「うまいもの」が付き物だし、愉しい飲み食いができない街に何の幸せがあろうかというのが蒔岡ファミリーの身上である。特に次女の幸子と四女の妙子は、店選びに一家言あり決して妥協しない(妙子は行きつけの寿司屋の親父の真似が持ちネタである)。生まれも育ちも東京の谷崎潤一郎は、そのような関西人の「普通」にきっと新鮮な驚きを抱いてこの本を書いたのではないか。

その驚きは、上中下巻合わせて869個と、王の通算本塁打数を上回る(!?)注釈の数にも表れている(執筆は文学研究者の細江光)。この注釈は、それこそ「鰻の菱富」から「ダンケルクの悲劇」まで超バラエティ豊かで、「京阪神&東京の蒔岡家御用達ええ店と旅館・ホテルガイド」でもあり、「物語に登場する地名事典」でもあり、「昭和初期の服飾・雑貨・インテリア事典」でもあり、「関西独特の言い回しと生活・慣習事典」でもあり、「映画・音楽・演劇等エンタテインメント作品&人名ガイド」でもあり、「当時の政治・経済・社会・国際的事件解説」でもある。

関西と関西人を改めて発見できる『細雪』のもう一つのお楽しみであるこの注釈、最初から丁寧に読んでみたらまた新しい発見が出来るに違いない。

本を買いに、紀州の山中へ。

4年前の夏のこと。京阪神エルマガジン社の販売部にいた私は『西の旅』の販促も兼ね、鳥取県米子市で開かれるセミナー「本の学校」に参加した。

新しい時代の出版業界人・書店人を育成するこの試みは、今井書店グループの永井伸和会長が提唱し、書店でもある[本の学校]のスタッフの手でずっと続いている。佐野眞一の名著『誰が「本」を殺すのか』にも、本の学校と永井会長を取材した話に多くの字数が割かれている。

2日目のこと。「小さい村に本屋がある理由」というテーマで女性の店長が登壇された。店は和歌山県日高郡日高川町(かつての美山村)にあるというのだが、和歌山トーハン会に顔を出しているにもかかわらず、[イハラ・ハートショップ]なる店名を聞くのも初めてだったし、そんな田舎(すんません)に書店があるなんてことも初耳だった。

店主である井原万見子さんが話を始めると、会場の9割を占める書店員の顔が生き生きとしてくるのが後ろから見てもよくわかる。私も3分としないうちに、彼女の話に引き込まれた。話がとても面白い。日経新聞とか経済産業省的に言えば「地域活性化のために書店から情報発信を恒常的に……」ということかもしれないが、そんな漢字熟語やカタカナ用語とは全く無縁の構えで「地元の子供らやお客さんがもっと喜ぶにはどないしたらええか」と自分であれこれ試行錯誤しながらやってこられた足跡を、所々に笑いをとりながら(あくまでナチュラルに)披露されるのである。

この店は本だけ売っているのではない。看板に「書籍・雑誌・タバコ・日用雑貨」とあるように、10時から6時までやっている地元仕様の生活必需品店で、「お塩切れたからちょうだい」と近所の人(日高川町初湯川の住民は約100人)が買いに来る一種の社交場でもある。そんな場所で人気絵本の原画展や作家のサイン会、お絵かき会などを企画し、交渉のために和歌山市から夜行バスに乗って東京の版元を訪れた……という話を聞くと「場所が不便やとか言うてたらアカンな、関係ないな」とうなずくことしきりだった。

その後も井原さんはトーハン大阪支店に来られた際に肥後橋の京阪神エルマガジン社を訪れてくれ、販売部だけでなくミーツやムックの編集スタッフにも彼女を紹介することができたし、フレンドリーな井原さんはどの部署でも大人気であった。私は「かならず営業に寄せてもらいます」と彼女に言っていたのだが翌年2月末に同社を退社し、お恥ずかしいことだが[イハラ・ハートショップ]とはちょっと疎遠になっていた。

ところが先日、海文堂書店に入った際、平台の商品に見覚えのある名前を見つける。タイトルは『すごい本屋!』、あの井原さんに間違いないと即買いする。何とあの「本の学校」の話や永江朗さんのこと、エルマガ書店特集で稲盛有紀子さんが取材に来た話まで載っているではないか!? 4年間のごぶさたのお詫びも兼ねてぜひイハラ詣でをしようと、思い立ったら吉日で5月3日、新大阪発の「スーパーくろしお」に乗りこむ。

御坊で南海バスに乗り、そのあと川原河(かわらごう)という停留所で小さなコミュニティバスに乗り換え、家を出てから4時間後の14時半に平(たいら)橋に到着。飛行機ならば北海道か沖縄、新幹線でも宇都宮あたりまで行けるはずだが、紀伊山地はそれだけ山が深いということである。

さっそくバス停から3分ほどの[イハラ・ハートショップ](この名前の由来も著書に載ってます)へ向かう。GWで訪れていた親子連れがレジ近くに2組ほどいたので、邪魔にならないように店の奥にススッと入ってゆっくり本の品揃えを見ようかなと思っていたが……

「あれっ、あれあれ~」とレジの方から聞き覚えのある声。あっという間に気づかれてしまい、開口一番「いやぁ、ちょっとふっくらしはったんやないですか(笑)」。万見子節はぜんぜん健在である。4年ぶりのご無沙汰を詫び、店内にあった本を買い求め、著書へのサインを頼む。

「あのぉ、サインはちょっと考えてから書くので(照れてる)、せっかくなんで近くをいろいろ散策してみはったらどうですか? 次のバスは6時前だし」

確かにまだバスが出るまで3時間もある。お客さんはひっきりなしに絵本を買ったり文房具を買ったりアイスクリームを買ったりしているし、井原さんも私の相手なんかしてるどころではない。いったん失礼し、店から10分ほど歩いた上阿田木神社を詣でた後、[みやまの里森林公園]を散策したが、高低差に足がガクガクになりながらも長さ1,646メートルもある藤棚に度肝を抜かれる。

たぶん今後もある程度生きられるとは思うが、かくも長大な藤棚には死ぬまでお目にかかれないだろう。周辺の景色が一望できる最高地点の展望台では、どの方角を見ても山また山。紀伊半島の凄さである。そんな場所にユニークな品揃えと面白い企画を売りにした書店があるというのは、奇跡に近いことだ。

森林公園を出てもまだ時間があったので、近くの椿山ダムにあるこだまの名所「ヤッホー広場」を訪れたり(子供がしきりに叫んでいた)、ダム湖にかかる大きな吊り橋を渡ったりと、天気も崩れなかったのでオッサン一人で適当に遊ばせてもらった。

遊んだ後に小腹が空いてきたが、GW中は森林公園の入り口近く(イハラさんとこからもすぐ)の広場に美山名産品の即売屋台がいろいろ出ている。鮎の塩焼きと焼鳥、おにぎり、トマトを買い込み、冷えたスーパードライと共にぐびぐび。あぁ、クルマやなくてよかった。

店に戻ると17時半。さすがにお客さんはもうすべて帰り、井原さんが店の前を掃除していた。再び店内を案内してもらう。子供の絵本や童話の品揃えは当然のごとくしっかりしているが、岩波文庫の国内外の名作は豊富だし、都築響一永江朗内田樹&平川克美『東京ファイティングキッズ』、江弘毅『街的ということ』、先日お仕事した『エスクァイア日本版』落語特集もあった。こんな場所でええ本や雑誌に出合える人たちは、地元・よそ者を問わずかなり幸せではなかろうか。

もう少しゆっくりしたかったが、17時59分のコミュニティバスを逃すと帰れなくなる。預かってもらった『新宿駅最後の小さなお店ベルク』(井野朋也)と『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(都築響一)をカバンに入れ、彼女のサインが入った『すごい本屋!』とお土産にもらった店のしおり&一番の売れ筋商品「ちゃいなマーブル」を手に、バス停に向かう。

いつもは大阪や神戸で味わう「本を探して買う楽しみ」に、「歩いた後で満開の藤に出合う楽しみ」や「山の中でヤッホーと叫んでほっこりする楽しみ」「捕れたての鮎を炭火で焼いてビールを飲む楽しみ」、そして「地元の商店で店の人とうだうだ話しながら過ごす楽しみ」まで休日のロイヤルストレートフラッシュを満喫させていただいた。これらはすべて、井原万見子さんの人徳ゆえであろう。

満開の藤が見られる[みやまの里森林公園]の藤まつりは5月6日(休)まで開催、また[イハラ・ハートショップ]店内で『かいけつゾロリ』の原ゆたか先生原画展を5月10日(日)までやってます。ちょっと遠いですが、遠いだけの価値はそれだけありまっせ。

嗚呼、遙かなる祝福サンドウィッチ。

「GWはそんなにスゴいんですか?」

「朝一番なら待たずに入れますが、昼からは閉店まで順番待ちが続きますので……」 

先日、阪神間にあるむちゃ旨いサンドイッチの店のことを書いたが、サンドイッチといえばそう、あの店のことを書かずにどうする……と思い出したのが神戸・生田町の[カフェ・フロインドリーブ]である。冒頭のやりとりは、取材に訪れた私の質問に対する接客担当・オオノさんの、申し訳なさそうな返答である。

取材というのは、先日4月28日(火)に掲載された読売新聞住まいの特集「GWはまちへ出よう!」の中で、阪神沿線のお薦めウォーキングコースを取り上げたページの取材である。阪神御影駅周辺は松本創(はじむ)が、阪神三宮駅周辺は私が担当した。

高架下やトアウエスト、旧居留地で買い物するのは金のある時は楽しいが、そうでない場合はツラいだけ。かといってその先のメリケンパークに行ってボケーっと海を見るのも芸がないなぁと思っていたら、ふと高校1年(堺で、ワンダーフォーゲル部に所属)で初めて六甲山を訪れたとき、「神戸ってなんちゅう街や!?」と度肝を抜かれ、そのまま神戸の大学に行くきっかけになった布引の滝と展望台のことが頭に浮かんだ。

なぜ度肝を抜かれたか? 普通は山を下りると麓に小さな集落があり、 そこからバスで小都市まで出て、さらにそこから電車で大都会へ運んでくれる、というのがパターンである。少なくとも我々がホームグラウンドにしていた大阪の山は、例えば金剛山なら千早(麓の集落)→河内長野(小都市)→難波(大都会)のようなグラデーションを描いている。

ところが六甲連山は、それまでしっかり山の中を歩いていたはずなのに布引展望台に出た瞬間、目前に超高層ビルや神戸港までの景色が現れ、「今までいたのは一体どこだったのか!?」と狐につままれたような気になる。しかしまた山道に戻ると、今度は目の前に巨大な滝が現れ、そしてもう少し下ると今度は新幹線の駅に出る。駅の下をくぐればもうクルマがうるさい幹線道路とショッピングモールの街である。

「あっという間に山と都会の両方いただき」が味わえるのは神戸だけなので、これに新神戸駅から徒歩5分のサンドイッチの楽園[カフェ・フロインドリーブ]を組み合わせて愉しむコースを提案し、それが読売新聞に採用された。早速取材に行き、自慢の「クラブハウスサンドウィッチ」を現地で食させていただいたという訳である。

「しまった!」

朝メシを食ってから、大して時間が経っていない。食欲が今ひとつなのに贅沢なサンドウィッチがドーン目の前に運ばれてくる。まずは取材者らしくしっかり写真を撮って、それから口の中へ…。

「旨すぎる(感涙)」 

腹が減ってなくてもこれである。パンは薄く切ってあるのにしっかりした存在感があり、かつ柔らかい。具のチキン、ベーコン、レタス、卵、ピクルスとまぁよく調和していること。「フロインドリーブ職人芸の見本市会場」のような一品にマイってしまい、これを布引の滝を散策した後に食ったら死ぬほど楽しいだろうな、ビールも頼んだりして……などとめでたい想像がどんどん膨らんでいったが、オオノさんの「GWは順番待ちが続きます」のコメントに「自分が行きたい店はみんなも行きたいんや」と納得し、「このカフェでまずブランチをしてから、腹ごなしに滝まで行きましょう」と記事に書いた。

三宮駅から店までは徒歩10分以上かかるが、何せ空間がもたらすリラックス感が桁外れである。元々は昭和3年(1928)竣工の「旧神戸ユニオン教会」の建物であり、カフェのある2階はかつて礼拝堂だった。高い天井から差し込む自然光と、テーブル配置の適度な間隔、そして黒いTシャツ&エプロンできびきびと、かつにこやかにサーブするスタッフの存在が開放感に座布団3枚ぐらい上乗せしている。

しかもこの建物、設計は大丸心斎橋店神戸女学院大学山の上ホテルを手がけたあのウィリアム・メレル・ヴォーリズであり、現オーナーであるヘラ・フロインドリーブさんご自身が結婚式を挙げた場所でもある。そんな祝福に満ちた空間で食すサンドウィッチは、そりゃ旨くて当然でしょう。

今日、午前中はたまたま神戸に用事があり、1時前に元町で体が空いた。お昼をどうしようかと考えた時、あのサンドウィッチを思い出してしまった。生田町までは1キロ以上離れているが、タクシーならそう時間はかからない。GWの真っ最中にもかかわらず、「ひょっとしたら!?」と自分にきわめて都合のいい結果を妄想し、携帯から電話する。

「ありがとうございます。現在、10組ほどのお客様がお待ちでして……」 

この時期や夏・冬休みしか神戸に来られない人もたくさんいる。あの読売新聞を見て阪神なんば線経由で奈良から来られたお客さんもいるかもしれない。毎週末、神戸に行けるような人間ならこんな時期はガマンしろ、という神のお告げであろう。

華楽園]に入って焼きそば定食を食べた。750円!? 全然いいじゃないですか。あの店が無理でもこっち、とええ店の手札よりどりみどり。神戸から離れられないのは山と海が近いから、だけでは決してない。

小林弘人『新世紀メディア論』に頭ガツン。

著者・小林弘人さんには昨年12月、「アメリカ出版研究会」(毎月第4土曜日に開催)に講師として登壇された際にお会いした。

物腰が柔らかく落ち着いた雰囲気の人だったが、『WIRED日本版』『サイゾー』 などの雑誌、人気ブログの書籍化などさまざまなWEBビジネスを一から(というよりゼロから)立ち上げてきた人だけあって、えもいえぬ凄みが漂っていた。

彼がその『WIRED日本版』を立ち上げた1994年当時は、郵政省(現総務省)が夏にインターネット商用利用をやっと認めたような頃で、小林氏によるとインターネットメディア利用者は38,000人しかいなかったという。いまや9,000万人に迫ろうとしている15年後の状況を考えると仰天するしかない。

その時に小林氏が話していた内容を、当時のノートから拾うと……

「出版という概念は『公にする』(Publishing)ということ。紙の束を綴じて製本し、それを取次経由で書店に流すだけの概念から脱却しないと」  「ブログをつくるということは、出版社が一つ手にはいったようなもの」 「ネットの反射神経が優れた人が、ページビューを稼げる」 「コミュニティ組成には雑誌よりネットの方が勝つ」 「出版社も、他業種の進化を奪い取ればいい」 「大事なことは、WEB上で呼吸してない人間がWEBで生き残れる訳がない」…etc.

