パチンコ、パチンコ、パチンコにいくのさ。若しくは、集団的で一人ぽっちの「みんな」。

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パチンコ

そのとき、人は理解するのである、資本主義的富の締めつけ、月給生活の窮屈さきわまるつましさに抵抗しているこの遊びの深刻さを、一挙に遊び手の手にみちあふれてくるお金の玉の欲情の大決漬を。(ロラン・バルト:「パチンコ}:『表徴の帝国』:p51)

サブカルの転向

最近TVをみていて思うのは、パチンコ台のCMのぶっ飛びようです。ただ、それをぶっ飛んでいると感じるのは、あたしの世代的なものだと思うので、若いひとたちには普通のことかもしれません。

世代的というのは、あたしたちの時代にサブカルであったモノが主役になっている、という違和感です。最近のパチンコ台(バルトにいわせりゃ「絵画」)は、(かつての)サブカルチャーがメインカルチャーになっている転倒(キアスム)のように思えます。

東京ではパチンコのCMは「台」に限られていて、店舗のCMが流れることはありませんが、出張先のホテルで、地方のTV局の深夜番組をみていると、パチンコ屋のコマーシャルが圧倒的な量で迫ってきます。パチンコのCMの合間に番組があるようにです。

朝目覚めて、新聞(地方紙)に目を通せば、パチンコ屋の全面広告があったりして、あたしは頭がへんになりそうなのですが、それはあたかも、《資本主義的富の締めつけ、月給生活の窮屈さきわまるつましさに抵抗しているこの遊びの深刻さ》を忘れたかのようにであり、パチンコはまるで、(地方における)資本主義最後の商品であるかのように、メディアにのってやってきます。

あたしは、パチンコを覚えることなしにこの歳まで生きてしまったので、あの遊戯のなにが面白いのかはわからないことを最初にお断りしておきますが、18歳未満入場お断りのあの空間に、サブカルだと思っていたものが、いまはメインカルチャーに転倒して「ある」ことに、そしてパチンコという、(あたしにとっては)なにか「うしろめたさ」がつきまとう遊戯が、堂々とメディアに登場していることに、なにか違和感を感じると同時に、自分の年寄り具合を感じていたりもします。

サブカルと交換

サブカルは、「交換」の外に逃れようと絶えず努力していた、そして作品の市場に抵抗していたはずです。

(マスコミを拒んで)、記号に抵抗し(意味を免れて、狂気によって)、正しいセックスに抵抗する(再生産の目的から悦楽を切り離す倒錯によって)。(ロラン・バルト:『テクストの快楽』:p44)

そういう《テクスト》的なものであったのに、「交換」は、それを否定しているようにみえるものすべてを飼いならし、それを取り込んでしまいます。サブカルさえも合法的な消費の回路にのせてしまうしたたかさです。

そしてサブカルはいまや、集団経済の中に取り込まれ、それを消費する人々を、集団的ではあるけれども、まるで世界につながる窓をもたない「粒」(モナドじゃない)にしちまうことに一役買っています。

パチンコは、集団的で、しかも一人ぽっちの遊びである。機械は長い列をなして並べられている。自分の絵画の前に立ったお客は、おのおの自分だけで遊び、隣の客など見もしない。(バルト:『表徴の帝国』:p48)

それは「どうしようもないこと」かもしれませんが、しかし、どこかで、なにかのが切れてしまった、としか思えないのです。

私/われわれ/みんな

パチンコをしている人は、極度にシンクロされた運動の中にいます(集団的)。それは「規模の経済」の典型のようなもので、その成果は一人ひとり違うのでしょうが、そんなことはどうでもよいのです。みんながまとまって同じことをやってる、ということだけで十分です。

しかし集団的にしか遊べないこの遊戯は、機械を唯一の対象とすることで〈他者〉がいません。なのでパチンコ屋という集団のなかにいながら、私は「ひとりぽっちの自分」でしかありえなく、私はパチンコ台を鏡にして、ようやく私を確認している鏡像段階の子供、若しくは機械と一体化している永遠の乳呑み児のようです。

なのでパチンコをしている人は「私」である、ということができません。パチンコ屋でパチンコをしている人は、「私」でも「われわれ」でもなく、パチンコをする人達という「みんな」でしかありません。それは

」を愛し、「われわれ」を愛し、そして「われわれ」のなかで生きる「」を愛するという人間にとって根本的に必要なナルシズムが頓挫する時代(ベルナール・スティグレール:『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』)。

を表徴しているかのようです。これは「消費者」全般にもいえることで、なにをどう消費しようが、マスの消費者である限り、いつまでたっても、消費者は集団的で、しかし一人ぽっちの遊びをするしかない「みんな」です。

