金融資本主義が日本の大人をダメにした。

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前回の江の書簡から1ヶ月ほど経ってしまいましたが、このひと月は「テポドンが飛んでこようが、リーマン・ブラザーズが破綻しようが、町内会がしっかりしていれば大丈夫!」といっているあたしでさえ(だからか)、笑ってしまうようなうろたえぶりで、日経平均が8500円割れしたときには、思わずお伊勢参りにいってしまいましたよ。w

かといって、あたしは相場の回復をお祈りたわけではなくて、このまま英米流の金融資本主義がぶっ飛んしまいますように、とお祈りしてきたのです。どうも金融資本主義というか、アメリカ「種」のグローバリズムというのはシャクに障るわけで、町内会的には、あんなものは復活してくれない方がいいのです。

アメリカを欲望していた頃
IVY

穂積和夫絵はがき けれどあたしは、けっしてアメリカ嫌いというわけじゃありません。若い頃はアイビー小僧だったわけで、アメリカを、欲望していた時代はあったのです。それは何を着ればいいのか決まっている(と勝手に思い込んでいる)ことへの欲望でした(たぶん)。

三つボタン段返り、センターフックドベンツのネイビーブルーのブレザーに、パイプドステムのグレーフランネルのパンツ。ポタンダウンシャツにレジメンタルのネクタイ。足元はばっちしリーガルのサドルオックスフォードで、学校に通っていたりしたわけす(ベスパならぬラッタッタに乗って)。

もちろんあたしが IVYリーガーであるわけありませんし、特別ファッションに凝っていたのでもありません。ただ、ファッション的なパトリのない、象徴界に穴があいてしまった「象徴の貧困」だったのですね。

ではなぜにそうだったのか、といえば、学生服を脱いだ途端、「何を着ればいいのか誰も教えてくれなかったので、何を着たらいいのかわからなかった」からでしかありません。

つまり1958年生まれのあたしは、いってみれば、ファッション的原初抑圧不足、去勢不全世代であって、ファッション的(もちろん、それだけでじゃすまないのですが)に、「私は誰?」だったなのです。だから読みましたよの「メンズクラブ」なのです。

原初抑圧そこ(「メンクラ」)は「……でなくてはならない」の満漢全席なわけで、あたしにとっては「うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ。」(@太宰治:『女生徒』)だったのでした。

ですから、あたしは喜んで IVY に縛られたのです。考えてみれば、その頃は、ほかに縛ってくれるものはたいしたなくて、なんでもいいから縛ってほしかった。だからIVY が嘘っぱちで、イリュージョンに過ぎないものでも、ただ縛ってくれるものであることで、あたしを惹きつけたのです(たぶん)。

それは今考えてみれば、誤解に満ちたモノだったでしょうし、「ミシュラン東京」を読んでからフランス料理を食べにいくのとたいして変わりのないことかもしれません。

けれど、先日、「女性にもてるビジネスマナー講座」に(スケベ心満載で)出席してみれば、女性講師のはなすビジネス・ファッション・ルールとやらは、あたしが小僧の頃に貪るように読んだ「メンクラ」の内容を一歩も出ていないものでした。つまりそれが今でも通用するのなら、 30年以上前に手に入れた IVYのルール は、単なるファッションルールでしかありませんが、そのことで、あたしの空っぽだった象徴界を埋めてくれていたのでしょう。

ついでに書けば、その講座を喜んで聞いていたのは、30代、40代前半の方々(ほとんど経営者層です)で、あたしら世代より上の方々は、みなさんあたしと同じような感想でした。つまり俺たちはずっとそうしてきた。けれども女にもてないぞ、と。w

閑話休題。あたしが IVY に惹かれたのにはもうひとつ理由があって、IVY というファッションを通して感じるアメリカのニオイが好きだったからです。それは、金融資本主義なんてモノを発明する前の、なんだかよくわからないけれどもおおらかで、自由な雰囲気(アメリカニズム)だったように記憶しています(ほとんど勘違いなのでしょうが、それはどうでもいいのです)。