相当頭をどつかれたような話だったがすごく面白かったという記憶がある。その小林氏の主張が1冊の本になったのが、この『新世紀メディア論~新聞・雑誌が死ぬ前に』で、担当編集者は内田樹先生や釈徹宗先生、江弘毅『街場の大阪論』を手がけた安藤聡(あきら)さんである。

中身については、買って読んでください、1,575円出しても決して惜しくありませんと申し上げるに留めておくが、帯の文句をいくつか読むだけで、ピンとくると思います。

企業活動におけるメディア戦略は「PR」よりも「ストーリーの提供」に

凡人サラリーマン出版人のつくるメディアよりも、社会経験豊富な専門家の送りだすメディアのほうが魅力的

多くの出版社の問題は、コンテンツだけを与えればネット上でもメディアが成立すると思っていること

クリエイティブの原点は共感の創出に、雑誌の本質はコミュニティの創出にある 

小林氏は日米のネットビジネスに通暁されているから、初めて耳にするカタカナ言葉が多いのでオッサンにはちょっと戸惑うが、この本に込められたメッセージはシンプルで明快なものだと私は勝手に解釈している。

「伝えたいことはあるか? あったらメディアを立ち上げて、書き続けろ」

「最初から儲けはあてにするな。儲からなかったらバイトして稼げ」

あとがきのラストに、私が師匠と勝手に仰いでいるアメリカ出版事情のオーソリティ金平聖之助さん(元小学館国際室長で、『めばえ』『よいこ』『幼稚園』の編集長も歴任) のことが書かれているが、この人が主宰するアメリカ出版研究会に5年ほど通わせてもらったおかげで、世間知らずの視野も少しずつ広がっていった。

抜群のタイミングでいい本を紹介していただき、金平先生ありがとうございました。

金のない休日も自転車&カフェの幸せ。

阪急苦楽園口駅から西へ7分ほど歩くと、X字型の交差点に出る。

左は岩園トンネルを経て芦屋、右は樋之池公園、右後方は夙川学院である。[カフェ・ルーツ]はこの交差点の南側の角にある。

このサンドイッチとコーヒーとケーキがやたら旨いアメリカンテイストなカフェ(アメリカにもこんな旨いカフェはきっとないと思うが)のことはいろんな雑誌やWEBで数多く取り上げられているから多言を弄する必要はないが、客層&年齢層の広さにいつも感心する。

常連客の上と下の年齢差は、60は軽く離れているだろう。両親に連れられてやって来る子供も常連客に入れると、その差80歳ぐらいか!?

ある時など、カウンター全員オーバー60という状況だったが(『ななじゅうまる』を売っていただいてたぐらいですから)、それでも「町内老人会の社交場」然とした景色にならないし、また若い子ばかりの時もあるが、決して「学生街のマクド」にはならない。

そしてどのお客さんも「オレ常連やで」と威張っていないところもこの店が好きな理由の一つであるが、それはオーナー・山田夫妻の成せる業であろう。

客席を取り仕切る奥様の山田京子さんは、以前芦屋川沿いにある[コットンフィールズ]というカフェ&バーで昼間働いていた。ここもアメリカンなテイストかつシブい店で、スクリーンのような縦横比率の窓から見える川沿いの桜や新緑、紅葉などがまるで映画のように広がり、休日の昼間を過ごすのが最適な店だった。山田さんはここで、ベーコンエッグサンドやコーヒーを出してくれていた。

「むっちゃ旨いですやん」と言うと彼女は謙虚に「マスターにしっかり教えてもらいましたから」

マスターの湯川氏はバイク好きで物静かなキャラだが、笑顔がなかなかチャーミングな人であった。夜、バー営業の時だけしか店ではお目にかかれなかったが、旨いサンドイッチの作り方やコーヒーの淹れ方はしっかり弟子に伝授していたのだろう。

やがて、山田さんが「実は、店を持つことになりまして」と言う日が来て、[カフェ・ルーツ]開店と時期を同じくするように[コットンフィールズ]の昼の営業が終わる。

開店した頃は、連日続く朝10時から夜9時までの営業と、慣れない「オーナー」の仕事も重なり、ホンマにへとへとになっていた感じが窺えたが、ほどなくペースをつかんだようで、店はその場所が示すようにあっという間に苦楽園界隈の「へそ」の役割を果たすことになる。

パン職人でもあるご主人の山田氏がつくるサンドイッチは、昼の営業をしていた頃の[コットンフィールズ]と甲乙つけがたいほど旨い。

なぜこういう話を書きたくなったかというと、昨日[カフェ・ルーツ]を訪れた時に、[コットンフィールズ]のマスター湯川氏が「弟子」の仕事ぶりを見に久しぶりに来ていたからである。

師匠と弟子の再会というのは、こちらの気分もほのぼのとさせてくれる。

両店とも、クルマがなくとも徒歩あるいは自転車でちんたら行ける場所にある。特にこの新緑の時期はたまらない。

[カフェ・ルーツ]の帰り、岩園トンネルまでの登りが太モモに堪えるが、それを我慢したあとには、岩が平公園やすぐ下の仲の池公園で一休み、というお楽しみも待っているし、[コットン・フィールズ]で飲んだ後、新緑の匂いと芦屋川の心地よい風を感じられるのも初夏ならではである。

書店人・百々典孝氏、新天地へ。

 出版界で八面六臂の活躍をしてきた紀伊國屋書店本町店の百々典孝(どど・のりたか)さんが、5月1日から紀伊國屋書店梅田本店の仕入に異動することになった。4月3日の創立3周年ブログでも書いたが、独立の際、「暑苦しい本をつくってくださいね」との言葉をプレゼントしてくれた人である。

この人に初めてお会いしたのはたしか2002年の春。当時私は京阪神エルマガジン社の販売部に異動して半年ほど経過していたが、たまたまその頃に出たMeets  Regionalの別冊『神戸本』『大阪本』『京都本』が大ヒットし、本町店が当時のエルマガジン社(博労町3丁目)から歩いて10分ほどだったこともあって、「追加注文」をカートにくくりつけてよく運んで行った。そこに、梅田本店から異動してきた百々さんがいたのである。

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おそるべき! 出張ミシマ社@谷中

「土曜日は谷中で『出張ミシマ社』をやっているのでよかったら覗いてください」

「谷中? 自由が丘と違うんかいな……」

内田樹先生の『街場の教育論』を4万5千部ヒットさせ、いま日本で最もイケイケゴーゴーの出版社・ミシマ社が、ホームタウンである自由が丘ではなく、台東区谷中にて出版人のためのワークショップを行うという。

その名も「出張ミシマ社」。そのまんまやないかという突っ込みはおいといて、第4土曜日は神保町の岩波セミナールームにて「アメリカ出版研究会」に出席するために上京している身としては、そっちを先に覗こうかいなと、雨の日暮里駅に降り立った。

にっぽり」という響きは情緒があってすごくいい地名だと思うが、数年前に駅の東側に泊まったときは駅前再開発工事か何かをやっていて、ターミナルがデカい割には場末感たっぷりでどちらかというと好きな感じではなかったが、北改札口から西口に出ると、東側とは一転して昭和そのものの商店街風景が目の前に広がる。

煎餅屋、饅頭屋、大学芋、あんみつ屋……おやつだけでもよりどりみどりで、どの店も年季が入っている。食い物も寿司屋に洋食屋、蕎麦屋、とんかつ屋……どしゃぶりの雨だが、晴れていればこの商店街は何度でも歩いてみたい。観光客向けもないではないが、地元の人達が普段遣いしている匂いがしっかりある。

とある洋食屋さんで地元住民と共に仁鶴師匠の「バラエティー生活笑百科」を観つつ、鉄板の上にジューと焼かれたハンバーグを頬張る。これがまた白飯にむちゃくちゃよく合う。ビールも欲しかったがガマンして、腹ごしらえを済ましたところで会場である[茶の間]へ。

なんと自由が丘のミシマ社と同様に、ここもまんまの一軒家。1階の土間では受付とミシマ社の出版物を並べて販売していて、ワークショップは2階。13時を過ぎると、ちょっと緊張気味(アウェーだそうで)の代表・三島邦弘氏(後ろは大越氏と渡邉氏)が登場し、この日の趣旨を説明した。

「ミシマ社で、ある出版物を企画して立ち上げるプロセスを実践してもらいます」

まず1時間で著者とタイトル、内容を決め、その後1時間でどういう営業をするか、そして最後の  1時間でヒットするようにどんな仕掛けをするかということを、みんなでわいわいガヤガヤ話し合いながら進めるという、ホンマに実践的なもの。半日で「出版社」を体験するというものである。

20人以上いたので、4人ひと組になって6チームから「著者&タイトル」 を3つずつ出すことになった。「チーム対抗もの」というのは人間を燃えさせる。私の組にはこれから出版社を立ち上げようとしている某超一流大学のOBや、出版を希望する某女子大生、そして代理店で制作をやっているというハキハキした某女性と一緒になり、それぞれ二つずつ計8つほど出し、その中から3つに絞って案を出した(内田先生、橋本麻里さん、勝手に著者として推しました。すみません)。

6チームが3つずつ出すので、あっという間に計18タイトルが出る。 スゴいスピードである。そして三島氏は、会場の挙手でこれをベスト3に絞り、さらに挙手で「どれか1タイトルだけ」を決めた。

そこで1限目が終わると思いきや「この著者&タイトルで、どんなコンテンツだったら読者が買おうと思うか、今の班を解散して、新しい人と組になってネタ出ししてみてください」 。人使いの荒いミシマ社である。しかしこれもまたチーム対抗となったら燃えるので、出された「お題」(これが何であるかはミシマ社に訊いてみてください)に対して、「目次にこんなことが書いてあったらオレなら買うよな」てなネタを、今度もまた全然違う参加者の人と相談してあれこれ出した。

会場の平均年齢を一人で上げている身にとっては、「年の功」を見せなアカンと必死である。ちょこっと覗くだけのはずが、いつの間にか完璧にゲームに加わっていた。

そんなこんなで1限目は終わったが、たった1時間で、18の出版企画を出して、それを1つに絞り、目次になるコンテンツまで決めて……と、至極濃密。心地よい疲れに襲われたが、三島氏曰く「スポーツみたいでしょ」。確かに。

2限目以降の「営業」 「仕掛け」のワークショップを体験できず残念だったが、体験された人、ぜひ続きを訊かせてください

名残惜しかったが、神保町へ向かうべくライターの近藤雄生氏(彼もワークショップに参加)と共にとことこ坂を下って千駄木へ。たった2時間程度であったが、森まゆみさんのホームタウンである「谷根千(谷中・根津・千駄木)」は、なかなかフレンドリーな磁場のある街だと痛感。

今度は夕日の時間帯にでも、ぷらぷら歩いてみたいものである。 

 

エスクァイアと、筋金入り落語編集者のこと。

本日発売の『エスクァイア』6月号はご覧の通り特集「落語エボリューション」。弊社も上方落語のページ(6P)を担当させてもらった。

表紙は人気の春風亭昇太。他に立川志の輔柳家喬太郎の名前しか入っていないので上方落語ファンにとってはちと(というよりかなり)寂しいが、お江戸の雑誌だし仕方ねぇやと割り切って本題に入る。

上方落語のページは日高美恵さんと竹内厚さん、弊社オオサコ、そして私が書かせてもらった。

竹内厚さんは昨年末に休刊したLmagazineの副編集長を長い間務め、新しいヒット特集をばんばん創り出した一人。当時のMeets Regional編集長・江弘毅をして「いま雑誌の中で一番スゴいのはエルマガちゃうか!?」と感嘆せしめた男である。まだ繁昌亭もオープンしていない2006年の春に落語特集(あれにはホンマにびっくりした)をやってのけたのは、この人のフットワークとセンスの賜物だったと思うが、今回もそれを余裕で発揮してくれた。

そして日高美恵さんは、 実に四半世紀前からLmagazine の落語ページを書き、編集していた人である。

私がLmagazine に入った頃('83年)には、すでに落語担当として独り立ちしていて、大小を問わずせっせと落語会に顔を出しては勉強し、上方の噺家たちから完ぺきに信頼されていた。当時のエルマガはメールどころかまだfax.も珍しかった頃で、公演を告知したいミュージシャンや落語家は編集部を訪れて「ちわ~嘉門達夫です~。こんどワンマンショーやりますねん」と担当者にプッシュするのが常だった。

噺家さんが来た時には必ず日高さんが笑顔で応対する。 一番よくお顔を見たのは雀三郎さんだったと記憶するが、体一つでお客さんに向き合わないといけない落語家にとっては、まず日高さんに「頑張ってください」と言ってもらえるとすごく励みになったに違いない。ペーペーの編集者は端から見て、そう感じていた。

そして偶然にも、 私が落語のデスクになる。中学の頃はサンテレビで桂三枝師匠が司会をしていた「上方落語大全集」をけっこう見てはいたが(当時、兵庫にあったスタジオの公開録画を堺から観に行ったこともあった)、その後はそれっきり。それで日高さんのアドバイスを元に、彼女ほどは熱心ではなかったが落語会に顔を出すようになった。

オープンしたての八尾プリズムホールで「むちゃくちゃ面白い噺家さんやな」と思って聴いたのが、最近よくお目にかかる笑福亭松喬師匠だったり、元気だった頃の柳家小さん師匠の「冗談言っちゃいけねぇ」なんてセリフがずっと耳に残っていたり、正月の旧サンケイホール桂米朝独演会」を観に行って、名人の「百年目」に魅了されたり……という体験は、日高さんがいなかったら味わうことが出来なかっただろう。

その後結婚されていったん京阪神エルマガジン社を退職されたが、この人の落語に対する情熱は私の想像をはるかに超えていた。

2006年の9月に、落語会の月刊フリーペーパー「よせぴっ」をイラストレーターの中西らつ子さんらと共に立ち上げたのである。繁昌亭から小さな地域寄席の情報がホンマにぎっしり詰まっているだけでなく、ミニインタビューや本、DVD紹介など、超盛りだくさんのB5判12ページだ。

本人は「エルマガの続きやってます」と言っていたが、当時のエルマガは発行部数こそスゴかったが、ここまで「愛」のあるメディアではなかった。そういう意味では「エルマガでも出来なかったことをやっている」 のが日高さんだと思う。

