みんな、ミシュランとマクドナルドかいな―食べるもんぐらい、好きにさしたってくれや。

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ミシュラン東京版」て見ましたか。
新聞では「4日で完売」とか、雑誌やテレビのワイドショーにも、思いっきり採り上げられてます。自称グルメな「ちょいワルおっさん系」みたいな芸能人が、視聴率高そうなテレビのワイドショーで「はっきり言って、ありゃダメだよ。オレの行く店が、ほとんど載ってないもん」なんて言ってたり、「発表当日は(3ッ星の店は)電話を置いた瞬間に次の電話が鳴る騒ぎに」なんて、毎日新聞でも書かれていて、何ともいえない気分になってます。

大阪でもいっぺんに本屋から姿を消したみたいで「12月中旬に入荷します」なんて本屋の店員は言ってるけど、オフィス近所の旭屋書店堂島地下街では5冊入りということです。
そりゃ売り切れるわなー、といった感じです。

アラン・デュカス的でない東京版

先日たまたま、アラン・デュカスと東京で会っていて、その「ミシュラン東京版」の話になったんだけど、世界で一番星を沢山持っているデュカス御大は「あんまり、関係ないね」って笑ってました。
まあ自分の店、つまりシャネルとやった「ベージュ東京」と青山の「ブノワ」が星一つだったことを割り引いても、ちょっと東京=日本というところにミシュランのガイドはそぐわない。
いい店おいしい店を印刷媒体でガイドすること、のフレームが全く違うのだと思います。
テロワールそのものの京都や大阪なら、どうなるか」なんてデュカス氏は訊いてましたが「ちゃんとしたガイド本としては、難しいでしょ」と答えときました。
ぼくは去年の秋にデュカス氏を大阪を案内し、それをグルメ雑誌の8ページの記事にしましたが、彼はすごい日本通です。
世界中にいろんなレストランとかオーベルジュを持ってる彼は、京都や大阪はどういうとこで、「われわれ」が「何をおいしがっているか」を知っている。
彼は「土地に対しての敬意」なんて言い方をよくしていますよね。
ここに、ミシュラン的な「システムとしての消費社会」においての「みんな」というものを想定した「客観的な星付け」と、たとえば大阪ミナミなら大阪ミナミなりの、街を微分して浮かび上がるところの「いい店」といった「世界のありよう」においての「われわれ」の違いがある。

街のいい店と消費のための情報

決定的なことですが、あの本は全く街的ではないですね。
調査員がちゃんと取材しているとかいないとか、そういうことではない。
街にでる人にとって「いい店」とは何か、そしてそこをどう評するというのが全く違う。
観念のことですね。
外食において日本は階層社会でないですね。もちろんこのところ指摘される「下流社会」のように、金が「ある/ない」の階層は顕在化しているけど、ブルデューの言うようなフランス的な社会階級はない。
だから500円の大阪のきつねうどんやお好み焼きはじめ、飲んで食べて3千5百円の鮨屋にはその鮨屋が持つ「絶対的」なおいしさがある。
明治26年開店きつねうどん発祥の大阪・南船場の松葉家の550円のうどんと、吉兆の昼ご飯2万円とがきれいに街場で並列しているということです。強弱、大小、優劣ではなしに。
図らずしも船場吉兆が「外食産業的」にああいうことになってますね。
けれども南船場のうまい店ということなら、松葉家も船場吉兆どちらもドラフト1位の存在ですが、ガイドブックを作る場合には、両店どちらも採り上げる、片一方のみを採り上げるの3パターンありますが、ぼくらがやってきたことというのは、エクゼクティブなシティ・ホテルにあるメインバーも横丁の焼鳥屋も「街のいい店」として同じ座標軸で見るような視点や一つの連続する文脈で語れないか、という問題意識がないと、こんな仕事やっていても面白くも何ともない。
そしてそこのみがいわゆる「読むところ」です。すなわちあんこの部分です。あとは店データ、つまるところ「消費にアクセスするための情報」ですね。

経済システムの「業態」としての店は「チョロい」

「鮨と洋食とお好み焼き(そちらの場合は蕎麦でしたっけ)は、地元(近所)のが絶対うまい」というのが、オレらの共通する認識でしたね。
加えて「浅草や岸和田では陽が高いうちから飲むことが、なぜま罷り通るのか」。
それを説明しようと、四苦八苦してそれこそのたうち回りながらやってきたわけです。
地元の鮨屋に行くことと、地元のフレンチのグランメゾンに行くことは、違うのかそうでないのか。
そこのところです。

