頼むし、「都市計画」「まちづくり」みたいなもんは止めといてくれ。

Twitterでつぶやく

「商売」と「ビジネス」の間

毎日新聞からみの大阪市のまちづくり系のシンポジウムにパネラーとして呼ばれました。

メンバーは工学部ケンチク系の大学の先生と、都心のビルにそれにふさわしいイケてるテナントをひっぱってくる人、それと外国企業のオフィスを仲介する不動産屋さんのアメリカ人でした。

話はメインストリートである御堂筋とその周辺の街の「活性化」についてですが、「都市の風格」とか「新たなブランド」とかが「まいど」「どうも」みたいな感じで企画書にあらかじめ出てきていたのですが、わたしはあいかわらず、大阪ミナミのアメリカ村南船場が、「そこだけ」の手触りや息づかいがする形成のされ方をした。それは行政やデベロッパーによる再開発とか、駅ターミナル型の開発とは違って、自然発生的に街ができた。とかを一生懸命話します。

そんな街は、時間軸を包含してますね。「グランドオープン」とかで、マスコミを呼んでプレス発表をしてテープカットをする、というような街ではないです。グランドオープンにしろオープニングイベントにしろ、それは商業施設が商業施設たるゆえんのもので、商業施設は消費のための空間ですね。ということをわたしは真面目に言うわけです。それは桃知の言う、

「かかわる」対象を〈消費〉中心に考えるなら、それは「みんな」を相手にしているだけしかなく、「私」にも「われわれ」にもかかわれない。つまりはリージョナル性=パトリが欠如します。パトリなき編集はヘタレでしかなく、意味(サンス)が欠如した、意味作用の伝達でしかありません。

ということそのものなんです。けれども大阪の南船場や堀江でオレらが現場で見てきた「行きたい店がないから、自分たちでつくる」「自分がいいと思ったものを自分が流行らす」としてやってきた先駆者たちは、あんまり商業施設においての利潤追求というベクトルがなかった。そういう視点は持ちたかったけど持ちようがない、というのが実際のところでした。

もちろん彼らつまり「私」とか「われわれ」がその街で生きていくために、つまり食べていくために「商売」すること、それは商品がよく売れたり儲けたりすることで必然なんですけど、失敗するとそれこそ「トンで」しまわないとならない。左遷とか異動転勤とかとかの世界とちゃいます。

経済軸の「まちづくり系」の人たちにとっては、その「商売」というのは「月坪いくら売上が上がるのか」ということですね。こういうことをすれば、こういう施設をつくれば「まちの活性化」すなわちビジネスが如何にまわって、ひいては月坪単価がいくらの店が入って経済効果が上がる、ということから離れることはできません。

70年代以降の大阪の街の痛快さは、いつも「大が小のあとをついてくる」ということでした。

それはどういうことかというと、まず「何かやろう」という人が何の前触れもなくいきなり出てきて店をやる、そのあとに「それ、おもろいなあ」とか「あそこイケてるなあ」とか感覚的な嗅覚みたいなもので追随するものがその近くにまた出てくる。

それからどんどん人が集まり、人が人のみならず店も呼んでくると、そこが例えば「南船場」ということで街が「新しく分節」される(街のブランド化ですな)。新しい街の分節は、記号としての新たな「場所やエリア(名)」としてその差異が固定されるということで、そうなるとその「場所」で数字を叩いてやろうという企業が出てくる。

さらにどんどんそうなると、そこで「何かをやることが商売になるということ」が情報化され、大資本がやってくる。その時に、一気にブレイクとまあ、こうふうになるわけですが。それはもう家賃が1坪いくらでうちの場合はこうで、これは商売可能やというマーケティング上の判断しかないわけです。マクドでもスタバでもアルマーニでもルイ・ヴィトンでも何でもええけど、グローバリゼーションにおいての「ビジネス」というのはそういうことですね。

それが桃知のいう、もろ「経済成長が日本の大人をダメにした」ですわ。生活水準が一桁上がるということは、アメリカ村で2000円のTシャツを1日に10枚売っていた(いる)が、南船場の今は、お嬢ちゃんカルティエもあるよ、大将ダンヒルもありまっせ、そしてマクドナルドやローソンは月坪50万円いってる「好立地」なわけです。そうなると、街で大人が消費者である子どもにひざまずくようにもなる。これは街では最悪なことですわな。少なくともだんじり祭はできない。

大阪はご存じの通り、もはや「底値のついたヤケクソ感」がしてるのですが、それは経済軸の活気とかばかりが言及されるがゆえの「あかんモード」の充満感みたいなものです。

こないだ日清食品が本社機能を東京に移したとかで、ある週刊誌の記者に「どう思います」なんてコメントを求められましたが、「そんなん、もうどうでもええやんけ」となることがドライブしている「大阪あかんモード」でもあるわけです。ちょうど