前述した八尾プリズムホールのこけら落とし公演の時、松喬さんはじめ名人揃い(トリはたしか米朝師匠か春團治師匠だったと記憶する)のラインアップであったにもかかわらず、客席はガラガラだった。なんでこんなに面白い落語会を、ガラガラな状態でほっておいたのかと、八尾市に対して心底腹が立っていたことを思い出す。

あれから20年、繁昌亭の昼席は連日立ち見の満員状態が続き、昨年の桂米團治襲名後も桂文三(つく枝改め)、桂春蝶(春菜改め)、笑福亭枝鶴(小つる改め)、桂塩鯛(都丸改め)の襲名で上方落語もさらに盛り上がろうとしている。

けれど、盛り上がっていないときでも、メディアに籍を置いていないときでも変わらぬ愛情を注ぎ、上方落語を一貫して応援し続けた日高美恵さんのような人が少なからずいたからこそ、 現在の隆盛があるということを忘れたらアカンだろう。

そんな人と20年ぶりに同じ雑誌での仕事。「長いことやってたら、思わぬサプライズがある」という見本が今回の『エスクァイア』である。大ベテランの彼女による繁昌亭の原稿の隣で、おこがましいが米團治師匠のインタビュー原稿を書かせてもらった。

上方落語との付き合いもいろんな人のおかげで細く長く続いているなと感じる、春の夜である。

売り切れないうちに『週刊文春』買いましょう。

「ミシュラン京都・大阪版」に対する江弘毅署名入りの記事が3ページにわたって本日発売の『週刊文春』で掲載されております。

 

どんな内容かは、もうホンマに読んでのお楽しみ。これまでもこのブログや著書『街場の大阪論』で再三にわたって書いてきたことにプラス、今回の取材でしっかり掘ったネタがぎっちぎちに詰まった形で載っています。

「女子アナの品位」がどうとか、「野村監督のボヤキ」がどうとか、「茂木健一郎の頭の中」がどうとかいうネタになりそうなネタも本日発売の週刊文春にはありますが(トップは「小沢民主なぜ闘わない」、二番目は「金正日に中国が送った秘薬」)、手前味噌で恐縮ですがこのミシュラン記事だけでも350円の価値は十分。

なんせ、ネタ集めでも校正でも、久々に江弘毅の怒鳴り声を聞きながらやりましたから(笑)。

立ち読みせんと、買うたってください。いやホンマ。

平川克美『経済成長という病』に映る希望。

「退化に生きる、我ら」という副題がついたこの本は4月25日ごろ店頭に並ぶらしい。

まだ製本前の、32ページずつの束を重ねて輪ゴムで止めたものを、先週の金曜日に著者である平川克美さん(実は弊社の株主でございます)からせしめた。

「読ましてもろてええですか?」「ああ、持ってっていいよ」

目黒でカレーうどんをご馳走になり、そのあと広尾でジントニックもおごってもらった上に……とてつもなく厚かましい限りである。

しかし、その恩恵を差し引いてもこの著作は「本になってから、また買って読みたい」と思わせるもので、平川克美さんの著書の中では最高傑作(私が言うのもおこがましいのは承知の上で)ではないかと思う。

「経済成長という病」のおかげで我々がいま生きている社会がどれだけ危なく、壊れやすくなっているかを世界金融危機や秋葉原事件をはじめ国内外のさまざまな事例を紹介しながら実に丁寧に分析し考察してあり、「私達が歩いてきたのはこんな道程だったのだ」と改めて立ち止まらせ、気づかせてくれる。これだけでも読む価値は十分にある。

そして、この本には結論としてそんな病から脱却するために「こうすればいい」めいたことは書かれていない。ただ平川氏は、日本社会が成熟期を迎えていて経済成長の糊しろが薄いなら、成長を前提とした国家戦略も企業戦略も現実との乖離を大きくするだけだから、その乖離を埋めるために無理を重ねるようなことだけはするべからずと説き、

いまなら、光り輝くものではないかもしれないが、もう少し味のある未来図を描けそうな気がする。なぜなら、国も私も十分に成熟したからであり、成熟こそ私たちが若さと引き換えに得た、貴重で信ずるに足る資産だからである。

成熟した未来図を成熟した大人が描く。

その作業をひとりひとりが、はじめてみてもよいと思う。

と結んでいる。

だから「21世紀日本の処方箋」を求めて読んだ人にはいささか拍子抜けするのかもしれないが、「具体的解決策はこれだ」という短絡的結論にすぐ至る言説を徹底的に排するところが平川本の真骨頂である。

全編に貫かれたメッセージとしては、「生身の人間として、病の加担者でもある自らの身の程を知る」ことの大事さであろうか。そして「自らの愚かさを勘定に入れながら、根性入れて地に足つけて考え抜くことが大人になることだ」と人生の先輩・平川克美は私に言ってくれているし、平川克美の著書をまだ手にしたことのないあなたにも言ってくれている。

これは社会時評とも、未来のための指針とも、人生指南の書とも、上等な小説とも、ええ親父が書いたエッセイとも読める不思議な本だが、先行き困難で深刻な事実がこれだけ列挙されているにもかかわらず、なぜか読後に希望が感じられる本当に不思議な著作である。

それは、うまく言えないが、平川克美という人の「まなざし」の優しさ、美しさゆえではなかろうか。

副題の「退化に生きる、我ら」の言葉は、この本の冒頭で1972年に平川氏の同人仲間が書いた作品に由来していると紹介し、その年にあった沖縄返還や浅間山荘事件、田中角栄の「日本列島改造論」を例に挙げながら「戦後の変わり目」の年にこんなメッセージ性のある言葉を敢えて投げかけてきた仲間のことを思い返している。

それを読み返しながら私は、偶然にも同じ1972年に阿久悠和田アキ子に託した唄のことを思い出し、ちょっとうれしい気になった。その唄も混沌の中にいる私達はどうすればよいかを希求するようなメッセージソングだが、あの時代の中で阿久悠は、それから37年後に登場する平川さんのような人のことを考えてこの詩を書いたのではないかと、ふと思ったりして。

あなたには希望の匂いがする

おかげさまで、3歳。

「暑苦しい本を出してくださいね」

エルマガジン社を辞めて新しい会社を立ち上げることになりましたと紀伊國屋書店本町店の百々典孝さんにご挨拶に行った3年前に、彼からプレゼントされた言葉である。

その会社が生まれてから、今日4月3日で3年になる。登記書類一式を天満橋の法務局に提出した帰り、どこかの喫茶店に寄ってコーヒーとケーキで祝杯をあげたことを思い出す。

どんな考え方の会社にするかは「自分で決められる」、それ自体が新鮮な衝撃だった。そのために定款をつくり、江と一緒に発起人を訪ねて資本金を集め、取引銀行を決め、書類を提出し…という一連の作業をクエストルームに間借りしてひと月で終えられたことは運がよかったという以外、考えられない。

おまけに、ダイビルというこの上ない空間で働けたことも大きかった(ビル取り壊しに伴う引っ越しのためいろんな部屋を見せてもらっているが、必ずダイビルと比較してしまうのは身の程知らずであろう)。

3年のうちに、雑誌(キョースマ)を9点、書籍(ななじゅうまる)を3点、ムック(京都を買って…など)を4点、冊子(月刊島民やThe ROYALなど)は20点以上つくったし、江弘毅の名前で著書も2点他社から出版された。江の最新刊『街場の大阪論』も快調に飛ばしている。

が、140Bという出版社から自前の、百々さんのおっしゃるような「暑苦しい本」はまだ生まれていない。少なくとも3歳児から幼稚園児への飛躍は、そこにしかないだろう。

「一喜一憂せず、けどいつも機嫌よう」とは昨年のブログに書いたが、今年はその言葉の後に、「もっと体も脳味噌も汗かいてモノつくれ」が来る。

ともあれ、こうやって3周年を皆様に報告することが出来て、ひたすらうれしい春の夜でございます。

小原美砂さんへの心残り。

エルマガジン社に在籍していた頃からずっとお世話になっていた校閲の小原美砂(おはら・みさ)さんが膵臓ガンで亡くなられたため、通夜の席にかけつける。

私が小原さんと初めて仕事をしたのは今から13年前、ミーツの副編になった時である。それまでにいくつかの編集室を異動したが、行った先では「校閲」というポジションを担っている人はいず、スタッフみんなでとにかく手をかけ時間をかけて校正を見る、ということをやっていた。

そんな現場ばかりをくぐり抜けてきた私にとっては、小原さんの指摘や朱書き一つひとつは目から鱗が落ちるような発見ばかりだった。記事や誌面作りの「最後の仕上げ」に対する心構えというものを教えてくれた人である。

文章の構成はもとより、人物・場所の固有名詞、歴史的な事実関係、言い回し、表記の仕方、字間・行間の空き具合…など、一体この人にはどれだけチェックポイントがあるのだろうかと感嘆しつつ、ザルで水をすくうような自らの校正を大反省したものである。

小原さんの朱書きが入った校正紙が何より品があった。複雑な朱書きには何色ものペンを使い分け、定規で丁寧に線を引いて書き入れる。見終わった校正紙には「砂」というチェックサインが入り、それが入っているのといないのとでは、校正の「詰め」に天と地ほどの差があった。

「最後は小原さんに見てもらっている」ことイコール、「われわれは売り物を作っている」という自覚につながった。何よりも集中力とスピードが全然違う。けどそんな彼女でも時に勘違いをしたりするのだが、そういう場合はカン高い声で「すまぬ!」と一言。その声の感じがまた座を和ませてくれた。

古巣のエルマガ社だけでなく、140Bに独立してからも一緒に仕事が出来たことはこの上ない幸せだったが、わが社編集・発行の書籍第1号の校閲を小原さんにお願いできなかったのが心残りである。

もう一度小原さんに「中島さん、今回よく出来てるね。売れそうじゃない!」と言ってもらえるような本作りをすべく、これからも努力を続けます。

本当に長い間ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。合掌

花まつりのお江戸・落語大競演!

浄土真宗本願寺派の僧侶にして、仏教学の権威でもあるご存じ釈徹宗先生。

その釈先生が、浄土真宗をモチーフにした落語の名作「お文さん」を新たな解釈で書き下ろし、それを芸術祭大賞受賞の笑福亭松喬師匠が演じるという「春の夜の夢」のような落語会が4月11日(土)17時半から東京・築地本願寺で開かれる。

これは本願寺出版社から夏に刊行されるCD付き単行本『落語の中の仏教(浄土真宗)〈CD付〉』(仮)の収録も兼ねた催しで、本の編集には弊社もちょっとだけかかわっている。

出演は、松喬師匠(お文さん+1席)、東の名人・柳家さん喬師匠(2席)、そして滋賀・浄念寺の藤野宗城住職による「節談(ふしだん)説教」も披露される。落語の源流とも言えるもので、これと落語とが一緒に聴けるなんて、たぶん21世紀初でしょう。

築地本願寺では当日14時から、おなじみ[ラ・ベットラ]の落合務シェフが秋田のお米(神戸の星加ルリコさんが根性入れて推している「こめたび」の米です)を使ったリゾットを直々に作ってくれたり、邦楽ユニットの演奏やフラメンコステージがあったり、老舗日本茶+煎餅のほっこりした茶店が出たりもする。さすが銀座から歩いて10分の聖地。

イベントの「突き抜け加減」では全国社寺でダントツともいえる築地本願寺の催しでも、これだけのラインアップを一堂に揃えるあたりは、さすが私がひそかに「フィクサー」と仰ぐ本願寺出版社編集部・藤本真美さんの力業と言うべきであろう。恐れ入りました。

行きたい人、あまり時間がありません。往復ハガキに名前・住所・年齢・電話番号・希望枚数(2枚まで)を、返信用宛名面に郵便番号・住所・名前を明記の上、〒104-8435 東京都中央区築地3-15-1 本願寺出版社 東京支社まで。締め切りは3月23日(月)消印有効。応募多数の場合は抽選ですが、何はともあれお急ぎなされぃ。

たぶん桜は散っているだろうが、花見以上の興奮と盛り上がりは保証します。

では、花まつりのお江戸でお会いしましょう。こんな夜は意外に冷えます。防寒にも気をつけられたし。

「無愛想」ではなかったが。

「せっかく来てもらったので、ほだされそうになるけど…でもPR誌はずっとお断りしているんですよ」

朝から氷雨の東京・町田市郊外、鶴川・能ヶ谷。白洲次郎と正子夫婦が昭和18年から住み、没後は2001年から一般公開されている旧白洲邸[武相荘](武蔵と相模の境と、自身の無愛想を引っかけて)を某PR誌で紹介したいと思い、取材依頼に現地を訪れたが、残念なことに主人からは先の返事であった。

まぁせっかくここまで来たんだし、中を見学させてもらうかと思っていたら、先方も気を遣って「どうぞどうぞ、もうすぐ団体さんがどっと押し寄せてくるので、それまでにゆっくり見てやってください」とのご配慮をいただく。

茅葺き屋根の母屋の中は段差がいくつもあり、いろいろと手を加えていったことが想像できるが、風雪に耐えた家の「住み心地のよさ」が感じられて、たまには早起きはするもんだとちょっとだけ自己満足。

とくに白洲正子が執筆に使った畳の部屋は、傾くほど蔵書がぎしっと詰まった本棚を背に、文机が小さな窓のそばに置かれていた。外は相変わらず氷雨だが、木々の匂いが部屋中に立ちこめるようで、書き物をするには確かに最高の場所である。おまけに、長時間書き続けていられるように下は掘りごたつ。

「あたしは特等席で書くからね」(と言ったかどうか知らんけど)なんて感じで、ずんずん自分の世界に入り込んでいった彼女の仕事ぶりがかいま見えて愉しかった。正子好きのヨメはんなら1時間は離れないだろう。

また、外国の友人から次郎に贈られたスコッチ17年ものの樽が置かれていたり(全部飲むのに何年かかるんや)、大工仕事が好きだった次郎手作りの大型スタンドや、お気に入りの持ち物、「葬式無用 戒名不用」の遺言書などもたくさん展示されていた。が、極めつきは野良仕事が好きだった次郎の農機具で、これを動かして土に親しんでいるときは実に愉しかったのだろうと想像する。

てな感慨にふけっている間に、次から次へと人が押し寄せ、もうゆっくり見てなんていられない。今日(27日)はまだ平日だし、気温も5℃しかなくてほとんど雪のような雨なのに、この人出はシーズン中の京都の寺並みである。

明日(もう今日だが) からNHKで白洲次郎のドラマが放映されるが、始まったら一体ここはどうなるのだろう? たぶん入場制限をせなアカンようになるのではないかと危惧。「PR誌が云々」 なんてレベルではなく、取材そのものも一切お断りということになるかもしれない。

しかしそれ以上にびっくりしたのは、ここがかつて「秋は栗拾いに、春は苺(いちご)狩と筍(たけのこ)掘りに」というのどかな南多摩郡鶴川村の一角で、「農家の人々にとっては、いわば『姨捨山(うばすてやま)』のような一隅ではなかったであろうか」という表現で白洲正子が書いたような場所だったのに、目の前には幹線道路が走り、ユニクロやモスバーガーやCoCo壱番屋が乱立する新興住宅地エリアに変貌していたことである。

まさか周囲も当時の田舎のままだとは思っていなかったが、それでも「人里離れた場所」を想像していた身にとっては、敷地内を出た瞬間、軽いめまいのようなものに襲われてしまった。

白洲次郎も正子も、鶴川の「繁栄」 ぶりは見ないままに逝ってしまって正解だったのでは…と渋滞で全然動かない帰りのバスで考える。

 

あなたのヒーローは誰ですか?

