「街的」を書くには、ちょっと根性が要るで。

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それぞれのお好み焼きを超えるお好み焼き屋、を編集する

このところ立て続けに東京のグルメ誌から、岸和田の「かしみん」について書いてくれという依頼があり、おもろいなと思ってます。

「かしみん」というのは、岸和田浜地区にしかないお好み焼きで、ここでもわたしや大迫が何回も書いてますが、要するにヒネのかしわ(鶏肉)と牛脂のミンチ入りの洋食焼き(ベタ焼き)系お好み焼きです。岸和田浜地区というのは岸和田だんじり祭の精神的支柱的地域で、それについては長いのをhttp://nagaya.tatsuru.com/kou/index.html書いていますから、これを読んでみてください。そこではカネ勘定よりも生老病死や喜怒哀楽がまだまだ生きることについてメジャーだったりするところで、見事な「ワシら=われわれ」とそれに支えられた立派な「オレ=私」が護持され続けています。

そういう生活原理があるところの店だから、「お好み焼き特集」の雑誌やグルメ情報誌に載っていて、それを見て食べに行ったり、ヨソの店と比べたりするような店ではないということです。なのですが、「かしみん」とは一体いかなる食べ物なのかは、浜の人間に聞いても「かしわ」が具で「脂ミンチ」がその上にのせられるお好み焼きとしか言いようがない。それで「かしみん」という。単純ですね。しかしプロがそのように表現してしまうのは、あまりにも「おそ松くん」のやることですね。

その時、浜に行って「かしみん」を初めて取材した、いろんな雑誌に大阪下町系食べ物や漁港のうまいものや店等々を書きまくっている曽束というライターが、その「かしみん」を食べて「やられたっ」となるわけです。で、曽束はヒネのかしわのごろりがりりとした歯ごたえと、カロリーが高いプロパンガスの火でよい加減に脂の焦げた生地の焼き加減で、それを書こうと質問する。

「かしわはどこのものですか?」「えーと、堺町にかしわ屋がありまんねん。そこから入れてます」とあって、ついに「粉には何を入れてるのですか」と訊く。すると、だんじり祭の日には屋根に乗っていた元大工方のおじさんは「塩と味の素や」と、まるで「おはよう」とか「まいど」というように即答する。

これには横で聞いているわたしやこれから帰って原稿を書かなならん曽束も「あちゃー」となる。けれども「カツオ節はどこ産のものですか」などと、それ以上は訊かない。その土地のテロワールでありパトリそのものであるお好み焼きは、情報では書けないからです。

先日の「ももちどぶろぐ」で、東京ウォーカー8月5日号での「居酒屋浩司」の記事について、桃知はとほほ状態になっていましたが、街的な店を書くことは、バッキー井上がずばり書いていて、オレは未だにこの原稿を超えるものは読んだことがありません。というか、こういう記事を載せることのためにオレは編集者をやっている。だから街と付き合うのと同じように、編集者は辞められんな、と思ったのもこれです。

お好み焼きについてはミーツ・リージョナルという雑誌が創刊してまだ間もない頃、「関西風味」という別冊の中で京都駅近くの「山本」というお好み焼き屋について記事を書かせていただいた。
今では多くの情報誌や旅行情報誌がお好み焼き屋を特集したり京都駅辺りの店を紹介しているページには、ほぼ間違いなく「マンボ焼きがおいしい、お好み焼き屋の山本マンボ」として登場しているが、「関西風味」という別冊で取材をした当時(1992年頃)は、「山本」のご主人が「わしとこ写真撮ってどないすんねん」と俺にぼやいていた。
「あんなおやっさん、俺がな、いつも食うてるもんを写真撮らしてもうて、うまいいうて書かせてもらいますねん」と言いながら、写真はカメラマンにまかして俺はいつものようにビールと「ホソ焼き」から始めて、「焼きそば全部入り」「マンボ全部入りホソダブル玉子半熟で二個入り」を食べていた。そして当時からスピード感のある店のお姉さんに、「あんたが書くんかいな。あんた仕事なにしてんの? メッチャうまいて書いといてや、そやないとあんた出入り禁止や」とからかわれていた。
それからしばらくして締め切りの時、実際に「山本」というお好み焼き屋のことを書こうとして困った。それはお好み焼き、またはお好み焼き屋は「うまい」や「ええ店」などという客観的な評価を出来るものやないということに気がついたからだ。
お好み焼き屋に限らず、食いもん屋や飲み屋を客観的に評価することほどあほらしいものはないが、特にお好み焼き屋はその人間が小さい頃から食べてきたお好み焼き屋のお好み焼きこそがスペシャルであり、よその街のお好み焼き屋はいくらうまくてもその店を好きになるには相当時間がかかる。そして俺は仕方なく「それぞれのお好み焼きを超えるお好み焼き屋」と書いた。
その記事を境にして「山本」を紹介する記事がどんどん出てきて、今では情報誌を持った大学生カップルやらもたくさん来ているので、「山本」のスピード姉さんも初めて来たお客さんにする説明もすっかり板について、「マンボ言うのんはお好み焼きに焼きそばが入ってるもん、ホソというのは、まあテッチャンみたいなもんや、全部入りが人気あるけど」と早口でやさしく説明している。ご主人もすっかり取材慣れしてるようで、取材を受けながら常連を笑わせている。
昔から行っている者にとっては以前よりチョットお客が多くなってこんではいるがうれしい光景である。