そんなあたしは、〈消費〉については(〈消費〉を散々消費してきた者として)、ぶっちゃけどうでもよかったりしています。記号的消費でも、象徴的消費でも、誇示的消費(@ヴェブレン)でも好きにやってちょーだい、と思っています。

と、そっくりな感じですわ、ぶっちゃけ。

情報化社会とソーシアル・キャピタル、ってかぁ

そのシンポジウムは、だいたいこのところおきまりですが、大阪市で行政からみの「都市デザイン」とか「地域計画学」専攻の学者というのが出てくると、いつもイタリアのフィレンツェがとかローマの再開発がとか、まだまだノリがイタメシなところがあってアルファロメオなんですが、とどのつまり「成功先行事例」なわけで、そんなものはどこに行っても通用しない。

それは決定的にMBA的なビジネスの世界ではないし、なぜなら街には街のその成り立ち方というものが全然違うから「その街」なのであって、そもそもアメリカ村でも南船場でも堀江でも(浅草でもいいのですが)そのOSが違う。

いろんな街に差し向かいになって、また長い間取材してきて、おもしろいところは、南船場では急に茶髪の若い衆が少なくなって黒い髪になってきたなあ、とか、へーぇ、ここでは破れたジーンズはもういなくなってきた、とかの、「どこか違う明日」「どこか違う来年」に対しての今と未来の結節点みたいなものが、ときどきパチリと見えたりすることですね。

だから、「ハヤい遅い」が言及されたりするのですが、「みんな」では決してないその街の構成員である「われわれ」には、実際のところ「やりたい人が、やりたい時に、何をやってきたか」の残った足跡しかわかりません。正味のところは。

それが「情報化」され南船場「情報」となって、その「情報」から「これはイケる」と判断した事後的な時間軸で、フェンディやフェラガモ(グッチかもしれない)が、はるばるやってくるわけでしょうが、そういうことが身体でわかっていない。

養老孟司先生から「情報」と「情報化」というのはまるで違うことだと教えていただいたことがある。 情報化というのは「なまもの」をパッケージして、それを情報にする作業のことである。 例えば、獣を殺して、皮を剥いで、肉をスライスするまでの作業が「情報化」だとすると、トレーに載せられて値札を貼られて陳列されたものが「情報」である。 「情報」(トレーの上に並べられた肉)を他の「情報」(隣のトレー)と見比べているときに、(こちらが豚肉で100グラム200円、あっちは牛肉で100グラム400円・・・というような比較をしているとき)それが「情報化」されたプロセスのことを私たちは考えない。情報の差異の検出に夢中になっているとき、私たちはそもそもそれらの情報がどうやって私たちの下に到達したのかという情報化プロセスのことをできるだけ考えないようにしている。 私たちの脳は同一の事象について、「水平面の差」と「階層的な差」を同時に認識することができないからである。 そして、情報と情報の差は「空間的に」表象され、情報と情報化の差は「時間的に」表象される。 とりあえず、「空間情報処理のために用いる知的エネルギー」と「時間情報化のために用いる知的エネルギー」はゼロサムの関係にある。 あちらが立てばこちらが立たず。私たちの社会で起きているさまざまな問題はこの「情報と情報化の階層差」の見落としに起因しているように私には思われる。(内田樹の研究室 2008年2月05日 「情報」と「情報化」

その同世代の大学の先生は、「ローマ都心のパラッツィオが、まだ3代目のフェンディによって買収され活気づいた。そうです世代交代です。船場でも世代交代を考え、元気な若者に場を与えましょう」とかいって、オレはああこの人はモエ・ヘネシー(のやり方)を知らんのかと思うのと同時に、鰻谷のバーで桃知のようなヤツに「ミラノかミイラか知らんけど、なにをごじゃごじゃ言うてんや」と絡まれたり、堀江のカフェで派手カワ系の女子に「おじさんウザイ」とか、言われたことがないのかとも思ってしもたのでした。

そのディスカッション模様は毎日新聞に載るそうで、今ゲラを見ていますが、「そうした既存の業種に飽きたらず、ネイルサロン、ペットホテルといった大阪らしい『新世代ビジネス』をスタートさせる人も出現しています」とあって、うーん、ネイルサロン、ペットホテルはこの人にとって大阪らしいのか。この人はひょっとしてホステスとかママさんとか日本橋とか湊町とかにくわしい人かいな、と思ってしまうのでした。

しかしリチャード・フロリダの「クリエイティブ・クラス」とか、ロバート・パットナムによる「ソーシアル・キャピタル」とかが、その同じ人の口から出ると、「ダサいヤツはアルマーニを着てもエルメスを持っても何を着てもダサいからダサい」などと思うしかない。

ソーシアル・キャピタルって、つまりその「信頼」ですわね。桃知の例の「何らかの将来のお返しの一般的期待はあるけれども、その正確な性質はあらかじめ確定的に明記されない」というヤツですね。

そんなもんはソーシアル・キャピタルとかで新たに定義しなくても、岸和田やミナミ(浅草もか)初めからバーンとあるもので、それがあって初めて「私」が「私」として「われわれ」を構成している。そういうものですね。

