テレビ村には、どうも馴染めんなーテレビ共同体から遠く。

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テレビ村の「接続コミュニケーション」は街的でない。

テレビのコミュニケーションに関しては、いみじくも府知事選挙に圧勝した橋下氏も、

テレビの場合は、何をいってるかなんて、本当は誰も聞いちゃいないんです。だけど、真剣に何かを話してるってイメージだけはちゃんと伝わる(橋下徹著「まっとう勝負!」小学館@毎日新聞)

と言ってるわけで、ほとんど「わたしは話しかけているんです。いいですか?」みたいなメタ・メッセージだけのコミュニケーションのみで、そこにすべてがある。

コミュニケーションには接続・伝達・理解の三段階がある。

接続コミュニケーションは「これはコミュニケーションですよ」という合図のことである。

「交話的コミュニケーション」とロマン・ヤコブソンが名付けたものである。

「もしもし」とか「後ろの方、話、聞こえてますか?」というようなものがそれである。

コミュニケーションが成立していることを確認するためのコミュニケーションで、「メタ・コミュニケーション」とか「コミュニケーションのコミュニケーション」とか「解錠するコミュニケーション」とか、いろいろな言われ方をする。

これは送信側と受信側で誤解の余地のありえないと想定されているコミュニケーションである。

などと急に言われても意味がよくわからない人もいるであろう。

というようなのが「それ」である。(接続的コミュニケーションの陥穽@内田樹の研究室

ほんとうに「それ」だけで、コンテンツやメッセージ、つまり「話」はその回路に乗ってこない。「いまどこ?」「電車の中」みたいなケータイ電話的な接続のみのコミュニケーション。「つながり」の社会性というやつで、「首尾良くつながること、他者にちゃんと覗かれること」(@北田暁大)ですね。

しかし「いいですか?」といきなり言われても、その話の「何がいいのか」わからない。しかし、とりあえず話者に「注目」することが強要される。そこには「聞く」はない。「何をいってるかなんて、本当は誰も聞いちゃいない」からだが、これはワイドショーどころかまるで広告、いやまるごとアドバタイジングでなかなか気が滅入るのですわ。

しかし考えてみれば、メタ・メッセージというのは「これは現実の話です」「わたしは真剣に怒っているんだが」というもので、その後のメッセージの「本体」をどう解読するかを示すようなものですね。このメタ・メッセージを読み解くのが、例の「場を読む」「空気を読む」と言うことやと思うのですが、それは本来は話の身振りや、表情、声の感じやその文脈的状況で、そのメッセージ「本体」の「読み方」を判断することですね。

レヴィナスの〈顔を見る〉というのがこのことなのでしょうが、一体こいつは何を言おうとしていて、そのメッセージ自体、信用できるのかどうかということを読み解くことでもある。そこがほんまの街的なコミュニケーション能力、すなわち「顔に担保されている」コミュニケーションということです。

「信用できないヤツが発信するメッセージは、そのメッセージ自体がホンマかどうか以前に、信用しない方が無難」と言うことですね。

だからこそ橋下氏は茶髪、グラサンをやめてスーツを着て、マニュフェスト討論会の打ち合わせの時に、人の話を聞いていないで手鏡ばかり見ているわけです。

ただそのメッセージすなわち話の「中身」が極めて薄いもの、つまりちょっとした物語にもなってないそれが例の「んげ」「ほげ」のコミュニケーションですが、まさしく「それは動物か!\(-_-)」「ギャル文字万歳なのである。\(^o^)/」であって、

その意味するところは深遠であるのだが、深遠である、と書いたところで、その意味は、わかる人にはわかるけれど、わからない人にはわからない、というようなものなので、威張るようなものでもないわけだ。

テレビ村の階級固定。それはやっぱりあかんやろ。

けれども岸和田だんじり的共同体において、一番始めに教えられ了解させられることは「挨拶は、ないんかい」であって、すなわち「まいど」と言われると「おいど」と返す、なのです。

「んげ」「ほげ」と「まいど」「おいど」のどこがどう違うのか、と問い詰められても困るわけだが、「いいですか?」とは決定的に違う。それはテレビ村の住人というのは、明らかに「送り手/受け手」で区別されているからで、

その理由は簡単で、浅草に住むあたしは、橋下さん以外の候補者を知らないからに他ならず、たぶん大阪のおっちゃんも、おかんも、同じテレビ村の住人として、橋下さん以外を知らないのだろうな、と思ったからです。つまりその根拠は、橋下さん以外はテレビに出ていないから、というべらぼうなものです。

「べらぼうなもの」はもちろん送り手=公的だから「べらぼう」で、それはその村で「首尾良くつながること、他者にちゃんと覗かれること」が第一義ですが、また一方ではテレビ村の支配者なのです。そしてこの支配者は「ちゃんと覗かれていること」をパノプティコン的に強要する「いいですか?」の権力や特権を〈所有〉している。〈所有〉というのはこの前書きましたが、誰かのモノから誰かのモノに所有権が変わるから所有であるわけで、その特権を持つ/持たないの差異ですね。

元々入れ替え可能なのが〈所有〉ですから、その特権を守ることすなわち差異を固定するベクトルがもうひとつの「べらぼう」なのでしょう。差異の固定とはもろ〈階級〉ですね。

だからテレビ村の住人は、領主的な「テレビ王侯貴族」と農奴ならぬ「テレビ奴」に完璧に分けられる。そしてテレビというのは実体がないメディア(媒体)なので、王侯貴族たちはその空虚を補うように、テレビというシステムを支えること、すなわち「テレビは偉い」ということを刷り込むことだけに命がけになる。

この国の人びとは本来「じぶんはたえず空腹でいて/主人の豪華な献立のじまんをする。(@金子光晴)」ムラ的な根性を持っている。それが「テレビ奴」なのですわ、と考えるわけです。

だから視聴率を稼ぐための一所懸命は「べらぼう」ではなく、テレビ奴をくくりつけておくその階級制にこそ「べらぼう」があるんやと思います。

わたしがテレビを「やんぴ」したのはそこのところが「街的でない」と思ったわけで。わたしはもともと商店街の子で、店の2階に家族兄弟で住んでいて、その商店街の裏通りの長屋には、大工やブリキ職人がいた。そういうところの住人だから、テレビ村の権力にはどうもなじめない。あかんのです。

だから、「ええい、革命家にでもなったるやんけ」と思ったわけです。その革命家は、街場ではがははと笑い大酒くらい夜ごと夜ごとの「失言、失態、失禁(@バッキー井上)」で、毎朝便所で一人泣いてますけどな。

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2008年02月08日 07:26

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