キョースマ!』では今回、日替わりでいろんな世界の人に会うことができ、その世界の人にちなんだ場所に行くことができ、刺激的な毎日を送っている。

 一昨日は狂言師の茂山宗彦さん。NHK朝の連ドラ『ちりとてちん』(私にとっては朝の連ドラが年2回になって以降、『ちゅらさん』と並ぶ傑作) で徒然亭小草若を演じた際に見せた「そ~こ抜けにシビれましたー」とは全然違うキャラで、気配り細やか、かつ話が実におもしろい人だった。

彼にとっての京都は、これまた意外な場所。編集者としては「こらええネタいただいたな」なのであるが、これを茂山宗彦さんの高校の先輩である元橋一裕氏がどう書いてくれるか、実に楽しみである。

そして昨日、今日は「時代劇」のヒーローを追って、今まで知らなかった京都をライターのK氏と共に訪れた。

「時代劇」の話をすると面白いなと思うのは、例えば10人と話をすれば、10人の「ヒーロー」が顔を出すことである。

エルマガ・ミーツ時代を共にしたソデオカは、姫路城に遠足に行った際の思い出を「みんなで“吉宗評判記ぃ”(暴れん坊将軍)ゆうて境内を走って怒られましたわ」と話していた。弊社のミチダ姐さんは「やっぱり千葉真一の柳生十兵衛でしょ」だし、義理の弟のリョースケは「鼓が鳴って、高橋英樹の桃太郎侍が“ひとぉ~つ”っていうのがたまりません」となる。

実はこの3人、それぞれ1歳ずつ歳が離れているが、いずれもヒーローが異なる。異なっているのは決して「歳が1歳違う」ということだけではないから面白いし、それぞれの「想い」の表現の仕方が興味深い。時代劇というのは「人と人とをつなぐ話のタネ」としてはとても便利な道具だと思うが、だれをヒーローにしたかで、その人の子供時代やキャラが垣間見える。

今回、『キョースマ!』の取材に東京から来てくれたK氏は、1977年生まれでまだ31歳と若いが、前述した3人のヒーローはおろか、嵐寛寿郎の鞍馬天狗から、今オンエアされている『必殺仕事人2009』の「からくり屋の源太」に至るまで、均等な愛情を降り注ぐ希有な書き手であった。

「オレ的にはあのキャラはこうだから…」などと自説を開陳し知識を披瀝するオタクとも全然違うのは、彼が撮影現場や時代劇スタッフなじみの店に行くと、親と同じぐらい歳が違う年長者から信頼され、可愛がられているところである。かといってK氏は媚びたりせず、自分が訊かねばならないことを淡々と忠実に訊き、取材をしていた。ノートは5分もすればあっという間に真っ黒になる。

こんな書き手と一緒に仕事ができ、刺激的かつ学ぶことが多い2日間であった。

今回の『キョースマ!』、私が取材現場で感じた「おもしろさ」をちゃんと伝えられればいいが…心配は今のところそれだけである。

ちなみに私のヒーローは中村敦夫の木枯し紋次郎であるが…。

 

あの日のことを少しだけ。

14年前の1995年1月16日(たしか連休最後の日)は、明日からまた始まる締め切りの日々を前に、当時つくっていた別冊(ムックをつくる編集開発室という部署にいた)の表紙ネタを探しに宝塚へ行く。お目当てはそのころ出来たばかりの手塚治虫記念館である。

マンガの数が多くて尻に接着剤が付きそうになったが、誘惑を振り切って館内を見て回ると、確か最上階にある天窓の付いた部屋に「ガラスの地球を救え」というメッセージが出ていたのが印象に残っているが、「ふーん、手塚先生はええこと言うてはったんや」と思う程度だった。少なくともそれから半日の間だけは。

夜明け前、 神戸市東灘区本山北町の自宅でとてつもない音と突き上げるような振動のために飛び起きたら、テレビが台から墜落し書棚からは本がばらばらと落ち、冷蔵庫がいったん流し台の位置まで動いたと思ったら流し台にバウンドしてまた元に戻り、食器棚からは勢いよくグラスやらカップやら皿やらが飛び出して目も当てられない状況になっている。

何が起きたのか? 「地震」だということすら分からない。ひょっとしたら巨大な隕石が落ちて来たのでは…とマンガ的な妄想までする。

停電でテレビがつかないから何の情報もないが、とりあえず明るくなってから外に出、自宅から5分ほど離れている駐車場に向かう。何とクルマに隣のコンクリートの塀がもたれかかっている。塀がこのまま傾くとクルマも巻き添えになるので、すぐに別の場所に動かし、カーラジオをつける。

6時過ぎで、ニュースもまだ状況は大してつかめていないようだが、どうやら「地震」らしく、そして街のあちこちから煙が上がっている。とにかく堺の両親が心配で公衆電話に行く。地震なら一番危ないのは「紀伊半島沖」だろうし。

「えらい揺れとったねぇ。あんた大丈夫やったと?」

こっちは体が突き上げられるような衝撃だったというのに、何とものんびりした母親の声である。しかし、被害はほとんどないと聞いて一安心。ということは、神戸の近くが震源だったのか…。

外を歩き回っても寒いだけなので、家に帰り携帯ラジオを出してニュースを聴く。 死者が50人を超え100人を超え…と、目に見えないところでとてつもない被害が出ているようだ。

会社(京阪神エルマガジン社)に電話したくとも、家の電話が通じない。近所の公衆電話にはスゴい列が出来ているし、テレホンカードがダメで、10円玉しか使えなくなっている。情報はラジオしかない。

…と思っていたら急に家の電話が鳴ってびっくり。しかもシンシナティに住む友人からだった。

「見たよ。CNNのトップだけど、そっちは大丈夫?」「え!?」「200人以上死者が出ているそうだし、高速道路が倒壊しているらしいよ」「…」

一番被害状況が激しいのが神戸・阪神・淡路地区らしいことが判明。要するに災害のど真ん中にいるということだけは分かった。

相変わらずこちらからの電話は通じなかったが、またかかって来た。隣の部署(ミーツ)の江弘毅からだ。当時、彼とはそれほど頻繁に話す間柄ではなかったので意外であった。

「中島くん大丈夫か? ごっついぞ」

こんな大惨事にも[シェ・ワダ]のようなレストランでスゴいお皿が出てきたような「ごっついぞ」の表現があぁ江らしいなと思い、その一言でようやく落ち着きを取り戻す。ただ彼の住んでいる三宮・元町界隈の被害は密集地だけにかなり悲惨だという。

本当はもう少し外に出て積極的に情報を取ったり人助けをしたりの方が良かったのかもしれないが、寒さと空腹と、とにかくこの家の中を何とか住める状態にしないと…というのが先に立って、家の中でラジオをずっと聴いている状態でいる。

電気もガスも完全に止まっていたが、たまたまカセットコンロだけはあったので、昨夜作ったカレーをあっため、ご飯を入れおじやにして食べる。よくも前の日に自炊なんかしたもんだと、これだけは感心。しかし割れた食器やグラスの破片を踏むとケガをするので、家の中でも登山靴を履いて過ごした。

この日がまた寒かった。が、懐中電灯の電池がもったいなかったのでラジオだけつけて布団の中に潜り込む。西代の病院被害、仁川の地滑り、ポートアイランドの液状化、長田の火災、そして死者の増加など気が滅入るニュースがこれでもかこれでもかと押し寄せる。

しかも余震が恐ろしい頻度でやってきて、その都度目が覚める。ほとんど寝てなかったと思う。36のオッサンでもそうなんだから、子供やお年寄りは本当に怖かったはずだ。

翌朝。またカレーをあっためて食いながら、とにかくここにいても仕方がない、会社に出て仕事をし、ヨメはん(当時は出張中で震災には遭わず)と共に堺の両親の家から通うことに決める。時間が経つにつれて気分がふさぎこんでしまう。たった1日でもこれである。

とにかく割れた食器を片付け、箒で部屋を掃き、落ちたものなどをすべて元に戻す。風呂場からバケツに水を汲み、流れないトイレを流す。臭いが少しだけマシになった。荷造りをするが通帳やパスポートや少量の着替え、ちょっとした食料など最小限のものだけ。「もし火の手が回ったらその時はしゃあないわ」と、いろいろ持ち出すのはあきらめた。

ラジオでは「阪神電鉄は梅田ー甲子園間の運転を再開しています」と報じていた。そこまで歩くことにしようと、家を出る。当時の自宅は阪急神戸線の線路がすぐそばにあったが、あの朝停車した電車がまだ止まったまま放置されていた。JRも同様で、動かない無人電車を見るのは不気味だとしかいいようがない。

国道2号線に出たら、もっと悪夢が広がっていた。信号がまったく点灯しない道の両側、ぺしゃんこに倒壊した建物がどこまでも続き、クルマもただぎっしり並んでいるだけ。人間の歩く速度よりはるかに遅いスピードでしか動かない。全国から緊急車両や救援物資が来ているのに、避難の自家用車のため、立ち往生している。

避難にクルマ使うたらアカンで。

歩けない子供やお年寄りがいるとか、ケガ人がいるとかは別として、地震の時はクルマを使ったらアカンって、教習所で習わへんかったか!?

これはきっと幻を見ているとか思いながら歩いていたが、泣き叫ぶ子供とすれ違ったり、「兄ちゃん、そこのクルマどかさんと消防車通られへんので手伝ってくれへんか?」などという声に反応して一緒に「よいしょ」と軽自動車をどかしたりしながら、甲子園へと向かう。

たぶん今歩いている国道2号線から1本入っただけで、もっと悲惨なことがたくさん起こっていることは想像できたが、これ以上体が動かない。自分自身を甲子園に持って行くだけでも精一杯だった。

甲子園から電車に乗ってびっくりしたのは、武庫川を渡ると急に被害が少なくなっていたこと、そして梅田に着くと、パチンコの音やバーゲンの袋を持った人間の姿に唖然とする。

会社の大きな書棚は倒壊し、こちらもケガ人こそいないが無傷ではなかった。が、大きなリュックサックに登山靴の私を見て、みんなの目が点になっていた。少しだけ仕事をして堺に帰る。まず風呂に入らせてもらって一息ついた。

久しぶりに見たテレビは、どこのチャンネルを回しても震災報道ばかりで、コマーシャルも公共広告機構一辺倒である。「ライフライン」などという聞き慣れない言葉が出てきたり、「これが東京だったらどんな大惨事になっていたことでしょう」(あれは大惨事やないんかい)などと話す超能天気なコメンテーターに、あの夜を経験させてやりたいものだと腹が立ったり。

会社で当時つくっていた別冊は「行楽」をテーマにしたものだったのでとりあえずおいといて、翌日から我々のメシの種である神戸の街の聞き取りを開始した。通じ始めた電話をつかって近況を聞き、壁に模造紙を貼って「老祥記は2月1日から再開」などと書き込む。

もっと状況が知りたくて、電車と代替バスと徒歩で1時間半かけて三宮へ行き、店の貼り紙を写真に撮ったり、「状況が分かり次第、編集部までご連絡ください」の手紙を入れたりした。「わざわざ来てくれて、うれしいわ」とも何度か言われた。あの時の自分自身を考えると、元気な人間に声をかけてもらえるだけで有難いというのがよく分かる。

大したことは何一つ出来なかったが、「仕事は、させてもらえるもんなんや」とこういう作業をやりつつ思うようになった。

死なずに生き残った(お世話になっていた芦屋の大先輩はあの朝、圧死した)し、仕事場も被害が少なくて済んだし、そこに通えるねぐらも別にあった。すべて「たまたま」の偶然。有難かっただけのことである。

震災現場では全く役に立たない人間で大した教訓は残っていないが、生きて仕事がやれるだけでもこの上ない幸せなのだということが分かっただけ、あの日を現場でくぐり抜けた意味があるかもしれない。そんなことを思い出した。

人間国宝から「宿題」をいただく。

キョースマ!(京都に住まえば…)』春号取材の舞台は初の大阪・ミナミ。お相手をしていただいたのは歌舞伎役者で人間国宝の坂田藤十郎さんである。

昭和6年生まれで9歳の時に[角座]で初舞台を踏んだ藤十郎さんにとって道頓堀界隈は懐かしい場所で、この日お邪魔した[大阪松竹座]はかつての映画館。

「洋画のロードショーを観によく通いましたが、まさかそこで襲名披露をすることになるなんて思わなかったですね」

藤十郎さんは昨年大晦日に喜寿を迎えられたが、肌はつやつやしているし、声には美しい張りがある。「華があるっていうのはこういう人のことを言うんや」の見本を目の当たりにした感じである。

今年は初代・坂田藤十郎の没後300年にあたる年で、かつ中村壱太郎との競演(おじいちゃんと孫で恋物語が成立するのは日本の歌舞伎だけだろう)もあり、何よりも気合が入っておられるという。当たり役である『曽根崎心中』のお初は彼が昭和28年に中村扇雀(「扇雀飴」というブランドは彼の人気でつくられた)として初演してから56年間ずっと演じつづけているが、森光子さんの48年を上回る、途方もない道のりである。

その藤十郎さんは京都の出身で、街のど真ん中である河原町蛸薬師で生まれ育った。「あ、錦市場…なつかしいなぁ」 と『キョースマ!』冬号を手にとっておっしゃった。

生まれた時にはすでに満州事変が勃発していたし、その後も状況は悪くなる一方で、初舞台を踏んだ直後に日米開戦に突入…という幼少時代の思い出はあまりハッピーではなかったそうだが、その後は事あるごとに京都生まれ京都育ちであることに誇りを持つようになったとおっしゃる。