けれどもたとえば外国人と日本人の外食、とりわけ「いい店」についての評価基準は違うにせよ、ミシュランによってこういうふうに経済効果、つまり「金儲けのツボ、ここにあり」てやられると、これから企業化した料理人や食業界人が、どんどん星を取れるような店を作っていくことになるでしょう。
銀行も「星で金を貸す」ようにもなるし。
そうやってやっていると、完全にしっぺ返しがくる。それも、街を致命的に損なうという仕方で。

コンビニという業態が、フリーターのアルバイトのスタッフだけで月坪50万円以上可能な商売で、それが経済合理的であるのが完全無欠な自明で、どんどん街に「画一的」に出来てきた。
かといって、街の黒帯のキミぼくアナタはコンビニに行かない、というわけでなく、おでんと黒霧島と氷を買って帰って、マンションでまったりしている。
「ピッ」なんてリモコンでDVDをつけて見ながら食べたりして。そのテレビでは大阪でも小倉でも同じみのもんたが東京弁で怒っている。
そういう「みんな」がミシュランについて、あーだこーだと言ってメディアに露出している。
まことに「チョロい」日常です。

どこから見ても、「グローバルスタンダードに経済合理的」なコンビニやファーストフードやレンタルショップは、端的に言うと「人と人とが出会わなくても回るシステム」ですね。
「いらっしゃいませ、こんにちわ」て言われて、店員と物理的に出会ったとしても、会社の近所のローソンへ毎日3回行っても馴染みにはならないし、「あそこのマクドは、オレの行きつけやから、こんど連れてってやるわ」なんていうのは絶対ない。
その倒立したおなじような文脈が、このミシュランを取り巻く情況なんだと思うのです。

フランス料理ではグラン・メゾン、レストラン、ビストロ、ブラッセリー、そしてカフェと、完全にヒエラルキーになっている。
店の造り内装から素材もスパイスも塩も調理も、あるいはメートル・ドテルやソムリエがいるとかいないとか、ワイングラスもバカラから脚のついていないコップまで、綺麗にグラデーションを描いている。
大阪ではそうじゃないですね、ご夫婦とホール係3人でやってるようなカウンターのカフェみたいな仏料理店が、リッツカールトンのメインダイナーよりも高い料理を出していて、それがいつも満員でうまい。
逆説的だが、鮨屋の場合だともっと端的で、お任せでおあいそ3万円というのは、大阪や浅草ではほとんど趣味の世界でしょ。
江戸時代から漁港があって、「浪速の台所」と呼ばれている玄人相手の黒門市場に魚を持ってきてた岸和田がうちの地元ですが、そこでは2万円以上の鮨を食うのはほとんど不可能です。

なんか、ミシュランの東京版を見ていると、マクドナルドとちょうど裏返しのグローバルスタンダードな、ものすごく貧しい「食文化」を採り上げている。それもアタマのてっぺんからつま先まで「消費社会である東京」の、という気がする。
ほんまに「チョロい」。宮台真司風に言うと「底がぬけて」しまっている社会です。

街の実生活者にとっての〈食〉

しかし、こうした〈食〉という、社会のありようとぼくたちの実生活を結びつける位相においてすら、ますます〈私〉はいかにして〈私〉であるのか、〈個〉はいかにして〈個〉であるのか、を困難にさせる。

ハンバーガーやフライドチキンはうまいかまずいか、とかではなく、それ相応の対価がないとうまいモノは食えない、なんてお金があるなしで量られること自体、「食の貧困」以外の何ものでもない。

もともと銀座や北新地とかの夜遊びに、コストパフォーマンスなんていう的物差しは通用しないですね。
あそこで遊ぶ人は「消費者」ということではおもろないですね。
だいたいモノやサービスには相応な対価というものがありますが、そこにはない。
だから北新地でバーボンの ソーダ割が500円で飲める店の情報を知っていても、クラブで一晩にいくら使ったのかという話と同様、ナンにも偉くはないし無意味である。
一体、カネが全ての遊びなのか本当はカネなんて関係ない世界なのか、その両方でもあるから困るのであり、この街にあって自分の街にないものを探したり、自分が持っているものと人のそれとを比較して遊ぶのはとても虚しい。
なぜなら「他我のモナドは、わたしのモナドを通じて、間接的に呈示され、構成されるわけである」(E・フッサール「デカルト的省察」)が、モロに襲ってくるからです。

マクドナルドにしろミシュランにしろ、そこに措定され立ち上がる「みんな」とは消費者のことですね。
それは「種=中景に溶けた個」であり、「われわれ」とはそうではなく「種においてエッジのたった個」(つまり個体化を志向するプロセスとしての個)だと思うわけです。

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2007年12月04日 21:38

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