街場のスナックは究極のビジネスモデルなのか。

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豚インフルエンザが有耶無耶になっている今日この頃、例によって、ご無沙汰しておりました。と書き始めるわけですが、そんな感じがしないのは江とは先月浅草で一緒に呑んだからですね。あたしのホームグランドのようなモノである居酒屋浩司はいかがでしたでしょうか。※1

江弘毅と居酒屋浩司のマスター
江弘毅と居酒屋浩司のマスター
2009年6月25日 午後8時過ぎ 居酒屋浩司にて カメラ LUMIX DMC-FZ8

浩司のある通りは通称ホッピー通りとか煮込み通りとか呼ばれていて、この不景気のご時世に人出の絶えないところでもあり、その商業的な成功の秘密を知ろうと、いろんな人があたしのところに来ては(この通りで)酒を呑んでいるわけですが、あたしの答えはいつも代わり映えしなく、つまりここは「アジール」だからの一点張りです。※2

アジールだもの

ミシュランは権威、象徴になりたい(ついでにお金も儲けたい)欲動です。けれどお好み焼きやたこ焼きに権威も象徴もない。もちろんホッピー通りにもそんなものはありません。なぜなら「街的」はアジールだからで、ただ組合の原理で動いているだけの磁場だからです。

  • 組合は非農業的、縁の作り出す社会的束縛からの自由の空間。平等。アジール。同一性をもたないトポス。
  • 非農業民。非定着、無縁。「原始・未開以来の自由の伝統を生きるもの」。
  • 「数の原理」で組織される。年齢階梯性(年齢や年次や受けたイニシェーションの回数など)。
  • 「同一性」にかわっての差異を尊重。個性の重視。共同体との断絶
    and etc.

アジールとしての街場は、その空間に迷い込んだ(逃げ込んだ)人々の、自由の尊厳、差異の尊重、個性の重視、共同体との断絶を保証するために、むしろ共同体性を強めます。

保証するために結界を張らないといけない。

結界を張ることによって、人々の〈欲望〉の対象である、自由の尊厳、差異の尊重、個性の重視、共同体との断絶を保証する。

これは客商売の究極のかたちだとあたしは思っています。※3

街場のスナックモデル

それで最近はというと、なぜかあたしのビジネスモデルを訊かれる方が多く(そんなこと訊いてもしょうがないとは思うのですが)、曰く、ももちさんは酒ばっかし呑んでいるようですが、どうやって飯を食っているのですかと。それに対するあたしの答えも明確で、あたしゃ「街場のスナックモデル」で食っているのよ、なのでした。それは、

  1. いつもは常連客ばっかし(トーラス)
  2. けれどたまに新規のお客さんが迷い込んでくる(メビウスの帯)

という二項目しかないトポロジー。

トーラストメビウスの帯を連結したイメージ※4

ついでに云うと、これは学校じゃ教えてくれねーよ、とも。もっともこれはあたしがつくろうとしている「IT化のトポロジー」そのものなんですが、あたしが仕事としてやっているIT化コンサルテーションというのも、つまりこれを作ろうとすることでしかないのよと。※5  

あたしがこのモデルを採用する根源的な理由はあとでちょこっと書きますけれど、これは浅草の「街的」を観察し続けることで「街的」から教わったことでしかないわけで、ただ酒の力に後押しされながら、町内会至上主義者であるあたしはこのモデルの優秀さを語るのです。

若い人ほど「保守的」だという閉塞

それはいつものように「街的」な言説なので鬱陶しいのは認めます。しかしそれ以上にスタートアップのIT系の経営者や若い人たちから共感を勝ち得るのが難しいと感じるのは、「街場のスナックモデル」がわかりにくいからではなく、これがけっして成長志向モデルではないからで、チェーン店化したスナックなんてあるわけもなく、上場しているスナックなんていうのもないからですね。ただ彼らは瞬間芸のような「笑い」の倒錯がビジネスだと思っている。水村早苗さん流にいえば「保守的」なんですよ(たぶん)。

