ああ、なに食ったらいいのかがわからない―けれどもミシュランはあたしの中にある。

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バロックの館

 

「襞によって変化をつけた布」を張りめぐらせた閉じた個室

 

「いくらかの小さい開口部のある」共同の部屋:五感

 

バロックの館
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バロックの館
(ジル・ドゥールーズ:『襞―ライプニッツとバロック』:p11)


ミシュラン東京版と浅草

江さん、最初からぶっ飛ばしてくれてありがとう。あなたのテクストを受けて書くのはしんどいですよ。と泣き言を書いて、まずは「ミシュラン東京版」について書きます。と言ってもミシュランは見ておりません。なのでTVから得た情報ぐらいで書くのですが、あたし的には「ミシュラン東京版」をあんまし否定してはいないのです。

それはまず、浅草を完全に無視してくれたことに敬意を表してです。浅草に棲んでいますと、今回のミシュランの調査対象地域なんていうのは外国みたいなもんでして余所事なわけです。濱田家で飯を食うなんていうのは5年に1度の外国旅行です。非日常でしかありません。生活社会というか、(あたしの棲んでいる)浅草の日常とはルールが違う処です。

そんな外国と(あたしの日常である)浅草はライバルでもなんでもない。外国は外国、浅草は浅草です。外国と同じ土俵(グローバルスタンダード)に引っ張り込まれたらいけませんが、無視していただける分には文句はありません。

グローバルスタンダード、世界はひとつ、などと言う能天気な奴らが居ますが、そんなことはありません。(あたしの日常としての)浅草には結界があります。その結界を切れた方だけが浅草を楽しめていいのです。浅草のライバルは、同じく結界が張ってある東京ディズニーランドです。こっちにも生きのいいねずみは沢山います。最もあっちのねずみの王国はお金で結界破れますが、こっちはそうはいきません。

フランス版であろうが東京版であろうが、ミシュランは、あたしには、たいしてかわらない余所事なのです。なので好きにやっていただければ宜しい、と思っています。とは言え、そのうちミシュランも浅草へ不法入国してくるのでしょうが、そんときは「よろしくお願いしますよ、旦那さん」、と媚を売るのです。(笑)

ああ、なに食ったらいいのかがわからない

馬鹿話はこれぐらいにして、閑話休題。

食べるもんぐらい、好きにさしたってくれや」は、まさにその通り。あたしゃ「自分が食べるものぐらい、自分で決めろ!」と言いたい人なのでなおさらです。しかし肝心の〈私〉ときたら、今日、なにを食ったらいいのかがわからない、という時代なのだと思うのですよ、今はですね。

今日は彼女とデートだ、とか、客と会食だ、となると、どこでなにを食ったらいいのかわからない。今日の夕餉は俺一人だ、さあ、羽を伸ばしてうまいもんでも食ってやろうか、と思えば、どこでなにを食ったらいいのかわからない。つまりは〈ハレとケ〉なのですが、その区別がない。

それは貧乏人も金持ちも分け隔てなくでして、金持ちは金持ちなりに、なにを食っていいかわからないし、貧乏人は貧乏人なりに、なにを食っていいのかわからないのじゃないか、と。

本来なら、金持ちは金持ちなりの〈ハレ/ケ〉の店があり、貧乏人には貧乏人なりの〈ハレ/ケ〉の店がある。まあ、明日のお飯にも困っているっていう人も居るには居るのだろうけれども、浅草で路上生活をされている方々を見れば、けっこう血色はよろしいわけで、つまり皆さん動物的に毎日食うには食っている。けれども、今日の〈私〉はなにを食ったらいいのかがわからない。

そこに〈私〉の代わりに、なにを食ったらいいのかを考えてくれるものがある。だからこそグルメガイドは売れるし、グルメ番組も視聴率を稼ぐ。うちの「浅草グルメマップ(裏浅草中心)」が大量のアクセスを稼いでいるのも、そのためでしょう。

そんな「みんな」を馬鹿と言えない

この「なにを食ったらいいのかわからない」というのは、ある種のアノミー状態ですね。今は、食の社会的規範がない。なので機能代替的に食の象徴(社会的規範)を、(たとえば)ミシュランのようなものに求めているのだろうな、と。

それは思考停止であり、〈私〉のない状態なのですが、つまりは江さんが

相応の対価がないとうまいモノは食えない、なんてお金があるなしで量られること自体、「食の貧困」以外の何ものでもない。

と指摘しているものです。「食の貧困」というのは、つまりは「象徴の貧困」(ベルナール・スティグレール)なのだろう、と。それは「街的」に言えば、街に店は宿るの「街」がない、ということだし、