個人の強調が「みんな」をつくる

ケイタイ・ネットのコミュニケーションも、パチンコをしている人とたいしてかわりはないでしょう。24時間「待機」OK!で、ケイタイを片時も放さない人にとって、ケイタイは「交話的コミュニケーション」(@ロマン・ヤコブソン、若しくは[接続的コミュニケーションの陥穽@内田樹の研究室])のための装置でしかなくなります。そこで取り交わされるのは、想像界的で、

命令的で、無意識的で、愛情のこもらない言語活動、吸打音(クリック)の連打だ。(注目すべきイエズス会士ファン・ヒネケンが文字と言語活動の間に設けたあの乳臭い音素である)。(ロラン・バルト:『テクストの快楽』:p9)

でしかなく、あたしたちの能力のひとつであった、予期しないことが起こることを待つ能力を傷つけています。未来予持の困難、未来を想像することの困難は、「われわれ」つまり「私」がないからで、それは小泉政治バブルに顕著でした。

「交話的コミュニケーション」にあるのは、全ては予定調和でできているという、偶有性への期待の欠如です。…かもしれない、が機能しないこと。ムラ的な円環の井戸端会議に終始すること。それはつまりは思考の停止であり、思考の自由の貧困であり、不自由な世界のことです。

しかし人間がホモ・サピエンスである限り、それに耐えられるはずもなく、時々反発も起こりますが、それもまた「みんな」の枠をででることもなく、たとえば福田さん的な、なんだかわからないモノの前では、「みんな」もなんだかわからないのです。なぜ「みんな」がなんだかわからないかといえば、テレビ村が統一見解をだせないからでしょう。

閑話休題。〈世界〉とつながる窓であるはずの小さなディスプレイは、パチンコ台のような「鏡」でしょうか。それは私を映しますが、しかしそに映る私は、なんだか得たいの知れない「みんな」なのであって、だから「みんな」の意見は案外正しいと思えるし、「みんな」の意見に安心し、「改革」や、「亀田が…」「羊水が…」で盛り上がることもできたたりします。

しかしそこには、「私」も「われわれ」もありはしません。そして予期しないことが起こることを待つ能力もありません。ただ予定調和的に与えられるモノ(交話)をまっているパブロフの犬。つまりは、「動物か!\(-_-)」なわけです。

それは個人主義の時代、個人の強調、つまり一人ひとりが自分の電話をもつこと、個人的な所有を強調するモノが、あたかも「私」をつくりだすかのように標榜しながら、しかし結局は「みんな」をつくることを強調したということです。そしてそれは「個体化」(@スティグレール)にとっては、ただの逆行でしかありません。

個人の自由などと喧伝されても、それがエゴ(「われわれ」のない個人)の代名詞にしかなっていないことで、個人は「みんな」の域をでることがありません。

(かといって、あたしはインターネットをあきらめたわけでもなく、それは『テクストの快楽』@ロラン・バルトの可能性なのですが、それについては、またの機会にでも書きますわ)。

テレビ村と消費者と「みんな」

では、テレビ村はどうでしょうか。《テレビ村の領主的な「テレビ王侯貴族」》(@江弘毅)は、「みんな」の意見は私がつくる、と言っているのかもしれませんが、たぶん、そんなことはいわなくとも、そうなっているのでしょう。(集団経済は世界中の消費活動をシンクロさせ{みんな」をつくることでしか市場を確保できませんから)。

ウィークデイの朝、あたしはフジテレビの「目覚ましテレビ」を見るのを日課にしています。それはあたしの選択ではなく、家人が好きなのです、と言い訳したところで、それを見ているのは他ならぬ「私」なので、つまりはあたしの選択なのですが。

そこでのあたしも、家族とだけでなく、それを同時に見ている全国の何千万の人たちとシンクロしている、同じ時間を過ごしている、集団的で、しかし一人ぽっちの「みんな」です。

あたしはじじい化していて、時々TVに向かって怒りのことばを発しては家人から顰蹙をかっていたりするわけですが、「めざましテレビ」に限らず、テレビを見ていると、まず内部リンクの多さ(番宣)に、あたしの欲望は萎えてしまいます。(あたしのブログじゃあるまいし)。

そしてTVショッピングほど露骨ではありませが(それだからこそより注意が必要な)、ある特定の消費への巧妙な誘導を感じます。そしてその消費にときどき乗っていたりするあたしがいるわけですが、そのときのあたしも、集団経済を形成する「みんな」でしかありません。

余談ですが、あたしのサイトのアクセス解析は、けっこう面白い結果を提供してくれます。あたしのサイトは浅草のくいものブログ(もちろん「街的」中心)ですが、掲載している店がTVで取り上げられたりすると、べらぼうにアクセス数が増えます。テレビ村の皆さんは正直に反応するのですよ、反射です。

それは視聴率のようなものですが、(残念ながら)あたしには、あたしのサイトに来てくれた人々が誰なのかがわかりません。つまり(あきらかに顔見知りからのコメントやトラックバックを除いては)、あたしにもその方々はシンクロして動く消費者なんですよ。