なんで東京は「いなかもの」ばかりなのか

さて「お好み焼き屋は街の学校だ」というのは『「街的」ということ』のサブタイトルでした。わたしははじめは「いなかものと呼ばれると人は悲しい」というタイトルを推したのですが、どうもそのサブタイトルでは、とくに東京や北関東や東北ではレジに持って行けない人がいるということで、なるほどなあと思いました。ヘアヌードの本をレジに持って行くのが恥ずかしいのと同じということなのです。

「いなかもの」については、「東京以外はみな地方」とするひとく馬鹿げた観点がそれをつくるもので、「いなかもの」という言葉と「地方出身者」とをイメージ上で結びつけたものである。それは都会=東京、それ以外=地方であり田舎であるという見方であり、その二項対立なものの見方は、京都や大阪、さらに神戸といった上方においては、逆に「そういう発想こそが街的でない」ということになる。当然のことですね。

離れ島に観光に行ってそこの漁師に会ったり、山登りに行って山奥で木こりの仕事を見て、「あ、いなかもの発見」ということにはならない。すなわち「いなかもの」というのは都会にしかいない。その「いなかもの」が多い都会の最たるところは東京でしょう。

「いなかもの」というのはイコール地方出身者のことではない。人より先んじて情報を入手したり、人より多く情報を身に纏うこと。そしてそれを消費に直結させ誇示することが、人より優位な位置につくことであり、それが「都会的」と信じて疑わない類の感性が「いなかもの」というものをつくりだしているわけですね。

はっきりいって、メディアに「ファッション感度の高い若い女性に人気」とか「週末はグルメ情報にくわしい東京から客が多い」などと書いたりする人は、まさにその心性まる出しですね。岸和田の「かしみん」でも井上の書く京都の「山本まんぼ」でもそうですが、街のお好み焼き屋は「近所のおばちゃんやおっちゃんで賑わう」であり「近くの仕事帰りの港湾労働者が多い」であり「週末は草野球帰りの人に人気」で、まったくそのベクトル軸が違うわけです。

「かしみん」を「存在するとは別の仕方で」書くこと

「街的」がわからない、あるいは知らない人のしんどいとこは、井上がのたうち回りながら書くように「それぞれのお好み焼きを超えるお好み焼き」ということを書けないことで、そこには「仕方なく」が必ずあって、その「仕方なく」のしんどさがわからないしんどさがある。

それは「括弧入れ」をしなくて済ましてしまえることですね。

内田樹せんせ流に言うと

私たちが客観的に実在する世界だと思って経験しているものは、主観的な仮象である可能性を常に伴っている。
(中略)
しかし、だからと言って、「世界は不可知である」と判断放棄するのは単なる知性の怠慢である。
(中略)
「私にはそのように見えている」という事実以外に、客観的世界に接近する回路は存在しないのである。私たちは「私に見えている世界は客観的世界そのものではない」という事実と、「私には世界はそのように見える」という事実を同時に受け容れなければならない。(『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』P126?127)

そして、記号が代理表象以外の何ものでもないことが、ここに載っかってきますね。「括弧入れ」というのは、とりあえず不適切なこの記号でしか指し示すことが出来ないことを知っていて、しかしその言葉を告げることでしか代理表象する以外に考える足場を持たない、ということを受け入れるということですね。

それは「おのれを示すもの」と「おのれを示さないもの」は「同じ名」で示されるということである。
(中略)
フッサールもハイデガーも、(略)「おのれを示さないもの」と「そこで現れる当のもの」は「同じ名」で呼ばれるという決定不可能性に耐えよ、と告げているのである。(同P130)

これはまさに、大阪の街はかなしい色やね、大阪ベイブルース、ですね。そしてその「決定不可能性に耐えよ」というのは、それを決してピタリとは表してくれない〈他者〉の言葉によって、書きながらのたうち回ることで、「希望と絶望のどちらとも無縁の感受性がそれ自体として高く評価される」(清田友則『絶望論』p210)ような〈ポストモダン社会〉とはちょっと違うやろ。前回の「『街的』が見えない人は『かなしい』 が足りないのだ」は、まさにそうでしたね。

スティグレールの絶望感、つまりあらゆる事象に「愛着がなくなっていく」というのは、そのポストモダン社会の感受性と裏表にあるものですね。モノにもカネにも希望や絶望を覚えないから、実は「愛着がない」。だから「他者の欲望を欲望する」ことのみに欲望する、すなわち消費の嗜癖化、「それゲット」感覚ですね。「ゲットする」その瞬間にしか欲望が充足しない。そこにはモノを所有してそれを見せびらかすということはリンクしてこない。いちども持って行かないルイ・ヴィトンがクロゼットの中に眠っているわけです。つまり「他者の承認」なしに「他者の欲望を欲望する」ことのみが前景化している。

そういう人にお好み焼き屋に連れて行っても、それはあかんでしょ。ラカンでしたか「シニフィアンは主体を別のシニフィアンに表象する」。これは清田友則さん流に言うと、「別のシニフィアンに表象する」ことは「たらい回し」だから、「商品は(消費)主体を別の商品にたらい回しする」ということですね。

これは商品と別の商品は、二人の〈他者〉においての商品であるとともに、シニフィアンとしての商品はそれこそ他者の数ほどあるわけです。「それぞれのお好み焼きを超えるお好み焼き屋」は「ルイ・ヴィトンのバッグは(消費)主体をシャネルのバッグにたらい回しする」いうことになってしまうのですかね。そうなら、まったく、さっぱりわやですわ。

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2008年07月29日 14:20

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