マクドナルドにしろミシュランにしろ、そこに措定され立ち上がる「みんな」とは消費者のことですね。
それは「種=中景に溶けた個」であり、「われわれ」とはそうではなく「種においてエッジのたった個」(つまり個体化を志向するプロセスとしての個)だと思うわけです。

という理解になりますね。

つまり「ミシュラン東京」のようなものは、そんな「みんな」の時代(「象徴の貧困」の時代)に、出るべくして出てきたというだけのものだろう、と。そして、そいうものに(たぶん気づきながら)あえてやっている「みんな」を「馬鹿」と言えないあたしが居るのですよ。

〈世界〉に感染する窓がない

おまえら「自分が食べるものぐらい、自分で決めろ!」(つまり「種においてエッジのたった個」=個体化を志向するプロセスとしての個になれ)、とあたしゃ言いたい。しかし言ったところで、できる奴はできるけれども、できない奴の方が圧倒的に多い。なぜなら、エッジをたてるような種がないからです。

種というのは、ご存知の通り、〈私〉の依って立つ地面です。バロックの館の1階部分、

パトリを護持する理由は何か。一口で言えば、「〈世界〉に感染するための通路」を護持するためなんです。(宮台真司:『限界の思考,』:p36

パトリ。窓も戸口もないモナドとしての〈私〉が、〈世界〉とつながる通路です。なのにそれがない。

種は個にとっては鬱陶しいものです。あれやこれやと、やかましいったらありゃしない。戦後の民主主義と言うか個人主義の強い風潮では、そんなものはない方がよい、と合意はできている。けれど、そういう鬱陶しさと対立していくことで〈私〉というモノの「いくらかの小さい開口部のある」共同の部屋=五感は出来上がっていく。

しかし今は、その肝心の五感がないのですから、なにがうまくて、なにがうまくないかを感じることができない――ことで〈世界〉に感染できない。つまりそには〈私〉がない――ことで〈私は〉なにを食ったらいいのかがわからない。

「みんな」に「馬鹿」と呼ばれたい

そういう不感症の世界で、店は境界も階層もなく、結界はお金で切れる(つまりお代は高いかもしれないけれども敷居は限りなく低い)スーパーフラットなデータとして並んでいて――ただそれは店の問題ではなくて、〈私〉の感性の問題なのですがね――、世の中にはお金で結界を切れない店だってあるのだけれども、お金で均質化された感性には最初から結界がない。このお金で切れない結界こそ「種」なのですが(だからこそ鬱陶しい)。(笑)

そんなデータベース化された店を、どう選んだって、なにを食べたところで、うまくはないのですよ。ただお金を払うことで、等価交換的にうまいこと思い込んでいる。つまり〈私〉が結界を切って〈世界〉に感染することはないんだなぁ。

だからますます、なにを食ったらいいのかわからなくなる。それがあたしゃ気に入らない。食い物はもっとうまく食え!と言いたい。だからね、あえて貴方の言う「街的」にこだわるわけだ。

それはバロックの館の1階部分にこだわっているってことで、こういうわけのわかんないことをぐだぐだと言っている奴は、世の中からは「馬鹿」と呼ばれるのだけど、「馬鹿」で結構。あたしゃ「みんな」に「馬鹿」と呼ばれたい。そして今日も(誰がなんと言おうがあたしの認める)うまいものを食うのだわ。

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2007年12月05日 17:30

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ああ、なに食ったらいいのかがわからない―けれどもミシュランはあたしの中にある。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡

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ブログ的に書かないことの難しさ―江弘樹への返信解説。 from モモログ (2007年12月12日 13:39)

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コメント

ももちさま

往復書簡、興味深く拝見しております。
ミシュランガイドは、フランスだけでなく
イタリアやスペイン、ニューヨークや
サンフランシスコなどでも出ており、
そこそこ売れているようです。

それら出ている国のほとんどが
----------
「みんな」の時代(「象徴の貧困」の時代)
----------
という時代に突入しているということ
なのでしょうか?

抽象的な言い方で恐縮なのですが、
赤坂や六本木の超高層マンションに住んでいる人は、
浅草に住んでいる人の気持ちが理解できないと
思います。(たぶん、経済的なものだと考えています)
パンがなければケーキを食べればいいじゃない、
と言ったVIPがいましたが、そういう感じで、
プロセスをカットしての「価値の貨幣化」「価値の等価交換」こそが
消費だと考えている人とそうでない人の
断絶はけっこう決定的なものではないかと
思うのです。

ミシュランを直感的な違和感なく受け入れることが
上記の各国で行われていく流れを見ると、
「あちら」と「こちら」の分化が決定的なものに
なっていくことは世界的潮流だということでしょうか?
また、それが進むと一体どのような社会に
なるのでしょうか?