その彼がしきりに「あそこは今どうなってます?」と訊いてこられた場所があった。藤十郎さんには一番の思い出の場所であるのだが、いかんせん淡交社の奥村寿子さんも私も「あそこ」が今どうなっているのか答えられない。

「宿題として調べておきます」と申し上げてお約束の1時間で取材を切り上げ、奥村さん、カメラマンの有本真紀さんと別れた後、そのまま帰るのがもったいなかったのでチケットを買って3階席に。つい先ほどまで部屋着でにこやかに話をされていた藤十郎さんが、目にも華やかな『春寿松萬歳』で踊っている。衣裳が引き抜きで変わるごとに大向こうからかかる「山城屋!」

2日続けて「名人芸」を目の当たりにできるとは、今年の運をもう使い果たしたか。いやいや、藤十郎さんの「宿題」をちゃんとやらんとアカン。

というわけで、できた宿題に大向こうからお声がかかるかどうか、3月6日発売の『キョースマ!』春号をお楽しみに。

 

松喬師匠の名人芸@如来寺

月刊島民』でも『キョースマ!』でもおなじみ、今や売れっ子作家でもあり兵庫大学の准教授でもある釈徹宗先生のホームグラウンド、池田市の如来寺を訪れる。

彼はここの住職。これだけお世話になっているのに恥ずかしい話だが、「本業」をされている姿にお目にかかるのは初めて。地元の人にはごく普通の光景なのに、とても新鮮に感じてしまった。

なぜ如来寺にお邪魔したかというと、今や上方落語の実力派ナンバー1と言える、芸術祭大賞受賞の笑福亭松喬師匠がこの如来寺本堂で落語会をすると聞いて。浄土真宗のお寺では、親鸞聖人の命日にあたる1月16日前後に「報恩講」という法要が行われるが、その一環の行事として、である。

繁昌亭もびっくりの至近距離の本堂で、地元の人たち50人ほどに交じって名人の噺を聴くなんて、ちょっと寒いけどかなり極楽。

松喬師匠は聴衆をこことは違う場所に連れて行く力が圧倒的で、最初のマクラでは適当にエンジンをあっためながらゆっくり走っているが、本題に入るやあっという間に高速道路の150キロ走行に変わるような凄みがある。

演目はまず「手水廻し」、休憩を挟んで「花筏」。

前者は「チョーズを回せとはどういう意味か?」 と主人も板場も途方にくれる丹波篠山の田舎旅館に引きずり込まれ、後者では大阪相撲の大関・花筏と草相撲の大関・千鳥ヶ浜が千秋楽結びの一番で激突する播州高砂の興行相撲の熱狂へと誘ってくれる。

 なぜお寺でそんな噺をするかって? やっぱり出てくるんですよ、「住職さん」とか「ナムアミダブツ」とかが。

お寺で落語、というのが新しい(というより原点回帰だけど)行楽になるような気がする…。

 

 

林さん、マグロ食いたくなりました。

林宏樹!? 世の中には同姓同名が多いからなぁ」

化学同人という京都の出版社から『世界初! マグロ完全養殖』という本が出たが、この著者が『キョースマ!』でおなじみのライター「林宏樹」さんと同じ名前。でも畑が全然違うから(キョースマの林さんの畑は銭湯とか学区とか居酒屋とか…)たぶん別の人やろうと、とりあえず放っておいた。

しかしやっぱり気になったので、WEBでこの著者のプロフィールを調べたら…やっぱキョースマの林さんですやん!? 仕事の幅広さに驚嘆し、さっそく読み始める。

これは熊井英水氏をリーダーとする近畿大学水産研究所のメンバーが、到底不可能と言われたマグロを完全養殖するまでの、試行錯誤を積み重ねた32年間を記録したもの。

世界中の海を回遊するマグロがいかに養殖に不向きな魚かということや、その養殖をライフワークとした水産研究所の面々がいかに「羊飼いならぬ魚飼い」的な愛情にあふれた人たちかということが、誇張やセンセーショナルな表現を用いずに淡々と語られる(ありがちな、やたら大げさな言い方、嫌いですねん)。

幼魚のヨコワを捕ってきたはいいが、すぐに全滅の危機に。幾度かの困難を乗り越えて産卵したと思ったら、ほとんど育たない。育つと共食いの危機にさらされたり、突如水槽の壁に体当たりして大量に死んだり、それらを回避してやっと成長したマグロが肝心の卵を産まなかったり…と、気が遠くなる試練の数々を、このスタッフたちは黙々と、しかし確実にクリアし、ついに2002年に偉業を成し遂げる。

もちろんマグロを養殖するということは「経済的事情」がついてくる話なのだが、そっちのビジネスモデル的なソロバン話に引っ張られず、かといって難しい生物学の話になってもいないところに、林さん独特のバランス感覚が働いて、話がうまいところに着地している。

特に今年74歳になる熊井英水氏のことを描く著者のタッチが何とも言えずハートウォームで、たぶん熊井氏も林さんに話をするひとときが愉しみだったのではないか…ということが、行間から伝わってきて心地よい。

圧巻は、最後の産卵があってから丸11年も産卵がストップしていた93年ごろ、熊井氏自身が「このままクロマグロの研究を続けていいものだろうか?」と弱気になっていたとき、近大の二代目総長である世耕政隆氏が言った言葉である。

「生き物というのは、そういうものですよ。簡単にいくはずがない。気を長くもって、長い目でやってください」

近大水産研究所に飼われたマグロは幸せ者であろう。もちろん、いつの間にか寿司屋に行きたくなるパブロフの犬的作用もある1冊。一見カタい本のようで、実に面白いです。

林さん、ナイスでした。

 

 

 

「おでんの会」という年始。

この単語を聞いて「あぁ」とうなずかれるご仁は出版の中でも「販売」にかかわった人間だけだと思うが、その世界での認知度はバツグンの大イベントである。

毎年、必ず十日戎にちなんで1月10日に開かれるこの会は、出版社と書店・コンビニ・駅売店との間で流通を司る取次店国内第3位の「大阪屋」が主催するもので、なんと1,200人以上もの出版関係者が東大阪市郊外の大阪屋関西ブックシティ(言うたら巨大な新刊本の流通センターです)に集まるのである。

普段は人気があまりなく、静かで脱力感満点のJR学研都市線徳庵駅周辺が背広姿のオッサン達で占拠され、実に異様な(ホンマに異様)光景。幼稚園のある路地を通り、商店や住宅街を抜けて10分ほど歩くとブックシティだが、すでに先着のオッサン達によって行列が出来、建物の中に入るのに10分、入ってから受付でネームプレートをもらうまでに5分、そして5分後に三好社長以下大阪屋大幹部がズラッと並んで歓迎してくれるメイン会場にやっとのことでたどり着く。

行きにくい場所だし会場に入るのにも一苦労する新年会なのだが、なぜかこの会に来るのは愉しい、というよりほっとする。  

それは大阪屋の皆さんや、一緒に出席している同業者のフレンドリーな対応がそうさせるというのもあるが、それ以上に「世の中に、何かオモロいことを伝えたい」と思ったら出版物を出せるのだと、あらためて教えてくれるからである。

大阪屋の三好社長からは「もっと活躍してこっちも儲けさしたってや」 、新社長になられる南雲常務からは「大変な時代だけどぜひとも頑張ってください」、そして田村書店の徳山氏からは「そろそろ自分の腹切って本出さなアカンで」と励まされた。言われているうちが華である。

エルマガ時代からお世話になっている小学館の早川さん、寺西さん、マガジンハウスの久我さん、光文社の藤石君、そしてなんばミヤタの宮田社長の顔を見ていると、「あいつら、何ちゅう本出しよるんや」とびっくりされるような本をそろそろお目見えさせないと、これまで応援してくれた人たちに申し訳ない。

変わり目の時期だが、まず自分が変わりたいと思った7度目のおでんの会だった。ちなみに、ここではおでん、ほとんど食べ放題です。

鹿さんはウソつかない(たぶん)。

松島天橋立と共に「日本三景」を成す宮島だが、どういう訳かそこだけ行かぬままに月日が経っていた。新幹線を使えば大阪から最も行きやすい場所であるはずなのに…。

「そりゃあんまりやろ」と怠慢な編集者に神様がチャンスを与えてくれ、『The ROYAL』の仕事で新年早々、ようやくその土を踏むことが出来ました。

結論から先に言うと、むちゃくちゃよかったです。天気がよかったというせいもあっただろうけど、それだけではない。

いきなり砂浜を駆ける鹿を見て、とてもいい空気が流れていると直感したが、大鳥居近くまで歩くと、それは確信に変わった。

世界遺産の神社仏閣というと神々しい「演出」が多く、「こっから入っちゃいけません」のオンパレードなのだが、引き潮の時は人も鹿も一緒になって、境内のいちばん重要な場所をぶらぶら歩き回れる。規制する看板は「鳥居の内側では貝を採ってはいけません」ぐらいのノンビリしたもの。

「見立てた大海原」ではない「大海原そのもの」と「神社」の境目が、潮目によってどんどん変わっていくという自然の演出は、話に聞くのとその場に立つのでは全然違う。

昔の人はようこんなものを造り上げたものだ。

その空気の心地よさは、この面々の顔を見ていると分かる。まるで昼寝する猫ですがな。

今回の取材に同行いただいたライターの木村衣有子(ゆうこ)さんも、「正月2日に来た時と比べて全然のんびりしてる」とご機嫌にシャッターを押していた。

たった2時間ほどしかいられなかったのが一番の残念だが、「あとは自分の力でおいで」と宮島の神様が言ってくれたような気がしました。

この模様は2/19(木)発行の『The ROYAL』3-4月号にて。お楽しみに。

同い年が、何より自慢のあの人。

12月30日は、大阪で一番好きな場所・フェスティバルホール最後の公演日である。  

九州・博多で子供時代を過ごしていた頃、ある日テレビで「いずみたくリサイタル」という番組があった。歌謡曲でもCMソングでも大人気の作曲家・いずみたくが自らのヒット曲を次々と演奏し、門下生の歌手(由紀さおり佐良直美ピンキーとキラーズデューク・エイセス岸洋子)がそれを歌うという構成のショーだったが、いずみたくという作曲家のバラエティ豊かな作品(「見上げてごらん夜の星を」も「いい湯だな」も「チョコレイトはメ・イ・ジ」も)にひたすら驚き感心して観ていた。

感動したのは、その構成や曲の数々だけではなく、リサイタルをやっていたその空間が何ともデラックスだったからである。いつも歌番組をやっている「日比谷公会堂」のような雰囲気とは全然違う。

テロップには、「フェスティバルホールから中継録画」と出ていたので、一緒にテレビを観ていた叔母に訊いた。

「フェスティバルホールって、どこね?」 「大阪にあるとよ」

いつもテレビで観ていた吉本新喜劇(博多でも放映していたんですよ)の「なんば花月」が大阪だと思っていたので(なんじゃそれは)、それとは対極のようなデラックスなホールが大阪にあると知り、「大阪っちゅうのもいろいろあるとやね」と納得したのである。  

その後、縁あって大阪へ。中学高校大学時代はそんな華やかな場所とは無縁の生活を送っていたが、徒歩5分の場所にあるエルマガジン(当時は堂島)に入ったことで、就職2週間後に初めてフェスティバルホールの赤絨毯を踏む。「招待券あるから行っといで」と言われて行ったのは、映画『愛と青春の旅立ち』のテーマを歌うジョー・コッカーのコンサートだった。

初めて見るシャンデリアや赤絨毯、ウエイティングバーなどのしつらえは、子供の頃からの想像を上回るデラックスさだったが、そのあこがれの場所に行くのにTシャツとジーパンはないやろと、当日の自分の格好を恨んだりした。

  「自分で券買うてちゃんとしたカッコで行くで」と思わせてくれたそのフェスティバルホールも、この日がいよいよ最後。ラストは大阪フィルの「第9」である。

ラストの曲の後、観客総立ちの

  ホントはこんな写真撮ってたら絶対に係の人が止めに来るのだが、この日ばかりはおとがめなし。あちこちの客席からパシャパシャとフラッシュの雨霰でした。着飾った華やかな客ばかりでなく、普通の格好をしたオッサンオバハンがたくさん来ていることにこの交響楽団のファン層の広さが表れているが、その大フィル音楽監督である指揮者の大植英次さんが、最後の最後に粋なことを言ってくれた。

「このフェスティバルホールは、50年前の4月3日、大阪フィルの前身である関西交響楽団の演奏会で、指揮者・朝比奈隆により幕を開け…」

偉大なるホールと弊社が同じ誕生日とは、光栄のかぎりでございます。

同じ1958年生まれとしては、死ぬまで一緒に歩いて…いや100年150年と長生きして、いずれは現役の重要文化財になってほしかったが、この日が最後とは残念至極。

チキンラーメン東京タワーも、スーパーカブマドンナも、同い年というのが何となくうれしかったが、やっぱり私にとって一番の自慢はこのフェスティバルホールだった。

わずか2年足らずだったが、同じ中之島の空気が吸えて幸せでありました。

みなさまどうぞよいお年を。

 

どっかで見た絵だと思ったら…

京都・岡崎に[タチバナ商会]という照明器具のお店があるが、その紙袋がコレ。

もともとは三条木屋町にお店があったのだが、この夏に平安神宮近くに移転。 大正・昭和初期の照明を専門に商っている創業82年の古照明のお店である。 とにかく、紙袋だけでどんなものを扱っているお店か、が誰にもイメージできる。

そうです、絵は『キョースマ!』でおなじみハンジリョオさん。

このような「昭和レトロ」を描かせたら向かうところ敵ナシの彼女(女性でっせ)は、本日発売の『キョースマ!』冬号でもその才能をいかんなく発揮している。

今回は内藤恭子の「町家セルフ改修始末記」だけやおまへん。おせち料理を作ってくれた「中京のアッコちゃん」が新たなる標的(笑)です。4コマもあります。

まずは書店でぜひ。本日発売でっせ。

改札口のご縁。

「あのぉ~、写真の件でちょっとお尋ねしたいんですが」

来客中に、セーター姿でちょっと年配の紳士が突然来られ、ごそごそとリュックサックの中から出してきたのは『ななじゅうまる』第3号。しかも私が取材した「私鉄沿線」の34ページを開いてはるではないか!?