そういう方々は、対象のページだけ見たら、長居は無用とばかりに、さっさとうちのサイトから離脱します。つまり直帰率は1.00という「みんな」なのですが、よそ見したら面白いものがあるかもしれない(ない可能性の方が高いのですが)、という偶有性のお楽しみもないのです。

「街的」という「われわれ」

そして「街的」で酒を飲んでいるあたしも、まるでカウンターに並んだパチンコをする人なのかもしれません。しかし「袖ふり合うも他生の縁」を地でいくように、あたしの酒飲みにはいつも〈他者〉がいます。誰かと寄り添うように酒を飲んでいたりします。

その街場の酒場が「われわれ」であるなら、あたしはそこから「私」として立ちあがることができそうです。もちろん、あたしの「われわれ」には「桃組」もあり、「浅草」もあります。江弘毅には、「140B」があり、そして「岸和田」という「われわれ」があります。もちろんもっと沢山の「われわれ」 にあたしらは属している。

その沢山の「われわれ」には、それぞれちがった「私」がいたりますが、そういう違い、差異、もしかしたら矛盾を、あたしの中で織り成す(編集)していくことで、あたしという個性がつくられていくプロセス、それが「固体化」であり、それを生み出す「われわれ」こそが「街的」なんだと思うのです。

生活しやすいとか、思いやりがあるとか、下町情緒に溢れたとか、人情に溢れたとか、そんな形容詞で「街的」は表現できるものではありませんよね。「街的」とは「私」がつくられていくプロセスのことです。

だから《街場ではがははと笑い大酒くらい夜ごと夜ごとの「失言、失態、失禁(@バッキー井上)」で、毎朝便所で一人泣いてます》江弘毅は、「われわれ」であり「私」なのですよ。けっして一人ぽっちの「みんな」ではないのです。

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2008年02月11日 16:41

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コメント

140B劇場浅草・岸和田往復書簡楽しく拝見させてもらっています。

今回の記事、私もパチンコ嫌いなので、楽しく読ませてもらいました。
確かに、地方とか郊外ではパチンコ屋が乱立していますね。なにか普請中だなぁと思ったら、パチンコ屋か
、ショッピングセンターか、ラウンド1のような総合アミューズメント施設のどれかですものね。

私は京都生まれなのですが、たまに京都の繁華街(河原町周辺)に遊びに行くと、必ずといっていいほど、新規のパチンコ屋とカラオケ屋(10階建てぐらいの)ができています。

私はカラオケもあまり好きじゃないので、これらの建物の居丈高な佇まいをみると、なんだか悲しさを覚えてしまいます。親しんでいた場所なのに、よそよそしく感じてしまいます。町の変貌なんて簡単に起こることなのですね。あるいはそんなに簡単に変容をとげてしまった町というものは、そもそもが街たりえてなかったのかもしれません。

(それと私は桃知さんのサイトで色々と面白いものをみつけてますよ。例えば、「グーグルは純粋贈与だ」というのはすごい指摘ですね。グーグルについて書かれている本はいくつか読んだり色々記事を目にしたりするのですが、これほど簡潔にして深くとらえたものはないと思います。みんな、もっとサイトも街も探索したらいいのになと思います。)

これからも頑張ってください。応援しています。

草々。

投稿者 コーギー : 2008年02月12日 01:11

>コーギーさん

こちらにもコメントをいただき感謝いたします。

パチンコがお好きじゃなくてよかったです。ついでにあたしもカラオケはあんまし好きじゃないので、次回はカラオケでいこうかなんて思ったりしました。(笑)

なんといいますか、人間の「欲望」ならぬ「欲動」という低レベルに働きかけるものに溢れていく次代ですね。TVも消費も政治もです。

スティグレールは、「テレクラシー」という言葉を使うのですが、それは、政治家がテレビやインターネットを利用して視聴者の欲動のレベルに訴えかけ、ポピュリズムを煽り、政治そのものがテレビのリアリティ・ショーと化している、というものです。

たぶん、そういうレベルで世の中は回っているのだと思いますが、皆さん、そろそろそういうものに飽きてきてもいいのじゃないかとも思うのですが、「交換」はなかなかしたたかですね。

つたないテクストですが、毎回、頭をひねって書いています。
今後とも宜しくお願いいたします。

投稿者 ももち : 2008年02月12日 14:19

コメントありがとうございました。

桃知さんもカラオケお好きじゃないのですね。
私は学生のときカラオケになじめなっかたために、
人付き合いに苦労しました。
まぁ、往復書簡なので流れもありますから、ぜひにとは言えないのですが、街場のお二人から見たカラオケというものについて、一度聞いてみたいものです。

これからもよろしくお願いいたします。

投稿者 コーギー : 2008年02月12日 23:49

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