「みんな」と「ワシら」は違うけど、ひっついてるな。

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オレの町内に昔、2軒のパチンコ屋がありました。パチンコは中学校3年から本格的にはじめて社会人になって止めましたが、「みんな」ではなく「われわれ」なんだ、ということはパチンコの話でほんまよくわかりました。パチンコを一つのネタにするとは、うまいこというな、です。ものすごいおもろかったです。

いきなり高校の時の十八番の宴会芸だったパチンコの呼び込み「いーらしゃい、いーらっしゃいませい、うぁりがとうございます(中略)今日も来ぃました、打ぅちました、取ぉりましたの三拍子。ハンドル操作も鮮やかに(以下略)」をやりたくなりました。

ところで「みんな」って一体誰のことやねん。というのは、ガキの頃からの「問いの問い」みたいな感じでよくあったことです。

「考える力」というというものは、「考え方を考える」ということで、「あらかじめ正解の知られていない問い」あるいは「そもそも正解のあり得ない問い」について考える能力である。通常は「問いの立て方そのものについて問う」という仕方で、問いを「正解から解放する」というかたちで思考は始まる。

とはかっこいいフレーズですな。多分、内田先生がどっかで書いていたのをわたしがパクって、パソコンに書き入れたものですが、「みんなって誰や」という問いを立てると、いきなり「それではお前は誰やねん」と返ってくる。

岸和田の「ワシら」のありよう。

岸和田の悪ガキは、どんな時にも必ず悪さをして母親から「みんな食べてるのに何であんただけ食べへんのや」とか「みんな右を歩いてるのにあんたはなんで左を歩くんや」と叱られる。すると「ほな、おかあちゃんはみんな死んだら自分も死ぬんか」と必ずいう。トラディショナルですね。オーセンティックというか。

それは同様に「世界でわたしがなぜ一人しかいないか」という問いでもあるわけです。これがずばりモナドというもんと違うのかと思うのですが、それは「赤信号みんなで歩けば怖くない」みたいなテレビ村の住人宛の抜かれたもんでは絶対ない。

ちょっと前の亀田大毅話なのですが、大阪出身のとある週刊誌の編集者から電話がありました。今回の記者会見と亀田家のことは、いったい地元の西成とか岸和田とかの人はどう思っているのか、ということでした。

西成と岸和田は同じ大阪の典型的な下町としてのイメージがあるのでしょう。わたしはそのときに「ワシら」つまり「われわれ」ではなく「みんな」がどう思っているのかと思い違いしていたのです。

そのときその「みんな」は、桃知が過不足なく言った、集団的で、しかし一人ぼっちの「みんな」、ということではなく、西成や岸和田といった亀田的大阪精神の基盤を「共有するはず」の「みんな」のことでした。しかしこれは「みんな」なんてものではなく、「n個のわれわれ」であるわけですね。

わたしは子供の頃からずっと一緒に祭をやっているテーラータカクラのM人にさっそく電話を入れ聞きました(彼は実録書『岸和田だんじり若頭日記』に最多登場する)。今回のことについて、だいたい岸和田の居酒屋やスナックでどんな風に言われているか、と。「そんなもん関係あれへん。先週でもう済んだ。今、岸和田の鮨屋や飲み屋の話は北町の昇魂式しかしてへん。岸和田でいま亀田の話をやってるヤツは、変もんや」

昇魂式というのはそれまで曳いていただんじりの魂を抜く儀式で、北町のそれは大正6年製作のだんじりで、90年曳いてきただんじりに別れを告げ、翌年の祭には新調されただんじりを曳くのです。ちなみに亀田大毅の試合は10月11日で、北町昇魂式はその21日。

もう一人、こういうことにかけてはうるさい本町のH、かれはうちの町のM人と同じ年にカシラをやっていた、に聞くと、「やっぱ親が悪いんちゃうか。そやけどそんなんは内田せんせに聞いたらエエやんけ」とのことで、「お前今、どこにおんねん」と逆に聞かれました。

「すまん、神戸や」と答えましたが、見事な「ワシら」ぶりですね。それは「みんなに溶解した個」ではなく「エッジの立った個」であるわけですな。「ワシら」がレイヤーとして層になっているから個が立ってくる。