「写真にマズいことあったんかいな」

と心配していたら、その方は水彩画を趣味にしている人で、今度の展覧会に出す絵の題材を考えていた時に『ななじゅうまる』第3号の「私鉄沿線」のページが目に留まったという。中でも南海帝塚山駅改札口の感じがすごくよかったので写真を撮りに行ったが、誌面のような感じには出ない(そりゃ、カメラマンの本野君が苦労してますもん)。それでこの誌面を参考に絵を描いて出品してもいいだろうか、と了解を得るためにわざわざ弊社までお越しになったという訳である。

お住まいは岸和田、中之島までは1時間以上かかるだろうに…ご苦労さまです。

ウチは版元として全然オッケーなので、すぐに本野君に電話をした。

「あ、それはうれしい話ですね。絵が出来たら観たいなぁ」

その方によると絵は4月頃の出品で、「入選が決まったらお知らせします」と言っておられたので、けっこう自信がおありのよう。どんな絵になるかむちゃくちゃ楽しみだ。

昨日、青江三奈の唄のことを書いたが、この写真を本野君と一緒に帝塚山駅で撮ったのは、野口五郎の「私鉄沿線」という唄がきっかけだった。

60年代から70年代にかけて誕生した喫茶店の中で、いまだに「熱いコーヒー」を飲ませてくれる店の一つとして、帝塚山の[白い家]を取材したのだが、その帰りに撮った写真である。

まだ暑い8月30日のこと。その2日前には「私鉄沿線」の作詞家の山上路夫さんにお話を聞いていた。

山上さんもその画家の方も、この取材がなかったら(というよりあの唄がなかったら)お会いすることはなかっただろう。改札口のご縁はおもしろい。

愛の渚は青江三奈で夜が更ける(え!?)

愛の渚は水原弘やろ!?」

あの唄を十八番にしているバッキー井上から突っ込みが入りそうだが、渚は渚でも最新号の『月刊島民』(7ページでおます)に出た土佐堀通沿いの居酒屋[釣茶屋 渚]のこと。

久しぶりにお会いする『ななじゅうまる』『キョースマ!』ファンで村田英雄の「王将」が大好きなジェントルマンT氏と、最初は東横堀川沿いのシブい店[ダイニングアップリケ](名前と店のシブさが合うてまへん)に行こうと思っていたのだが、3日はお休み。

「今号の島民に出ている[渚]はむっちゃええ店らしいですよ」

と大迫から聞き、さっそく予約の電話を入れる。18:30ですでに超満員。あっちでクエ鍋、こっちでお造りの盛り合わせ、そっちで焼魚や煮付けが飛び交ってみな旨そうに呑み、食うている。マグロや蛸のお造りに熱燗で、T氏との話も盛り上がっていたら…


「これこれこれな、今回ワシが載ってんねん」

店主の三好道夫さんがテーブルの常連さんたちに『月刊島民』を配り、勝手に広報宣伝担当をやってくれている。

「取材なんかイヤや言うてたんやけど、取材に来たヤツ(若狭健作&松本創)がええ子でなぁ。でもこれ以上忙しなるのはかなわんのや、言うてたら、ホンマにその通り書きおって(笑)」 えらいゴキゲンさんなので甘えて、ついこちらも自己紹介。

そこからは73歳のナイスガイ三好氏を交え、67歳のT氏と50歳のハナタレの私、そして途中から「平成生まれ」と活魚の店のせいか年齢に思い切りサバを読んでもらった溝口が加わり、「池袋の夜」「国際線待合室」(伊丹空港を歌った名曲)などの青江三奈のヒット曲でへろへろになる中、土佐堀川の夜が更けていった。

一夜明け、昼メシついでに在庫切れしてしまった『月刊島民』を持参して[渚]に行ったら、「昨日の続きや」と笑いながら三好氏がかけてくれたのがまた青江三奈。

快晴の土佐堀川を観ながら「長崎ブルース」を聴きつついただく、めちゃデカい塩サバ定食は、サバ読みなしで愛がありました。一緒に出たシジミ汁(「だんだん」観てますか?)も旨かったっす。

大将おおきに。こんどはクエ鍋いただきにまいります。

日伯老若男女、西陣散歩になごむ。

10月25日(土)は京都市景観・まちづくりセンター主催、淡交社キョースマ共催の不動産イベント「京都で町家なワケ」が晴天の元西陣小学校をメイン会場に開かれた。

イベントの内容は溝口が書いてくれることになっているから そちらに譲るが(はよせい溝口)、前半の「西陣歩き」は大変面白かった。

 100人ほどの参加者が10種類のコースから好きなものを選んで、案内人の引率で2時間ほどゆっくり歩くというものだが、私が参加した「エステイト信」(町家専門の不動産会社)の井上信さんが案内するコースは、様々なバリエーションの町家が見られたり黒川紀章が建築家デビューした最初の作品を拝めたり西陣の町の歴史を知ることができたりと盛りだくさんであった。

その上、班の10人は上は75歳から下は2~3歳というバラエティ豊かな年齢構成、しかもブラジル北東部のベレンから来た建築家親子もいたりして、彼らがまたフレンドリーで日本語が上手いため、それで何となく和気藹々な集団になった。

ベレンはアマゾンの河口の街だが、河口の幅は350キロ(メートルやのうて) あるらしい。博多から釜山までよりも長いですやん!?

 河口近くには島があり、それは九州より大きいんだと。 そんなスケールの土地で暮らしていた人が、「西陣はだいたい、北は北大路ぐらい、南は中立売ぐらいの範囲かな」といった極小エリアの路地を歩いては楽しそうに写真を撮っていた。

彼らにとって「2008.10.25西陣の記憶」は、その後の人生にどんな影響を与えるのだろうか? できれば何年か後に取材したいものである。

この班で一番お世話になったのは、生まれも育ちも西陣で、西陣織関係の要職を務められた後リタイア生活を楽しんでおられる高橋氏。この人の笑顔と、いけずと自虐が入り混じったユーモアたっぷりの地元ガイドのおかげで、珠玉の2時間が過ごせた。

「平成天皇と同い年ですね」と言ったら、「草笛光子もな、黒柳徹子もそうやねん」

あんな75歳になれたらええなと心から思いました。

畏るべし。元西陣小学校!

10月25日(土)に開催される『キョースマ!』秋号の不動産スペシャルイベント「京都で町家なワケ」の打ち合わせに、元西陣小学校に行ってきました。

この西陣小学校は明治2年(1869)、上京第五番組小学校として創立され、平成9年(1997)に西陣中央小学校へと統合されるまで約130年もの間、京都の街で生きる人間を育ててきた超名門小学校である。どうですこの貫禄…。

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茨木で強大な援軍に出会う。

茨木市で開かれた「茨木シニアカレッジ~いこいこ未来塾」の講師として28日(日)お招きいただき、「シニア世代の流行通信」というテーマでお話しさせていただいた。

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作詞家・山上路夫さんと出会う。

幼稚園の頃は「忍者部隊月光」を口ずさみながら、 新聞紙でつくった兜をかぶり駄菓子屋で50円ぐらいで売っている刀を腰に差して、稲を刈って藁を積んだ田んぼで遊んでいた。

小学校では遠足のバスの中で、佐良直美の「世界は二人のために」や布施明の「愛の園」を歌うマセたガキで、高学年になると、由紀さおりの「夜明けのスキャット」「生きがい」などを歌う始末。

 中学に入ると、天地真理の「ふたりの日曜日」やガロの「学生街の喫茶店」のお世話になり、高校の臨海合宿では、山本コウタローの「岬めぐり」にハマり、大学受験時は彼女のいない味気なさを野口五郎の「きらめき」を聴きながら「あぁこんな日が来えへんかなぁ」と嘆く日々。

かといって大学に入っても、岩崎宏美の「春おぼろ」 を聴いてただせつなくなる毎日…。

 

ひとりの作詞家に、これだけ人生ヤラレていたとは、知りませんでした。 

 

四国へ出張すれば、いろんな駅のプラットフォームで「瀬戸の花嫁」がかかるし、サッカー日本代表の試合を観れば、「翼をください」をみな歌ってる。

月曜夜8時ともなれば、テレビをつけてる日本国民の半数近くが♪じ~んせい楽ありゃ…を聞いている。

ヤラレているのは、決して私だけではなかった。 

 

その張本人である作詞家・山上路夫さんに『ななじゅうまる』の取材でお話を聞く。

70年代半ばに流行った、ある唄についての話だった(この思わせぶりな物言いも最近ワンパターンだが)。

 

10月半ばに本が出る頃、「この話やったんかいな!?」 と、

読者の皆さまの共感をいただきたいものである。 

 

桂小米朝という力。

今秋、桂米團治を襲名する桂小米朝師匠の写真撮影とインタビューに同席する。

これまで、高座をラジオやCDで聴いたりとか、司会をされていたクラシックコンサートを観に行ったとか、 市川崑監督の映画『細雪』の奥畑役(アカンたれ役が上手かった)でお目にかかったとか…はあったが、生の師匠にお会いするのは初めてで少し緊張した。

先方も当初はちょっと緊張気味だった。

が、写真撮影が終わってインタビューの段になると、 生まれた大阪ミナミの街のこと、小学校の写生で中之島中央公会堂へ来ていたこと、 松竹新喜劇を観に芝居小屋に通っていた高校時代のこと、 噺家として駆け出しのころ結婚式の司会などをよくやっていたことなどなどを、 それこそ次から次へと得意ネタを繰り出してくれるように話していただき、 しかもその声が、ホテルの小宴会場の端で聴いていてもよく通ること。

聞き手の青山ゆみこは「時間通りにちゃんとまとめて終わらさんとアカン」と、大変プレッシャーがかかっていたようだが、わたしは部屋の端で、アイスコーヒー片手に愉しませてもらった。

しかも「食生活」の話題になると、食事をしたり酒を飲んだりするシーンを、実際の噺を目の前でやっているように演じてもくれ(右手だけで1合升に入ったうまそうな日本酒を表現するのはやはりスゴい)、大サービスしていただいた。

基本的に人間の生身をお客さんの前にさらけ出し、「噺だけで人を歓ばせる」 ことを30年まじめにやってきた人の話はやはり力がある。それをあの「華と才能」がしっかり支えている。

人間国宝であるお父上(桂米朝)は、今年で83歳。

しかしまもなく50代になる彼を見ていると、90歳になっても現役を続けているのではなかろうかと思えるほど、節制や自己研鑽への意欲をものすごく感じる。

 これから少なくとも1年間、お付き合いをよろしくお願いします。

え!? 何のお付き合いかって?

それは8月20日ごろまでのお楽しみということで(またかいな) 。

 

ちゃぶ台と特別ゲスト?七夕のお江戸。

今や飛ぶ鳥を落とすほど勢い余りある出版社「ミシマ社」。

以前は同じ自由が丘の、カッコいいけどちょい手狭なワンルームマンションにオフィスを構えていたが、「一軒家に移転したんですよ。一度遊びに来てください」との連絡をいただき、お言葉に甘えて途中下車する。

住宅街の中の、築50年近い一軒家。「まるで黒澤明の世界やんか!?」と度肝を抜かれる。

そしてこんにちは?と玄関を開けると、ミシマ社おなじみのフレンドリーな面々が出迎えてくれ、ちゃぶ台を囲んでみんなでお弁当なんぞいただく。なごみすぎるぞ。

「東京の出版社ってな、みんな不機嫌そうな顔で仕事してんねん、ホンマやで」などと偉そうにうそぶいていた私が世間知らずでした。

ミシマ社は最近、ヒットを連発しているので実力のほどは言うまでもないが、さらにこの10日(木)から13日(日)まで、お台場の東京ビッグサイトで開かれる「第15回東京国際ブックフェア」に単独ブースで出展するとのこと。

どんなブースかは行ってのお楽しみ。たんに「勢いのある出版社」だけではないことが一目瞭然ですぞ(ヒントは三島氏が持っているブースの模型)。

私の愛読マンガ『誰も寝てはならぬ』(週刊モーニングに連載)は東京・赤坂の一軒家を借りているデザイン事務所「寺」に集まるヒトビトを描いたサラ イネスの傑作だが(しかも主要人物はたいがい大阪弁で会話する)、ミシマ社のユルさと明るさはまさにこの世界そのもの。

三島邦弘氏を囲むミシマ社の面々

 …と思っていたら、「内田樹先生もそんなことおっしゃってました」とのこと。さすが第一級の現代思想家にしてミシマ社最大のヒット作(街場の中国論)の著者だけあり、あのマンガとミシマ社をセットにして見ておられた訳ですな。

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株主総会という精神安定剤。

140Bという会社をつくって二度目の株主総会の日がめぐってきた。

江、石原、私を含む11人の株主のうち9人と監査役の金井文宏氏が出席し、 欠席の川端幹人氏、大倉カイリ氏からも委任状をいただく。

平川克美さんは東京からわざわざ来阪、内田樹先生も超多忙なスケジュールの 合間をぬってお越しいただいた。

間宮吉彦氏は今回初めての出席、 藤井博氏、堤成光氏、堀埜浩二氏は昨年に引き続きご出席いただく。

開会前に、私の方から株主の皆様を紹介させていただいたが、 「お前が一番緊張してどないすんねん」と自分で突っ込んでしまうほどの 見事なあがりようで、われながら感心してしまう。

幸いなことに、業績にイチャモンをおつけになる総会屋の方々も、 「緊急動議! 代表取締役の解任を発議します」というご意見もなく、 4つの議案はすべて可決され、一件落着。

設立1年目も大きな山がいくつかあったが、 2年目は編集プロダクションから一歩、出版社への道を踏み出したということで なかなか波瀾万丈の1年だった。

しかし今日、株主の方々とこの1年を振り返っての話をしていると、 そんなこんながみな、過ぎ去った夢物語のように感じられてしまうのが何ともおもしろい。

経済紙では、昨今の株主総会のハードさをこれでもかと紹介しているが、 今のところ私にとって株主総会は、「会社の実体がなかった頃から会社を応援してくれた人」たちに 感謝の意を表しつつ、会社の原点を見直す時間であり場所である。

そういう時間なり場所なりを共有したいがために、業績や見通しなどの報告を あれこれしたためて、あの場所に臨んでいるだけなのだが、 そんな報告を聞いて我が事のように喜んでくださる人々の存在は ただただ有り難い、の一言。

その人たちに、ちょっとした贈り物が毎年できればこの上もなく幸せな話である。

さてその総会が終了し、懇親会も終わりに近づいた午後9時より、 ダイビル1Fのダイスタにて、ものすごい「緊急座談会」が開かれた。仕掛人は平川克美さん。ダテに江戸から来られた訳ではなかった。

この模様はたぶん、写真入りで大迫がレポートしてくれるはず。お楽しみに。

お久しぶりです、道上洋三さん。

といっても私が大昔から彼の放送を聴いていたというだけのことだが、朝日放送が誇る大看板アナウンサーと、朝の8:30頃から10分ほど、公共の電波を使ってお話しさせていただいた。

昨日朝日放送の人から電話があり、『ななじゅうまる』が話題になっているとのことで「『おはようパーソナリティ道上洋三です』に急ですが明日の朝、電話出演をお願いできませんか?」とのお話。

