ようけ持ってもかさばるだけやろ、カネじゃあるまいしー消費と所有のリンク。

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差異が利潤を生む、ってか。

うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ。

というのは、ほんまにおもしろいですね。なるほど、うまいこと言うな、と思います。情報というものを軸として高度に発達した資本主義は、なんでもかんでも情報化してそれが流れる水位差を利用して儲けを企むシステムといえると思うのですが、まさにその「うんと固く」は「差異をつくり出せ。そこから利潤を得よ」ですね。これは「利潤を得るためなら、どんな差異でもかまわない」という、まさに広告代理店的世界です。

もちろん差異は、それまでの「共同体/共同体の外部」の地域差、時間差、商品の機能差といった違いやズレが、産業やものづくり、情報、流通…つまり資本主義の発達で意味をなさなくなってきたから、「イメージの差異」をシステムに持ち込むしかなくなってきますね。ロレックスとシャネルとセイコーの時計のどこが違うのか、といったイメージの差異はとどのつまり、記号化されたブランドにとどめを刺すのですが、そういうふうにどんどん記号を消費していくこと

つまり、あたしらはモノ(商品)にあふれた生活しか想像できななくなってしまっている。それも脊髄反射的にだからどしようもない。

ということなんですが、けれどもそういうちまちました記号的アイテム(ファッション)や雑貨化された商品を嗜癖的に一生懸命消費することと、自分が所有する空間や私有する財を増やしていく、つまり「わたしの領域」をどんどん拡大していくのが幸せなんだ、という志向は違う、つまり「消費と所有」は欲望として別のもので決してリンクしなかったのかと思います。

家狭いから「外で」やねん。何か問題でも?

岸和田の街場では、店をやってる人がその2階に住んでいるような家が多く、家が狭いから毎朝喫茶店に行き、取引先が来たからまたそこで打ち合わせをする、というような日常です。

キッチンにはポーゲンポールのシステムキッチンとフォルスターの120本入りワインセラーがあって、ダイニングは12人テーブルがあって、そこに来週は友人のイタリアンのシェフとソムリエを呼んで気のあった仲間とホームパーティーで楽しいですよ。生のバジルとオレガノも買ってくるの忘れないでね、みたいな感性はない。

その代わりに子どもの頃から近所付き合いをしている、行きつけの鰻屋や天ぷら屋があって、そこで結構良いものをたらふく食っている。そして「家でパーティー? そんな部屋ないわ。第一、器や鍋やグラス片づけんのめんどくさいやん」。そういうのを実生活でやってきたわけです。

帰りに檜の風呂も入って帰ってください、腕利きの大工さんに頼んで、えーと1000万円かけました。はい、5坪のお風呂です。なんていうのは、「檜は掃除大変やろ。1000万円あったら、有馬温泉の元湯旅館何回行けんねん」ですわ。

しかしながら「お金儲けして何が悪いのですか?」「女心もなにも、金で買えないものはない」的な感性が、近所に200坪の豪邸を建てるとか中学の時の恩師の葬式にBMWの7シリーズに乗っていくのはちょっと憚れたりするある種の心象を「因循なこと」として押しやってきた。

「うんと固く」は3つある。

街場では「わたしの領域の拡大」は、共同体にあるリソースの独り占めだから、それはやったらあかんやろ、です。そういう類の欲望を抑制することが「うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ」その1なのですが、それが逆になっている。

北新地に出ようとJR大阪駅桜橋出口を出て、西梅田のヒルトンプラザに並ぶルイ・ヴィトンやフェラガモのブティックの前を通ると、「アホらし感」みたいなことを感じたものですが、そうではなくなにか言説化できないような無力感や敗北感を感じ始めてきた。それが、自分で自分を「負け組」だと認めることの抑圧、みたいなというところに直結する「うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ」その2だと思うわけです。

その「うんと固く」その1と「うんと固く」その2が入れ替わり、その3として「所有すること」が露呈してきた。「所有すること」というのはそれは所有物のことで、それは土地にしてもカネにしても「これはオレの所有物だ」といえるということで、権利の一種ですね。それはその権利が誰かに代替されること、つまり自分のものでなくなる可能性がふくまれている。そうでなかったら「所有する」ということは成り立たない。「自分のものでなくなりうるからオレのものなんだ」ということですわ。

食べ物や記号的な消費財のようにそのもの自体がなくなるとか消費されてしまうとか、それを手で持つとか家に置いているとかそういうことではなしに、誰に帰属するかということ。「おまえはオレの女や」が明日には「あいつの女になってしもた」という可能性がいつもあるということで、それは完全に、オレーおまえーあいつといった関係性のなかの承認がいる。もっというと他者の承認のなかにあって初めて「所有すること」が成り立っている。

これは強烈な「うんと固く」で、人をしばるわけですな。そこに「天下の回りもの」であることと、所有の意味が単純に「計量化される」カネの両義性があると思うわけです。カネはおそろしですね。

けれども「あっても困らない」カネと「3台あると邪魔になる」クルマの感覚的な違いがわたしらにはある。「座って半畳、寝て一畳」というのは人の大きさをいうのでなく、所有することがすなわち誰かのものを奪い取ることであるということをうまく言い表したものだと思います。

しかしLOHASでスローフードの奴は、たくさんの道具をもっているのだ、これがまた。

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2008年01月27日 08:20

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