だから談合も当然ありだし、話がまとまらなかったら最後に挙手の多数決、いや少数意見の尊重や、みたいな社会的関係性によるオプションプレーがありありですね。

しかし、隣と隣の隣とそのまた隣の人が何人で何を考えているのかがわからない、だからとりあえず弁護士も必要だわな、いやオレは鉄砲を持っとく西部劇みたいなところでは、信頼なんか生まれてきようもない。

これこそ「グローバルスタンダード」とかいったものが出てくる砂漠的土壌ですわな。まあオアシスもあるけれど、そこではマクドナルドに並びように順番に並ぶ。水を持ってきてくれるねーちゃんは、もちろんスマイル(0円である)。顔役が入ってきて「親分どうぞ」となったり、「みんな、すまんなあ。お先に」とか「子供に先に飲ましたらんかい」とかは、許したりすることは出来ない。

その場その時そのメンバーのオプションプレーはない。だから何でもかんでも、ビジネスモデルとかロールモデルとかでしか発想できない。街や街についてを話す際に、何でソーシアル・キャピタルみたいな言葉が出てくると、おもろくなくなるのやろか。

Twitterでつぶやく

2008年03月29日 08:00

このエントリーのトラックバックURL

http://www.140b.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/274

Listed below are links to weblogs that reference

頼むし、「都市計画」「まちづくり」みたいなもんは止めといてくれ。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡

トラックバック

「なぜにあなたは自営業者なのか」と尋ねられれば、「鬱陶しい人間とはできる限りかかわりあいたくないから」とあたしは答える。 from モモログ (2008年03月29日 09:39)

「ポーキュパインフィッシュのような人」とうちのかみさんがいっている洪弘毅から、往復書簡の原稿が届いていた。取り急ぎ「大福のはなし」を書いて、洪の原稿をアップする ...

コメント

江さんはじめまして。
いつも江さんと桃知さんの往復書簡楽しく拝見させてもらっています。

突然ですけど、私は現在大阪に住んでいます。大阪といっても北摂の
、実質は大阪ではないような町、街以前の町、街になろうとしてなれなかった町、
消費者としてしか、サラリーマンの寝床としてしか機能していない町、ミーツに載せようにも載りようのない町、に住んでいます。

こういう町に住んでいると、時々途方に暮れてしまいます。いったいこの「町」をこの「街」にすることなんかが可能なのだろうか?と。そしてそんな時、岸和田や浅草に住む(住んだことのある)江さんや桃知さんがうらやましくなってしまいます。

私は京都のあるところに生まれ育ちました。そこは今現在住んでいる北摂よりも地域性があったのですが、しかしそれでも岸和田や浅草のようなところに住んだ事のない私には、
江さんや桃知さんのような街に関する圧倒的なディテールやデータが不足しています。ですから街を語ろうにも、私の口から出てくるものといえば、江さんや桃知さんの言葉をたどたどしくなぞっただけの、
他人にはとうてい届かないような浮き足立った言葉だけです。(さっきから卑下しすぎてますね。)

しかしこんな私でも大阪市のまちづくりに関する今回のシンポジウムについて、そりゃ違うわな、と思ってしまいました。

行政やディベロッパーによる再開発なんて問題外だし、そもそも大阪市だけをいじったところでどうにもならないところまできているのに、そのことにまったく気づかれていない。そう思いました。

大阪にとって重要なのは大阪市を「開発する事」ではなく、むしろ「開発しない事」じゃないのか。

そうすれば大阪市に依存する、大阪府内の他の市においても街が立ち上がってくるんじゃないのか、と。
殆んど暴論としてとらえられそうですが、
このほうが大阪全体にとってはいいと思うのです。

さて今回、江さんが参加された
先のシンポジウムの記事はいつ毎日新聞に載るのでしょうか?「一応大阪人」の私にとっても、興味
があるので、もしよければ教えていただけないでしょうか。買って読みたいと思います。

乱筆乱文ご容赦ください。これからも応援しています。

投稿者 コーギー : 2008年04月02日 02:36

コーギーさん。
往復書簡をお読みいただきありがとうございます。
毎日新聞は3月31日の夕刊に掲載されてます。

こういう「まちづくり」のいかがわしさは、街を経済軸の観点しか見ないところで話が進んでいくことです。
結局はそういう消費と金儲けだけに収斂していく話はどうあれ、しょうもないとおもうのですが、これについては次号ミーツ連載で書いたばかりです。
これからもよろしくお願いいたします。

投稿者 江 : 2008年04月02日 17:57

江さん返信ありがとうございました。
すでに掲載されてしまっていたのですね。
図書館で読んでみます。
次号のミーツ連載も楽しみにしています。

投稿者 コーギー : 2008年04月02日 23:37

コメントを送ってください




ログイン情報を記憶しますか?

(スタイル用のHTMLタグが使えます)