急だろうが何だろうが、『ななじゅうまる』の宣伝になるのならしめしめ、である。しかもラジオの世界では超人気番組やおまへんか。

いつもより少しだけ早起きして自宅にて出番を待つ。8:30前にABCの人から電話がかかり、「電話口からラジオの音が聞こえてきますか? ではもうすぐ本番なのでそのままお待ちください」。

自宅のラジオと電話口の両方からオンエアの音が聞こえているというのは、なかなか不思議な体験だったが、道上アナから電話で「中島さん、おはようございます」と言われてから先は、あんまり何を話したかは覚えていない。

けれど別段、緊張するというわけでもなく、ひたすら手練れのアナウンサーの掌の上で、楽しくおしゃべりさせていただいた、という次第。

ただ道上さんから「私はもう66です。私らの世代はリタイアしてからどんな風に時間を使っていけばいいですか?」と聞かれて緊張したが、「地元を知るってものすごく面白いと思います。まずは歩いてみることから始めたらいいんじゃないですか」と、おこがましいが大先輩に申し上げた。

あいそなしのご挨拶で電話を切ってしまい、失礼しました。そこだけもう一度やり直せるなら、「35年前から道上さんのヤンリク聴いてました。あのおかげで高校に受かりまして」とお礼が言いたかったんですわ。

追伸 番組のホームページを見ると、「洋三 今朝の一句」というのがデカデカと載っていた。

地味がいい  ななじゅうまるは  二重丸

御大にお褒めいただき、光栄の至り。これからも精進します。

おわび。電話番号が間違っていました。

『ななじゅうまる』第2号44ページに掲載している歌声喫茶、

[アート喫茶オリーブ]の電話番号が間違っていました。

 

正しくは、078-861-7012です。

関係者の皆様に大変なご迷惑をおかけしました。

心よりお詫び申し上げます。

 

すでに『ななじゅうまる』第2号をお持ちの皆様、

44ページを直していただければ幸いです。

 

よろしくお願いいたします。

「あなたも読者だったのですか!?」

今回の『ななじゅうまる』で、特集巻頭の芦屋ページにご登場いただいた、 ホテル竹園の梅田多美子さんからサプライズ満載のメールが届いた。 曰く、彼女が長年懇意にされている方から、携帯に電話があったとのこと。 梅田さんのブログからそのまま再現すると…… 

「たみこさあ~ん、ご本見ましたよ、たみこさんでてたねえ~、ええ~、どうしたの?取材うけたあ?寒い日に~?いいじゃあなあい、あれえ~」 とってもご満悦で良いご本だと誉めて頂きました。 私が出ていたことではなく「ななじゅうまる」という本を誉めてもらったのが嬉しかった。
  加えて
「表紙がいいねえ」
  そして
「あれは芦屋だけで売ってんの?うん?関西・・・そうだろうね、関西方面のことばかりだね」 「芦屋のお散歩は気持ちがいいねえ、うん?なんだか”ミーナの行進”とか書いてあったよ、そういう本があるの?そうか、良い取材を受けたねえ」 芦屋のことが書いてあるミーナの行進にも興味をもたれて・・・たまらなく嬉しいことでした。 芦屋滞在時、毎朝お散歩をしておられたので”芦屋散歩”というのが懐かしかったのでしょう。

と書かれていた。

その昔、九州博多に育った私は熱狂的な西鉄ライオンズファンだったし、 関西に移ってからは、江夏ー田淵のバッテリーが巨人を倒すのが楽しみだった。 一方で、『巨人の星』やら『侍ジャイアンツ』やらを愛読していたのだから変な話だが、 やっぱり巨人を象徴する二人のスターに敬意を払っていたのだと思う。

背番号3の背中がしなり、弾丸ライナーが飛び出すと同時に 打った後のバットがきりきりと回転しながら宙を舞う。 そんなバットの「舞い方」までが絵になる人だった。 ゴロを捕球して一塁に投げた後、掌を広げて指先をひらひらと泳がせるしぐさは 入団早々に歌舞伎の舞を見た際にひらめき、取り入れたものだという。 独特の「絵心」はテレビの前にいる私たちを釘付けにした。

栄光の選手生活を終え、監督業にもピリオドを打ち、長いリハビリに取り組んで 驚異的な回復を見せている彼も、今年で72歳になられた。

偶然の積み重ね、人のご縁というのは本当におもしろい。

まさかその人が私たちがつくった雑誌を読んで、 なつかしい芦屋のことを思い出し、喜んでくれたとは…。 梅田多美子さんありがとうございました。

あのぉ、ダメもとでお聞きしますが…。 どうですかミスター、よろしかったら『ななじゅうまる』の巻頭インタビューで 芦屋にお越しになりませんか?

聞き手は芦屋出身の柴口育子さん、カメラは「あの写真いいよ、よく撮れてる」と お褒めいただいた西岡潔さん、そして新大阪駅か伊丹空港までは、きっとバッキー井上氏が 錦市場のお店を休んで送り迎えさせていただくと思います。

どうぞご検討くださいませ。

こんな湿気の多い雨の日に…

73人もの人が『ななじゅうまる02号』を南海難波駅2F中央改札前[カルチャーコーナー]でお買い上げいただき、ホンマにありがとうございました。

 

今日は発行元であるフィードの内田社長(内田樹先生のお兄様)と草間さんが早起きして横浜からお越しいただき、芦屋の書店3軒を挨拶回りしてから大阪へ。

なんばでは池波正太郎先生推奨のかやくごはん[大黒]と、70代女子野球チームの連絡先でもある[アラビヤ珈琲店]をハシゴし(髙坂峰子さん、お買い上げありがとうございます)、いよいよ難波駅決戦となった次第である。

出足はホンマにスロースタート。最初の1時間は5冊ぐらいであったが、だんだんエンジンがかかり、『ななじゅうまる』世代の人達がおサイフを開けてくれる。来ましたよ!

売り文句もいろいろ変えてみた。散歩の特集であることを強調したが、この天気と湿度では全然共感できない。それで、「高額商品ばっかり買わそうとするシニア雑誌とはぜんぜん違う、お金を使わなくても地元を楽しめる雑誌」とか、「街に出たいけど薄っぺらな若者向け情報誌はイヤだというあなたに」 とかである。

『ななじゅうまる』のキャンペーンを現場でしていて一番難しいなと思ったのは、70代の人が通っているときはその世代の雑誌であることをアピールすればいいのだが、それ以外の世代の人達ばかりがいるとき、どう言えばいいか?

それで先のフレーズなどを繰り出していったのである。

私の見立てでは、『ななじゅうまる』世代とその下(30代ぐらいまで)で、ちょうど半々ぐらいか。70代ではないが、誌面を見て「面白い」と思った人が買ってくれたというのは、ありがたい話である。

この日の教訓をどう生かすか?

いや、でもその前に、この号を買ってくれたお客様を満足させることができているかどうか……考えることばかりが増える土曜日の夜であった(早よ帰れよ)。

なんば決戦、あなたの足は止められるか!?

明日5月24日(土)は、会社創立2年2ヵ月にして初の「自社本キャンペーン」で、出来たての『ななじゅうまる02号』を売る。

場所は南海難波駅2F改札口前、雑誌をむちゃくちゃ売っている[カルチャーコーナー]である。

この場所ほど、「良くも悪くも最初の1時間で商品の運命が分かる」ところはない。お客さんの反応がビビッドで、ここで売れたらヒットするし、売れなかったら他で売れるなんてことはなかった。

以前いた京阪神エルマガジン社では、特に「日帰り名人」や「ミーツ別冊」「まるごと南海沿線」シリーズのキャンペーンをこの[カルチャーコーナー]でさせていただいたが、売れたら書店のミヤタ社長と共に[鳴門寿司]で祝杯を挙げ、売れなかったらどこかチープな居酒屋で「失敗やな、今回は」とお説教をいただくという繰り返しの4年間だった。

自前本の怖さは「もう、誰のせいにもできない」ということである(当たり前やね)。

別の版元で1冊つくった本なら「価格がもうちょっと安かったら」とか「もっと宣伝してほしいよなぁ」とか、言い訳のストックフレーズをてんこ盛りにできるのだが、自分ところの本だと逃げ道は一切ない。

その「逃げ道のなさ」込みで楽しめればいいのだが、20時間後もそんな呑気なことを言っていられるかどうか…。

とりあえず、140Bスタッフの「自前本キャンペーンデビュー」、もしご覧になりたい方は、13時~18時の間、南海難波駅2F中央改札口までお越しください。

おみやげも用意して待ってます。

そうそう、本が売れるときは、売っている私達自身が「今まで言ったこともなかった商品の魅力をお客さんを前にすると語れる」時である。

それがスイスイスラスラ泉のごとく出れば大丈夫。

でも出なかったら、あきませんね。

あなたが前を通ったとき、スタッフが何を売り文句にするか、どうぞ聞いてやってください。

ええこと言うてたら、お代は380円ということで。

22日(木)の18時20分ごろから

『ななじゅうまる』第2号の取材から編集、販促までの経過を追う、というテーマで、 明日22日(木)午後6時台の「スーパーニュースアンカー」(関西テレビ)でオンエアされます。

灘の酒蔵めぐりの取材風景、書店への営業、そしてロクに片付けもしていない(あかんやん)140Bでのミーティングやなんやら…が特集として流れるようです(持つんでしょうか)。

とりあえずは、政変や大事故、大事件が起こらないことを祈るとしましょう。

肝心の『ななじゅうまる』第2号ですか?

おかげさまで、今日上がってまいりました。

早いところでは明日の午後、遅くとも土曜日には書店やスーパーに並びます。

そして24日(土)の13~18時の間、南海難波駅2F改札口前のガラス張り書店[カルチャーコーナー]にて発売記念キャンペーンを行います。

もちろん超強力なおみやげ付き。 140Bも全員出動でお客さんの前に出ます。

どうぞご期待あれ。あーしかし緊張するなー。

今度はひばりにやられた嵐山の午後

以前から気になっていた嵐山の[美空ひばり座]に出向いた。

自分の唄を待ち望んでいる人の前で歌うことで、ボーカリストはこんなにもいい顔になれるし、最高の声が出せる…という見本のような音と映像の洪水に、完全に圧倒されて帰ってきた。

美空ひばりについて改めてここで紹介することはないが、今やどんな歌手でもやっている「唄と芝居のショー」(梅コマとか新歌舞伎座とかのアレ)というスタイルをつくったのは彼女だと知ってちょっとびっくり。その公演数も半端ではない。

新宿や梅田コマ、歌舞伎座、御園座、明治座、帝劇、東京宝塚劇場などの代表的な舞台の公演だけで4,538ステージ。一日も休まず舞台に立ったとして、12年では済まない。

レコーディングをしたり映画やテレビに出たり、雑誌の表紙撮影やインタビューを受けたりファンの集いに顔を出したりを合間に入れながら、の話である。素朴な疑問として、いつ休んでいたのだろうか?

しかも公演は、これらメジャーな舞台だけじゃない。

館内では、昭和32年(1957)に堺市の特設野外ステージで行われたコンサートの模様を紹介していた。初めて見る映像だったが、客の数が半端ではない。1万人以上いたのではないか?  何よりも、彼らのひばりを観る幸福そうな顔。その1万人の顔に対し、気力が漲った声で「港町十三番地」を歌い上げる彼女の堂々たるパフォーマンス。

ラジカセもウォークマンも、iPodもない時代の、歌手と聴衆の幸せな関係が映っていた。あの中で美空ひばりを聴いた人は、なんて幸せなんだろう、と嫉妬してしまう。

歌が上手いとかリズム感が抜群だとか耳がいいとか声量があるとかで人は歌手になるのではなく、観客を前にして「私には唄であなたを幸せにすることしかできない」と覚悟を決めることで初めて人は歌手になれる、というメッセージを繰り返し繰り返し伝えてくれている。70年のブラジル公演や74年の広島平和音楽祭の映像も必見(もちろん88年の東京ドーム不死鳥コンサートも観られます)。

翻って、人様が喜んで買ってくれるような本や雑誌をつくろうとしている私は、あんな顔と覚悟で仕事に臨んでいるのだろうかと、あと2年で彼女が死んだ歳に追いついてしまう今、極端な比較だとは思いながらふと考えてしまった。

スピーカーからは、今日買った美空ひばりの「Fascination」が流れている。

「京都駅まであと1時間半ほどかかりますので」

冒頭の台詞は、花脊や大原あたりで聞いたのではなく、京都駅まで5キロも離れていない東山三条で出た、市バス緊急整理員のお言葉である。

 

『キョースマ!』夏号「寺特集」を前に、ちょっと身体をお寺モードにしょうかいな…と、一番好きな洛北蓮華寺(天台宗)に午後から出向き、シネラマのようなたまらん庭(池泉鑑賞式庭園だそうで)を前にぼーっとたたずむこと1時間。

  連休中といえどやはり街中から遠いのとお寺がそんなにデカくないのとで、他の客が邪魔になるということもなく、久々にのんびりさせてもらった。

  特にここは、お抹茶を庭園裏手のせせらぎ(高野川の支流だそうで)を眺めながらいただける。新緑の時期にはそれも嬉しい。ほぉーっとして元気になったので、「他の寺も行ってみるか」と三宅八幡駅まで歩いて叡電で一乗寺へ。

  「もう3時過ぎとるから結構空いてるやろ」

  ゴールデンウィークの京都の寺をなめた私がアホだった。

  詩仙堂(曹洞宗永平寺派)の庭を望む詩仙の間は、まるで7月最終日曜日の公営プールのようだった。 オジオバから若年まで、カップルも団体も多いが、ファミリー拝観がけっこういる。

  「ショータ! 何してんの!? もう帰るで!!」「そんなとこ走ったらアカン!」

   寺で「おとなしくせい」と子供に怒ってもしゃあないねんけどなぁ…。かと言って、全然注意せえへん親も困りもんやけど…(なったこともないくせに、エラそうに言う)。

  その後せっかくやから…と狸谷山不動院まで20分の道程を、大汗をかいて登る。 いつの間にかこんなに高度を稼いだんやと、水をグビグビしつつ本殿から観る左京区の眺めはなかなかのものだったが、そこに「この場所は『恋するハニカミ!』のロケで使われました」とわざわざ貼り紙がしてあった。広報の方、ご苦労様です。

  あっという間に膝もガクガクに。ところがラッキーなことに京都駅行きのバスはまだ座れたので(そのあと即、満員に)、そのまま乗って河原町三条あたりで降りて本屋に寄ってメシを食って、それからJRで帰って…と思ったら、ここで突然別の職員が前から乗り、例のアナウンスを叫ぶように伝え、車内は一時騒然とするも…。

  「振り替え(地下鉄)はタダなんや」「それやったらええやん」

と、混乱もなく東山三条から地下鉄に向かう乗客の皆様。

  この時、「京都でメシ食ってたら、いつ帰れるか分からんわ」と方針転換し、三条京阪から特急に乗って天満橋へまで行き、天神橋1丁目の[甚六]で焼きそば&お好み焼きの夜を過ごす。

  マップの鬼・齋藤直己が大好きな百万遍近くのモダン焼き[ふじ](『キョースマ!』春号P72)には、また次の機会に。

  それにしても…GWとはいえ、お寺の客層の広さはスゴかった。 これはどう特集に影響するでしょう?