しかしながらこの亀田家の話もメディア的、つまり「テレビ村」のありようそのものですね。テレビ村には境界がないから「地域」がない、「地域」が存在しないということは、自分が実際に立っている地面のそのものの範囲の場所つまり「地元」がない。加えて視聴者や読者を「消費者」としてしか照準しない、そこに消費者としてしか生きられない「わたし」の不快感つまり「生きづらさ」がある。それは、

集団経済は世界中の消費活動をシンクロさせ「みんな」をつくることでしか市場を確保できませんから

ということになるわけですわね。

消費者として誰かに「ターゲット」にされる、というのは「おまえの欲望はこれだ」と指し示されているのと一緒でものすごくうっとうしいですね。

欲望充足というのは、例のカツ丼の話のように、カツ丼が目の前に出された瞬間が充足の最大接近で、一口喰うと、もうカツ丼への欲望は漸次失われてくる。欲望の絶頂と充足を同時に経験されることは原理的にありえない(@内田樹)。

これなんですが、だからといって消費をやめることはできない。それは実際、まるで嗜癖的なんですが、「エエ服着て、エエもん喰うて、エエとこ住んで、エエクルマ乗って…全部しまくったけども、なんやピンとこない」となることは稀で、「服も、食べ物も、マンションも、クルマも、○×も、もっともっと」とし向けていく。そして○×はいつも空虚にちがいない。

だから「ワシら」は考える、の1回転半ひねり。

こいつに抗うには、徹底的に消費者として標的にされることに抗うしかない。それには「ちょいデブおやじ」なんて言われたときには「おれは本デブじゃ」、「ちょいワル」に関しては「すまんな、全ワルやねん」という、その都度のマーケティングをぶち壊すような応答が必要だと思うのです。

象徴(界)の貧困」というのは、わたしはもひとつよくわかってないのですが、その応答が要するに一回半ひねりの「キアスム的な何か」が絶対必要ということで、これは徹底して哲学的=「消費的ではなく実生活的」になる覚悟が必要だと思うのです。

「みんなて誰のことや」と訊かれると、それは「みんながみんなと思っているみんなや」ということにして置いといて(括弧入れか)、「われわれ」というのはこの場では一体、「有りか無しか」を問うということで、それは「みんな」というものを足場にモノを考えたりすることを一旦やめてみる、ということでしか考える足場がないということですね。

そういう意味で、帝塚山や上町台地のほんの一部を除いて基本的に下町ばかりで構成されている大阪にいる、ということはのっぺり郊外化した「みんな」はかろうじて全景化してないということでした。何が言いたいかというと、大阪という都市はまだまだ「実生活」が「生きることにおいてメインである」ということです。

これについては、大阪市は生活保護費が2300億円で全国最多。市の歳出の15%である。というのでは必ずしも浮かび上がってこない。

そして大阪市のまちづくり系の仕事をやっているとわかるのですが、キタもミナミも生野も大正も十三も違う。

「へえー、大阪って24区もあるんだー」
と、感心している場合ではない。
平野区、港区、生野区、此花区
などなど人種も違えば、街並みも、
店やら空気感までぜんぜん違う。
当然「旨いもん」だって。
大阪的、ではなくて独特の
○○区なるもの。
ホンマの大阪的「まいど」生活、
ここにあり。

これは『ミーツ』01年3月号の「大阪24区。」の特集リードであり、大阪市営地下鉄の広告車内吊りのコピーだが、これを見た乗客が「不適切な表現がある」として、市交通局は市の人権啓発課に意見を求め、その結果いったん掲載したポスターを地下鉄から外した。この出来事は、わたしが編集長をしていたときのことで、朝日新聞にも報道されたが、もうお分かりのように要するに「差別的」だということなんです。

まったく「あのなあ」とおもって、大阪市交通局と正面切って揉めたりましたが、これについてはもっとありますがまたということで。

「ワシら」の「街に守られるがゆえに、人が人を守る」はなかなか難しい。しかしそこに賭けるしかない。ちなみに今日の日刊現代だったか夕刊フジだったかの橋下知事について書いてた。

見出し 就任わずか10日 府民から大ブーイング

記事書き出し 「やっぱり口だけやったんかい」「アカン、一杯くわされたわ…」

今日、NHKのラジオの日で、地下鉄谷町線に乗っていて横のおっさんの新聞をのぞき見したのがこれで、あわててケータイにメモしたんですが、こういうところが実は「われわれ」と「みんな」のマージナルな面と面とが接している境界だと思うわけですわ。

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2008年02月17日 09:42

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