「輝く都市」が日本の大人をダメにした。

Twitterでつぶやく

千束通り商店街の中心地
千束通り商店街の中心地(台東区浅草4丁目)
写真左が食料品店の「ダイマス」
右にあるのが裏浅草唯一の百貨店「丸重」
このちょっと奥が「吉原」になる

4月になりましたねぇ。いろんなものが値上がりして、浅草も大変です。よく暴動が起きないもんだと思いますが、浅草は年金生活者と、年をとった自営業者の街ですから、そのパワーはないのかもしれません。(笑)

しかしこの金利の低い時代に、物価だけが上昇するというのは、生活者を直撃してしまいます。年寄は物価スライド性で年金が増えるわけでもないですし、自営業者は、物価が上がったからといって、それを簡単に売値には反映できません。値段あげると客が来ませんからね。現金なのですよ、浅草の人は。

そんなもので、環境は、ますます自営業者にはキビシーわけで、だれかが意図的に自営業者を追い込んいるんじゃないのか、とさえ思うのです。まぁ、〈交換〉からみれば、個人経営の非効率的な店を閉させ、一帯を再開発した方がよろしい、という単純な理論なのでしょう。うちの近所でも、路地の店が一角ごっそりとなくなったな、と思えば、そこはマンション建築地と看板が立っています。(最近は建築基準法の改定で着工が遅れて更地が目立ちますね)。

下品/下品じゃない

土地の有効活用とか、経済性という言葉を使えば、モツ焼いて、ホッピー出しているよりも、うどんやそばを茹でているよりも、角打ちで酒を飲ませているよりも、マンション(垂直庭園都市)でもつくった方がよいのは当然なんでしょうが、あたしのような路地教信者にしてみれば、それはなんとも〈下品〉なことです。

江が引用してくれましたが、あたしは、たしかに、

〈消費〉については(〈消費〉を散々消費してきた者として)、ぶっちゃけどうでもよかったりしています。記号的消費でも、象徴的消費でも、誇示的消費(@ヴェブレン)でも好きにやってちょーだい、と思っています。

なのですが、それは投げやりなのではなくて、

あたしはえげつないぐらいの「銭儲け」に対する人間の情熱のようなものは好きで、それが欲望の根底にあることを絶対に否定しない。(「なぜにあなたは自営業者なのか」と尋ねられれば、「鬱陶しい人間とはできる限りかかわりあいたくないから」とあたしは答える。 from モモログ

からでして、その「銭儲け」というメタ欲望に、下品/下品じゃない、の区分はないと思っています。

しかし、そのプロセス、手段に対しては、下品/下品じゃない、を区別する心象は持ち合わているつもりで、時々あたしは「それは下品だ!」とい言ったりしています。けれど、その下品/下品じゃない、の線引きは、人それぞれに一様ではない。なぜならそれは、それを判断する「私」の問題、つまり「われわれ」の問題だからです。

あたしは「居酒屋浩司で昼間からホッピーを飲んでいる」ことを下品だとは思いませんが、そんなあたしの心象は、この浅草の「地面から生えてきたモノ」であり、暦と地図であり、つまり「街的」なのだと思います。しかし、それを下品だと言われる方々もおられるわけで、そういう方々の多くは、ナイーブなル・コルビュジエ信者(もしくはデカルト信者、もしくは単純な科学的信者)なんだろうな、とあたしは勝手に解釈しています。

輝く都市

ル・コルビュジエは、欧州で近代が本格化した時代の、最も著名な都市計画論者のひとりですが、彼には『輝く都市』という著作があります。それは、その後の都市計画において非常な影響力を持つのですが、その主張はまとめてみればこんなものです。

〈大公園を通って、輝ける都市に入れば、私たちの乗った自動車は、豪壮な超高層ビルの間につくられた高架の自動車専用道路を、スピードをあげて走り抜ける。二十四階の超高層ビルがつぎつぎと現われては、消えてゆく。町の中心には、行政の機能をはたす建物が左右にならび、その周辺には、美術館や大学の建物が散在してる。都市全体が公園そのものなのである。〉