  見てのお楽しみですよ、ホンマに。

大阪でもパリでもテレビ出演(え!?)

実は明日29日(祝)、関西テレビの「スーパーニュースアンカー」の特集で、18:20ごろから、70代女子野球チーム「大阪シルバーシスターズ」 が取り上げられます。

このチームは、50年以上前に日本に存在していた「女子プロ野球」の元選手たちが、半世紀を経て「もう一度やってみよか」と集まって出来たもので(普通、50年たったら野球なんてできまへんで)、呼びかけ人は難波[アラビヤ珈琲店]髙坂明郎マスターのお母様、髙坂峰子さん(75)。

今年の3月以降、毎週金曜日に住之江公園の運動場で練習をしておられるのですが、その練習のハードなこと投球の速いこと打球の強いこと。平均年齢73歳にはぜーんぜん見えません。

もし140Bに野球チームがあったら(みんなヘタレだし趣味がバラバラなんで絶対ありえへんけど)、たぶん100-0でボロ負けは確実だと思いますが、それはおいといて、番組の中で「大阪シルバーシスターズを取材に来た雑誌『ななじゅうまる』の編集者」として中島が映っているらしい。

「お兄ちゃんボール取ってや~!」

「へ~い」とコロコロ転がってきたボールを返球した際の、軟弱フォームと超遅い球が映ってないことを祈るばかりである。

そしてもう一つ。

江弘毅はいま、アラン・デュカスの新しいレストランが大阪にオープンするに当たり、都市文化研究所のスタッフとしていろいろと先方と詳細をつめているところなのですが…。

その「アラン・デュカスが出店をする関西という土地」 について、フランスのテレビ局が報道特集番組を組むらしく、何と「大阪のストリートフード」を江が紹介するそうです。

番組名は分からないのですが、パリでは「安藤優子のようなキャスターがやっている人気番組」 だそうで、当日も「べっぴんのレポーターが江と一緒に大阪を回る」というではありませんか!?

「そない辛気くさい顔して食てたらおいしないで。コテ使てちゃちゃーといかんと」 という江のセリフがどのようなフランス語の字幕となって出るか、見ものであります。

誰かパリ在住の方、オンエアが決まったら録画しといたってください。  

歌にやられた御影の夜。

「実は、あい御影さんという81歳のラテン歌手の方に出会い、4月26日(土)、御影公会堂でのコンサートをプロデュースしております」 

私がエルマガジン社で編集をしていた頃(~2000年)、特にお世話になったグラフィックデザイナーの 成瀬茂美さんから2週間ほど前、久しぶりにお手紙をいただいた。

その、あい御影さんは、何と55年もラテン音楽の歌手をやっているらしい。しかも、「東京キューバンボーイズ」や「有馬徹とノーチェ・クバーナ」という日本を代表するラテンバンドでボーカルを務められていた筋金入りの歌い手だ。

さらには名曲「恍惚のブルース」「愛のさざなみ」「夜霧よ今夜も有難う」で、大リスペクトする作曲者・浜口庫之助の薦めで上京したというではないか!

「これは“縁”っちゅうやつやな」

この時ばかりは「第4土曜日はアメリカ出版研究会で東京」の禁を破って、夕暮れの神戸・御影公会堂へと足を運んだのである。

 

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ああ 今宵また しのび寄る

作詞家の川内康範さんが亡くなった。

 

この人から教わった訳でもないのだが(畏れ多いわ!)、

私はいつしか「文章も唄も、最初の一撃がすべてやで」 と

彼がつくった唄を口ずさむ度に、自然に思うようになった。 

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やっと2歳になりました。

「株式会社の登記設立書類ですね?」

「はい、これで全部そろってるはずですわ」

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『やる気!攻略本』が出た。

 やる気!攻略本

内田樹先生の『街場の中国論』など、ツヨくかつユニークな商品を次々と送り出す版元「ミシマ社」の看板編集長兼代表の三島邦弘氏から、昨年8月に電話があった。

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ラジオたのしやむずかしや。

本日の午前中、なつかしのKBS京都にお邪魔し(というのも今から20年近く前に、このビル内にある[御所光一郎]というレストランのオープニングに行って以来だったから)、同局の看板番組「桂都丸のサークルタウン」にあろうことか「今週のゲスト」ということで出演させていただいた。

この 「桂都丸のサークルタウン」という番組は今回初めて知ったのだが(すんません)、16年続く長寿番組で、ゲストには医師会の会長とか有名なお寺の住職とかアーティストとかが出演されていたので、「ちょっと場違いなゲストやなぁ」と心配していた。

時間になってスタジオに入ると、都丸さんも進行役の柴田幸子さんも楽しそうに『キョースマ!』を読んでおられる。お二方の「これすっごくいいじゃないですか!?」 に緊張も解ける。

11:30過ぎにオンエア。当初の「予定の流れ」とはかなり違う話になったが、都丸さんがこちらの話にどんどん共感して質問を引き出してくれるので、こちらはその大船に乗って、聞かれるままに(聞かれないことも含め)、いま発売の『キョースマ!』冬号の裏話を披露させてもらった。

あっという間に15分が過ぎたが、ちょっと後悔したことが一つだけ。

「ライターやカメラマンの方が何度も現場に行って、いいお話を聞いたりベストカットを撮ったりするためにいろいろ頑張ってくれたのがうれしかった」と話したが、それは商店街のお店の人達のご協力あってこその話。それを付け加えさせて戴きます。ありがとうございました。

生の「グルーブ感」 が出るラジオはホンマに楽しいメディアだが、声は人間性が浮き彫りになる。

ともあれ、桂都丸さんの頭の回転の良さと、人の緊張を一瞬にして解く話術に敬服しました。

2月24日(日)の独演会(南座) が待ち遠しい。 

『あきない住吉地図』産經新聞に登場!

「ムーブ」放映の翌日。

23時40分大阪発の新快速はもうすっかり「おなじみさん」になった電車だが、

京都を過ぎて山科のトンネルにかかる頃、

江から急に 「中島くん、いま録画したんを見てたんやけどな」という電話が入った。

 

「なんかすっごいエエように編集してくれてるで。売れるんちゃうか!?」と江。

 

家に帰るまでの15分ほどが待ち遠しかったが、 やっとこさ着いてビデオを見てみると、

江の言うとおり、 ホンマに「エエように編集してくれてる」のでびっくりした。

 

花田御大や勝谷誠彦氏にちょっとだけ辛口コメントやいけずも言われたが

(まぁ書店さん特集の狙いとかは、全く図星でしたからねぇ)、

まるで『ななじゅうまる』と140Bのプロモーションビデオだったので、

恐縮するやら恥ずかしいやらである。

 

それで今日は、朝から読者の皆様というより書店さんから

いろいろと お電話を戴いている次第です。ありがたや。

 

が、最近ボリュームが一段と高くなってきたのは 「2号目いつやねん?」の声。

 

たぶん来年の5月以降だとは思いますが、

もう一度読者の皆様とはお会いしたいものです。

 

またまた試行錯誤の日々ですが、 どうぞこの新しい雑誌を育ててやってくださいませ。

え!? 『ななじゅうまる』15分も出ますのん?

中島でございます。

本日、弊社にABC『ムーブ』の藤田氏以下撮影クルーの方達が来られた。

それまでは、いつものように会議でノリよくああだこうだと話をしていたが、

ビデオカメラが回り始めた瞬間にうるさい面々が一瞬にして静まりかえり、

まるでどこかのお寺か収容所か警察学校かという有り様。

テレビが伝える「静かな職場」というのはアテにならんと思いましたね。

 

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12.10『ななじゅうまる』TV登場。遅咲きブレイクなるか!?

朝日放送の報道番組『ムーブ』(月~金曜/3:49PM~5:54PM)の

担当の方から電話がかかってきたのが水曜日の午前。

キョースマの打ち合わせを京都駅地下のポルタで行った後、

大阪へ向かう快速電車に乗っていたら大迫から「ななじゅうまる」

というタイトルのメールが来ていた。

なんじゃいなと思って開けると、前述の依頼があった旨の内容にびっくり。

 

11.25(日)の朝日新聞(24日の夜11時に明日の朝刊に出るとの連絡を

戴いたので、弊社宛の電話を私の携帯への転送モードにして帰ったのだが、

当日は100件近い電話を受けて往生しました。けど有り難かったっす) を

見てこちらに連絡してこられたらしい。

 

それで今日は朝から、『ななじゅうまる』の刊行を目指す私達に対して、

いろいろとアドバイスをして戴いた元商社マン・ 津村雅一さんと

元ホテルマン・金子順一さんから『ななじゅうまる』の出来映えや

今後についてのコメントをいただくために、ABC『ムーブ』の

藤田泰人ディレクター&取材クルーの人達と共に、

芦屋から京都まで行脚しておりました。

その後は大迫にバトンタッチして、古本ソムリエ・山本善行さんの

取材をされたとのこと。

 

皆様、肝心の休日なのにお時間割いていただき、ありがとうございました。 

 

この模様は、12.3(月)に書店さんの取材、そして弊社140Bの取材と併せて

12.10(月)にオンエアされます。 

もちろん、予定を完全リセットしてしまうような、天災や人災がなければ、

の話です(結構こういうのは、ある)。

 

取次の皆様、書店の皆様、読者の「ななじゅうまる置いてる?」の声に

応えるためにも、ぜひとも仕入れてやってくださいませ。

 

商品は、売るほどありまっせー(笑)。 

 

 

 

 

「朝から電話、鳴りやまず」の日。

発端は昨日の朝、産經新聞の中井記者からの電話。

「すみませーんお休みの日に。『ななじゅうまる』が今日の朝刊に載ってるんですが」 

日曜朝10時寝ぼけまなこには一瞬、何のことか分からなかったが、

そういえば先日、中井さんから140Bで取材されたのであった。

?慌てて起きて、大阪在住の道田姐さんに「産經新聞買うといて」とメール。

?その時まさに高速道路に入ろうとした彼女のクルマは、

「ちょっと引き返して!」という道田姐さんの叫びで同乗したご家族の大顰蹙を買ったらしい。えらいすんません。

その産經新聞を今朝見てびっくりする前に、先に出社した大迫と青木から

「もう、電話ばっかりかかってきて大変ですわ!」 

「ホンマかいな?」 

席に着くと電話が鳴る。「はい140Bです」 

「あのー、新聞に載ってた“ななじゅうなんとか”はここでええの?」 

「ありがとうございます。どちらからお電話されてます? あ、旭区ですか? それでしたらお近くの書店でお買い求めできますが、ない場合は書店さんからもご注文できますし」 

「あ、そう。ありがとー」 

?新聞には親切にも電話番号を載せてくれていたので、朝からこんな対応を、

私だけでも15回ほどさせていただいた。

全員の分を合計したら、100回は行ったのではないか?

そしてこれだけお電話を戴いたということは、その10倍ぐらいの方が

書店さんへと足を運んでくれたのではなかろうか(と都合のいいように解釈する) 。

足元の悪い中、わざわざお出かけいただいてありがとうございました。

『ななじゅうまる』お手に取ってみて、満足してお買い上げいただけました?

どうぞご感想などお寄せくださいませ。

「耳の痛いご意見」 も含めて、一同お待ち申しております。

?

?

?

?

?

?

『ななじゅうまる』結構モテてきました。

発売日のころは1,000冊ほどあった我が社の『ななじゅうまる』在庫が、

いつの間にやら400冊に減っておりました。ありがたいっ!

(もちろん、在庫はそれだけではないのだが…まぁそれはさておき) 

 

そして取り上げていただける新聞や雑誌も、

いつの間にやらこれだけ増えました…多謝。

皆さま、ぜひご注目くださいませ!

 

●神戸新聞……10月27日(土) くらしのページ

●京都新聞……11月4日(日) 書評のコーナー(+別な日に道田が出ます)

●サンケイリビング……11月15日(木)・16 (金)

●朝日新聞……掲載日はまだ未定です。

●読売新聞……掲載日はまだ未定です。

●アンフィニー(日本看護連盟発行の季刊誌) ……12月ごろ出るそうです。

 

そして書店の皆さま、『ななじゅうまる』のブレイクはこれからでございます。 

返さんと平台のええトコに置いといてくださいね(礼)。

『ななじゅうまる』はあなたの傍に寄り添えるか。

自社商品を自転車に積んで持っていく快感は 「版元」でないと味わえない。

発売日当日に、10冊の追加をいただいた隆祥館書店さんに感謝!

 

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出版社140Bへの道。

140Bという会社は、「編集集団」であり「書き手の集団」でもあるのだが、

もうすぐ「出版社」 というあたらしい顔も加わります。

 その機会を与えてくれるべく、私達のそばで、あるいは見えないところで支えてくれた人達に

まず、この場を借りて心からお礼を申し上げます。

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魔の数独!

もうすぐ世に出る、関西の70代向け通販カタログ付き地元密着雑誌型メディア 『ななじゅうまる』の息抜きコーナーに「数独」を掲載しようと思っています。

そこで、数々の雑誌でパズルゲームを作っておられる会社(ニコリ)に 「数独」の初級編と中級編を出題してもらい、その問題が今日出来上がってきました。

「ま、編集の息抜きにでも」「まず読者の気持ちにならんとね」とナメた態度で解き始めたのですが… これがホンマにムズカシイ(もちろん我々にとっての話でっせ)!

数独恐るべし!の金曜夜でございました。解けて帰れてよかったわ。

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キョースマ、『本の雑誌』にも登場!

本日発売の『本の雑誌』9月号連載「ぐーたら雑誌中毒」に

『京都に住まえば…』夏号のことが載ってます。

書いていただいたのは柴口育子(やすこ)さん。『週刊文春』 の

「阿川佐和子のこの人に会いたい」 の仕事を阿川さんとのコンビで

15年も続けておられる超ベテランライターの方です。 

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いよいよ「大阪」ともお別れ!?

『世界レベルの大阪ええもん』も、火曜日の出張校正を残すのみとなりました。

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てっちゃん好きの泉北高速

今日の仕事はつらかった。あとは焼酎をあおるだけ。どうせ、どうせ山谷のドヤ住まい。

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