人間の非合理性を受け入れるのは町内会でしかない。

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先日は金子光晴さんの「寂しさの歌」をありがとうございました。それはちょうどあたしの心象のようなものなのか、泣きそうになりましたよ。「寂しい」は絶望感のことですね。

僕、僕がいま、ほんたうに寂しがつてゐる寂しさは、
この零落の方向とは反対に、
ひとりふみとゞまって、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界といつしよに歩いてゐるたつた一人の意欲も僕のまはりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ。
金子光晴 「寂しさの歌」より

しかしあたしには、寂しさの根元をつきつめようとして、世界といっしょ歩いている江弘毅がいる、と。

地方と地方の建設業のこと

あたしは地方の建設業関連での仕事が多いのですが、地方の建設業というのは、たしかに国家に頼るヘタレかもしれませんが、自らの身体と技術を生業としている生活者です。しかし今や、彼らの身体と技術を使う仕事がありません。

公共事業は、全盛期の半分以下になり、ナイーブな市場原理が導入され、改正建築基準法や、最近の不動産不況、金融引き締め(貸し剥がし)と、公共事業に限らず、地方の建設業、そして建設業が基幹産業であり続けてきた地方をとりまく環境は厳しい状況です。7月の建設業の倒産件数は20.4%増の324件と、2007年10月の309件を上回って過去最多となった。 from モモログ

経済学的には、もっと有利な職業に転職すればいいだろう、ということでしかないのですが、地方では転職先もままなりませんし、なによりも長年身体で覚えてきた仕事から離れるのは(建設業に限らず)難しい(そして悲しい)ことです。

少なからぬ中小建設業の経営者は、なんとか雇用を守ろうと努力していますが、全国から聞こえて来るのは悲しい話しばかりであって、あたしは泣いていました。時に最近は、事業に失敗して自ら命を絶たれる方の訃報の多さに、あたしの悲しいは「かなしい」を通り越して「寂しい」になりそうだったわけで、先日の勉強会ではこんな話しをしましたよ。

これは開発主義のハードランディングを意味してしまうのだが、それが上の図(建設投資の国内総生産に占める比率)だ。今や、国内総生産に占める建設投資の比率は9%台であり、公共投資はその4割弱しかないのだから、公共工事を中心とした開発主義は終わったのである。

しかし開発主義が終わったと言っても、そこには開発主義がつくりだした、多くの中小建設業が残っているのだし、地方の生活者が依って立つ「環境」は、まだ開発主義の時代のままだ。そこに地方の悲しさは生まれる。その多くは「経済的」な失敗の多発ということなんだろうが、しかしそれよりも「経済的」に失敗した人達が「社会的」な居場所を失ってしまっている、ということだと(あたしは)思う。(桃組夏季勉強会で使用したPPT―開発主義の終焉と公共事業という産業。 from モモログ

人間の非合理性を受け入れるのは「街的」でしかない

あたしが江のいう「街的」に激しく感動したのは、たとえ経済的に失敗したとしても、「社会的」な居場所さえあれば、人間はそこで精気を養ってまたやり直せる(絶望しなくてもいい)、と考えているからで、その「社会的」な厚み、居場所、帰る処が「街的」なんだ、という確信からです。

人間、どこかで楽観でなくては、生きていくのも厭になってしまうでしょうが、「街的」は、なんの保証もない「広義の自営業者」が、明日も生きるための「楽観」を生み出す装置なんですよ(たぶん)。だから「街的」はしぶとい。「街的」はめげない。「街的」はむやみに生きる。[「武士道」「品格」が日本をダメにする? from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡]

あたしはそれを、「テポドンが飛んできても町内会がしっかりしていれば大丈夫」と非論理的なフレーズを使って言うので顰蹙を買ってしまうのですが、けれど地方(に限らず日本全国)には今や、その社会的厚みが無い(若しくは無くなりそうな)わけで、それは「街的」が見えない人は「かなしい」が足りないのだを通り越し、折り合いのつかない「寂しい」迄たどり着いてしまったかのようです。

それを生み出しているのは、他ならぬ、経済が全てだとする心象(合理性=交換の原理)だ、とあたしは言い続けてきたのですが、「交換の原理」の合理性は、社会(「街的」=町内会とあたしが呼んでいるもの)という非合理性の厚みを、(経済合理性に対立するものとして)奪い去ってきました。

たしかに経済は合理性を求めるものですが、人間は合理性だけで生きていけるものではありません。かならず非合理性をもって生きています。

合理性・非合理性
「パトリ」 from ももち ど ぶろぐ

その人間のもつ非合理性の引受先は、社会(「街的」=町内会=パトリ)でしかなくて経済ではありません。しかし、社会にさえ経済原理を持ち込む消費者=「みんな」ばかりの社会では、特にクルマ社会である地方はその傾向が大きく、社会的厚みが奪われてしまっています。

クルマの移動はもろに「家」の連続ですね。そして「家」は消費のユニットつまり単位であり、家族の「夢」がクルマに乗ってそのまま移動する。それは「外」に出るということではなく、2キロ離れたバイパス沿いのファミレスでもホームセンターでもそのまま行ってしまう。

リビングにいるのと同じように好きな音楽をデカい音で聴き、馬鹿話でガハハとみんなで笑い、次の消費地へと向かう。ドアを開けて外へ出ると、そこには当然のように「知らない人がいる」という当然の現実が見えてこない。

だから郊外の店は、どやどやと店に入ってくるし、席についても子供が騒いでいるし、どんなところでも消費者は神様だから傍若無人です。輝く都市の「クルマ」はそらアカンやろ。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡

今必要なのは「街的」のような社会的な厚み(それがセイフティネットでしょう)でしかないのに、しかしそれを構築する基盤さえなくなろうとしている現実に、あたしは「寂しい」を感じます。しかしそれがまだ、絶望的な「寂しい」でないのは、絶望しているわけではないからで、未だ残っているだろう社会的厚みの護持のために、あたしは地方の建設業を擁護する立場を貫いてきました。

地方の建設業が、自らの環境を「街的」に考えることができたとき、地方の公共事業は、経済合理性で考えるものではなくなるだろう、と思うのです。つまりそれは、人間の非合理性を受け入れるための社会的な厚み(つまりパトリ)を護持するための投資なのだ、と。

《私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救えないなら私も救えない》@オルテガ・イ・ガセットはまだ機能していると(あたしは)思いますが、ただしそれは、他ならぬ「」が、環境=「われわれ」であることで可能なのだ、と注釈をつけなくてはなりませんね。

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2008年08月26日 08:32

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