この概念は、(不完全ですが)大阪の千里ニュータウンや筑波の研究学園都市の計画理念のように機能していて、日本には「輝く都市」信者が多いのですよ。たぶん江がシンポジウムでご一緒された方々もそうでしょう。

この「輝く都市」が絶対(というか前提)の方々にとっては、うちの近所(裏浅草)は、〈下品〉であり、再開発の対象でしかないでしょうが、あたしには(そして「われわれ」にとっては)それが下品であるわけもなく、ただ維持すべきモノでしかありません。ここに、下品/下品じゃない、の線引きの違いが既にあります。

もちろんあたしは、古い建物を残せ、古いものはいいんだ、と無邪気に言っているのではありませんね。街は変わるものです。店も変わります。ただ維持しなくてはならないものがある。それをジェイン・ジェイコブズが4原則としてまとめていることは先にも書きましたが、それは「街」に対する信頼であり、ソーシャル・キャピタルです。

J・ジェイコブズの4原則

  1. 都市の街路は必ずせまくて、折れ曲がっていて、一つ一つのブロックが短くなければならない。
  2. 都市の各地区には、古い建物ができるだけ多く、残っているのが望ましい。まちをつくっている建物が古くて、そのつくり方もさまざまな種類のものがたくさん交ざっている方が住みやすい。
  3. 都市の多様性、ゾーニングの否定。都市の各地区は必ず2つあるいはそれ以上の働きをするようになっていなければならない。
  4. 都市の各地区の人口密度が充分高くなるように計画したほうが望ましい。人口密度が高いのは、住居をはじめとして、住んでみて魅力的なまちだということをあらわす。

あたしは土建屋の出なので、ル・コルビュジュと、その対極にあるジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』は必読の書で育ったのですが、「輝く都市」は、ガラスと鉄筋コンクリートを使った、幾何学的デザインの、科学と工業の時代の(そして自動車のための)抽象絵画のようなもので、それは人間の構築物としては最も優れたデザインと芸術性をもっている、とは思っています。あたしは85%ぐらいそれを容認できます。

生活をいとなむ人間

しかし、「輝く都市」には、決定的に足りないものがあります。それは「生活をいとなむ人間」であって、「輝く都市」は、そこに住んで、そこで生活をいとなむ人々にとっては、じつに住みにくく、文化的でもなんでもないことが、実証されてきた。それが「今という時代」なのだと思うのです。

つまり科学と工業の時代の抽象絵画も、「生活をいとなむ人間」にとっては十分ではなかったということですし、「輝く都市」もじつはある時代(つまりモダン)のパラダイムでしかなく、そのパラダイムももはや、今の時代には通用しない、ということがあきらかだ、ということでしょう。

ロラン・バルトいわく、四角形の網状の都市(たとえばロスアンジェルス)は「中心がないことで深い不快感を生む」のはこのためだ、と(あたしは)思う。 そういう街はヘンな犯罪も多い。浅草は犯罪は多いけれども、ヘンな犯罪はない。子殺しもなければ、駅で突然切りかかる奴もいない。路地のある街は、街が安定するのである。(『大阪おいしいROJI本』―あたしも少しだけ書いている。 from モモログ

その欠点を、ジェイコブズは4原則をもって指摘しているわけですが、あたしたちのような「街的」な者(路地教信者)にとっては、それはあたり前田のクラッカーでしかないわけです。しかし、なぜいまだに都市計画において、「輝く都市」が根強いのかといえば、テレビ村の住人(つまりは「みんな」)は「考えない」からでしょう。テレビドラマの中の、嘘みたいな住空間を脊髄反射的に理想にしている。しかしそれは、「輝く都市」にしかない、つまりは、あるはずもない、ただの虚構です。

「輝く都市」は、「地面から生えてきたモノ」、暦と地図、つまり「街的」を破壊してしまうことから始まります。その欠点だらけが、今でもしぶとく生き残っているもうひとつの理由は、その方が手っ取り早く「銭儲け」ができるから、じゃないでしょか。つまり〈交換〉にとっては都合がよいからです。あたしは「銭儲け」は認めても、その思考のショートカット、プロセス無視の心象を、〈下品〉だと思うのです。