大人であること
縛る自由、縛られる自由

普遍経済学しかし、金融資本主義の親玉になってからのアメリカは、「自由」といえば、お金持ちが自由にその金を使って(投資して)金を儲けることのできる自由でしかないわけで、それはお金は「メタ欲望」だということです。

つまりお金で買えないものはないのだから、自己実現(幸福)もお金で買えることになります。それは究極の「交換の原理」に支配された世界であって、だからお金に窮した人々には自己実現の自由はないことになってしまう。つまり自由を担保すべき「自己責任」は、「なにが起きても他人(ひと)のせい」のことになってしまう。

そこで保証されているものは、せいぜい「選択の自由」(@フリードマン)なのかもしれませんが、現実的にその選択の範囲(例えば職業の選択)さえ狭めてしまうのは、ほかならぬお金儲けの自由を認めていることなわけです。

お金儲けの自由を、認めながらも認めない、認めないけれど認める、というようなわけのわからなさが、「街的」とか「町内会」にはあります。「街的」とか「町内会」は贈与共同体ですが、それはムラ社会的なものではなく、少なからず「組合の原理」が働いていることで「街的」なのだと思うのです。

  • 組合は非農業的、縁の作り出す社会的束縛からの自由の空間。平等。アジール。同一性をもたないトポス。
  • 非農業民。非定着、無縁。「原始・未開以来の自由の伝統を生きるもの」。(網野善彦)
  • 「数の原理」で組織される。年齢階梯性(年齢や年次や受けたイニシェーションの回数など)。
  • 「同一性」にかわっての差異を尊重。個性の重視。共同体との断絶
  • 霊的ではあるが肉体性をそなえた神。
  • 未知のものを表現する芸術の神、文学の神。
    (中沢新一:『芸術人類学』を要約)

しかしネオリベ的には、「街的」とか(あたしのいう意味での)「町内会」というのは、江のいうように「部分社会」のルールなのであって、交換の原理的には非合理でしかありません。それは「選択の自由」を阻害するものとして「交換の原理」で破壊する対象でしかないし、昨今の英米流の金融資本主義全盛のなかでは、みごとに加速度をつけて破壊されてきたものです。

けれど最近あたしが思うのは、あたしはいつになったら大人になれるのだろう、ということであって、あたしが子供だった頃にはたしかにいた大人が、自分がその歳になっても自分には現れない、というもどかしさです。今や50になったあたしは、どう考えても子供です。一昔前のわけのわからない、けれど何処か筋の通った大人じゃない。

あたしは、大人というのは、自ら「街的」とか「町内会」とか「部分社会」のルールに縛られて生きることを決めた人のことなんだろうと思うのです。それはファッションと一緒で、「パトリ」、「バロックの館」の1階部分(つまり基本=縛ってくれるもの)がないと機能しないことで、基本がないあたしら世代は、大人になりきれていないのじゃないのか、と思うのです。

こう書くと、それは共同体に縛られることで「自由」じゃないだろう、と言われるかもしれませんが、大人になるということは、単に縛られるのではなく、逆に〈他者〉を縛る自由を得ることなんだと思うのです。つまり「街的」「町内会的」に小僧を縛る自由です。基本をたたき込む自由です。

つまり「街的」とか「町内会」というのは、〈他者〉を縛ってもいい自由をもった共同体なわけで、その自由を得た人を大人というのでしょう。と同時に、そこに参加する自由とは、縛られる自由である、と(そしてこの共同体は国家と違って参加も離脱も基本的に自由です)。

その自由は、けっしてお金じゃ買えないわけで、だから金融資本主義の人達は、いつまで経っても大人になれない「みんな」でしかない。その大人になれない「みんな」は、いつまでも想像界で遊んでいたりするわけですから、「テポドンが飛んでこようが、リーマン・ブラザーズが破綻しようが、ぜんぜん大丈夫!」じゃないのです。

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2008年10月22日 18:29

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