フランスでは星をひとつ落としたシェフが
失望のあまり首を吊ったりしていて、
料理や店をつくるシェフ自体も「あちら」の
スタンスになってきている気がします。

また、機会のあるときに書簡に盛り込んでいただければ
幸いです。

投稿者 ふじた : 2007年12月08日 23:46

>ふじたさま

コメントありがとうございます。
つたないテクストをお読みいただき感謝申し上げます。

ふじたさまからいただいたご質問には、この書簡を通してお答えできれば、と考えていますが、スティグレールの「象徴の貧困」については簡単にまとめたテクストがございますので、一読いただければ幸甚です。

http://www.momoti.com/blog/2006/06/post_41.html

とりあえず今回は、ふじたさまのコメントを受け、私の思ったところを簡単に書かせていただきます。

まずミシュランへの違和感についてですが、ミシュランのガイドブックというのは、そもそもはミシュランタイヤ販促のための(自動車旅行用の)ガイドブックで、1900年のパリ万博がその始まりだったと聞いております。

その時代は近代(「象徴の貧困」の時代)の始まりですが、自動車旅行をする人も限られていて、それは云わばある特権的な階級のモノだったのだと思います。つまり店も客も特権階級であることで、ミシュランは権威だったのではないでしょうか。

それが近代化の進展とともに階級はなくなり、階層の世の中になる。それに伴って自動車も大衆のものとなれば、それに歩調を合わせるように、ミシュランも変わってきたのかな、と思います。

そして、戦後に過去との断層をつくり、徹底して階級のない階層社会(大衆の社会)となった日本では、ミシュランのようなものは受け入れ易いもの、としてあるのではないかと思います。サラリーマンでもちょっと頑張れば(金銭的には)行けない店はないことで、よく売れているのだと思います。(階級のないこと、それは悪いことではないでしょう)。

ただ私たちが感じる違和感とは、しかし本当に〈私〉が使うにふさわしい店なのかどうかは、ミシュランは教えてくれていないのではないか、ということなのだと思います。

それは云わなくてもわかるでしょう、というような社会的合意ですが、そういうもの(基体)が壊れている社会でのミシュランというのは、単なるガイドブックであって、権威でもなんでもない。それを権威だとするところに違和感を感じてしまいます。

そこにあるのは、〈行けるのか/行けないのか〉、行けるとするなら、それは〈日常/非日常〉なのか、という、ふじたさまの指摘にもある

>プロセスをカットしての「価値の貨幣化」「価値の等価交換」こそが消費だと考えている人とそうでない人の断絶はけっこう決定的なものではないかと思うのです。

という問題につながるかと思いますす。それは生活社会のみならず経済システムの問題もからむので面倒なのですが、階級のない社会は〈貧/富〉の差で階層を量ろうとします。(つまり「価値の貨幣化」「価値の等価交換」というものさししかありません)。

それにどっぷりと浸かった社会は、目盛りのない、しかし精密な構造を持ったものさしを準備できません。それは今は「街の学校」においてありますが、その「街の学校」が絶滅危惧種です。その精密な構造だけれども目盛りのないものさしの〈ある/なし〉が〈こちら/あちら〉の差異だと思うのです。

だからと云ってここで階級の復活を言ってもしょうがありません。どんな時代にもどんな体制でも金持ちと貧乏人はいます。しかし日本には「貧乏人の発見」、「貧困の発見」という国際的な常識が乏しいように思えるのです。それはリベラリズムと言葉をかえて云うことができるかと思います。

欧米先進国でリベラリズムと云えば、貧困を執拗に探し出し、救済するとう社会的同意です。貧困は撲滅する対象だということですね。それはあれだけネオリベなブッシュにだってあります。しかし今の日本はなにかそういう国際的な常識が欠けてしまっているよう思えます。

そして、そいうところにある日本のミシュランというのは、いたずらに階層〈金持ち/貧乏人〉の差異を強調していることで(じつはサラリーマンには行けても、労働人口の3分の1である非正規社員には縁は遠いのです)、そこにまたなにか違和感を感じてしまう、というのは、貧乏人の僻みなのでしょうか。(笑)

ということで、コメントの返信としてはなにか違和感があるかと思いますが、今後もご愛読いただけますよう、一生懸命に書いていきたいと思いますので、ごひいきにお願い申し上げます。

投稿者 ももち : 2007年12月09日 19:03

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