経済学者のケインズが言った有名な言葉がある。
「今のことしか知らないのと、過去のことしか知らないのと、ぢちらが人間を保守的にするかわからない。」(『自由放任主義の終焉』 筆者訳)
ここで「わからない」というのが、反語的な使いかたなのはいうまでもない。ケインズは、「今のことしか知らない」、すなわち、過去を知らないのが、人を「保守的」にするというのである。もちろん、「今のことしか知らない」のは、若い人には限らない。いい大人でも本を読まなければ「今のことしか知らない」。だが、若い人は、本を読んできた年月が必然的に少ないがゆえに、「今のことしか知らない」確率が高く、それゆえ必然的に、「保守的」である確率が高い。
どういう風に「保守的」なのか?
過激な言葉で人を驚かすのが「新しい」と思っていること自体が「保守的」なのである。※6

そもそも「常連客」という語彙が使えるということは、ぽっと出の商売人には絶対に無理なことで、最初に客がつかないことにはこのモデルが成立しないのも当然なのですが、それでもこれは最初から時間軸を基軸にしている。視野は長い。つまり「交換」ではなく「贈与」が基軸にあるビジネスモデルなのだから即効性は期待できないというよりもゼロに近く、だから速攻で成功しビックになってやる志向が強い「保守的」な方々には、この手の「街的」なビジネスモデルは常にアウトなんでありましょう。

若い人ほどバッキー井上を読め 

あたしのようなジジイに云わせりゃ、それは「街的」のもっている強かさ、贈与経済のもつ強烈な磁力を君らが知らない不幸なのよ、でしかないのですが、この贈与経済モデルに共感できる若い人というのは少ないわけで、だからあたしはバッキー井上さんの言葉に深く共感し、そして慰められもするのです。ついでに云えば、若い人ほどバッキー井上を読めと云いたい。

初めに言うと「街のスナック」というのは時代の化石ではない。置き忘れてきた街の片隅でもない。一部の人達だけの店でもない。「街のスナック」というのは今最も目を凝らして注目をすべき店であり、業態だと思う。言い換えれば時代が「街のスナック」に向かうべきだと思う。なぜか。お客が何かを求めたからといってそれがリクエストどおり返ってくるとは限らないのが「街のスナック」だからだ。お金を払っても思い通りにはならないから、今、「街のスナック」こそが生き生きしている。※7

これは京都錦市場の反流動性漬け物屋だからいえることでしかないのはたしかなのですけれど、アジールがなぜ人間の欲望の対象になり得るのかと云えば、この時代の困難とは、異常なぐらいの過剰流動性の時代に、あたしらは如何にして個の多様性を護持できるのか、あたしらはその多様性の喪失(=均質化)の耐えられのか、に尽きてしまうからです。

過剰流動性というのは、あたしの言葉では「時給850円」のことで、多様性とは「かけがえのないあなた」のことですが、時給850円に「かけがえのないあなた」をくっつけるのは偽善以外のなにものでもありませんね。

ただいえるのは「街的」は常に共同体性を護持することでずっとそれに抗してきたということだけかもしれませんが、米国流の市場経済モデルが諸悪の根源だ的な発言をする方に、「街場のスナックモデル」がわかっていない方が多いのもこの国の不幸だよなと思っています。

※注記

  1. 江弘毅と浅草で飲む。 from モモログ 参照
  2. 「昼間から飲める店のある街というのがいい街なんだよ。」の簡単な解説。 from モモログ 参照
  3. 『ミシュランさん、一見さんお断りどす』を読みました。 参照
  4. 図:中沢新一:『芸術人類学』:p91
  5. 事業者団体IT化のためのテキスト―「財団法人ニューメディア開発協会研究成果レポート(社会と公的分野における情報化)」に書いたもの。 from モモログ 参照 
  6. 水村早苗:『日本語で書くということ』:p25
  7. その30 客の思い通りにならないからこそ、街のスナックにはゴキゲンがある。「WITH」。 from 140B劇場-京都 店特撰 参照
    ここでバッキー井上さんが書いている「スナック」はアジールの原理そのものである。
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2009年07月12日 09:27

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街場のスナックは究極のビジネスモデルなのか。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡

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