自動車という「みんな」のカプセル

そしてもうひとつ、「輝く都市」が前提としているのは、自動車を中心とした生活だということです。それも今の時代なら自家用車ということになるでしょう。 あたしは自家用車を持たない生活者ですが、東京から外へ出て仕事をすれば、必ず自動車に乗せてもらって移動しています。そこで感じるのは、自動車のあまりの快適さです。  

そこでは、リアリティをリアリティとして感じることが難しくなる。車の中は、外気が熱くとも寒くとも快適な空間なのである。匂いもしない。そんな子宮的空間から、ウィンドウ越しに見える風景は、映像メディアに慣れさせられた脳には、まるで映画やアニメと機能等価的なものでしかなくなる。BGMがあれば完璧だろうか。非日常と車の中 from ももち ど ぶろぐ)

つまり快適な車の中とテレビ村は機能等価でしかない、ということです。このふたつは相互補完の関係にあります。車は、「」でも「われわれ」でもなく、「みんな」をつくる装置でしかありません。

装具に取り巻かれた節足動物のように、あたかも装具的な外骨格に筋肉が覆われているかのように、車に覆われた消費者はまるで貝を被った滑稽なヤドカリのようなものです。(ベルナール・スティグレール:『象徴の貧困』:p152

 しかし地方での生活に自動車は欠かせないのもたしかで、それを否定する権限なんて誰も持っていやしません。だからこそ、そこでは理想としての「輝く都市」は健在なわけですが、その結果が「郊外化」なわけで、個人の利便性を追求した結果、「街」は破壊されてしてしまっています。そこには路地に対する信頼もなければ、ソーシャル・キャピタルも希薄であって、あたしが地方で思うのは、浅草の方が、ずっと(昔の)地方的だよな、ということです。 

「街的」というソーシャル・キャピタル 

ソーシャル・キャピタルは誤解も多いのですが、けっこう不快なものです。それはたとえば交通機関であって、あたしは街中生活者として、ちょっとした遠出には、電車とバスという公共財を多用してしますが(普段は徒歩か自転車)、それは当然に〈他者〉との接触を余儀なくされることで、こういうことも起きます。

今日のバスは、競馬もあってか、非常に混んでいた。 しかしそれ、ここは裏浅草である。 乗客の平均年齢は70歳を超えるという按配だ。(たぶん無料パスがあるのだと思う)。 車内は加齢臭が充満し、このバスには間違いなく痴漢は存在しない。 私は、3丁目でWINS目当ての客が大勢降りたあと、座席に座ることができたが、その後の停車場で、これでもかと年寄りが乗り込んでくるのである。 年寄り、ジジイ、ババァ、年寄り、爺、婆、である。 走行中に、ポックリいくんじゃないか、と心配になってくる。 こうなると、お年寄りに席を譲る、は若い者の義務かもしれないが、うかつに席を譲れないのである。 全員が私の席を狙っているのである。 そこの若造、はやく席を譲れ、という無言のプレッシャーが加齢臭とともに私を襲うのだ。 そこで誰かにうかつに席を譲ったら、今度は嫉妬心の嵐に私は襲われるのじゃないのか、という恐怖に、ついぞ上野駅前まで、座り続けざるを得なかった。(浅草のバス、乗客の平均年齢は70歳を超えている。(浅草4丁目から上野まで) from モモログ

このような心象は、自家用車の利用を前提とした生活空間では生まれ得ないものでしょう。しかしソーシャル・キャピタルが生まれる根底には、こんなものがあるのだ、とあたしは考えていいます。あたしは「街的」=ソーシャル・キャピタルだと理解していますが、それは、安っぽいヒューマニズムでできているのではありません。

 しかし、繰り返しますが、あたしには地方での自動車生活(快適と利便性の追求=不便と不快の破棄)を、否定する権限も力もありません。だから街中生活者として、ただ、浅草の中心から「街的」は素敵だ!と叫ぶ、しかないのです。

Twitterでつぶやく

2008年04月07日 12:08

このエントリーのトラックバックURL

http://www.140b.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/280

Listed below are links to weblogs that reference

「輝く都市」が日本の大人をダメにした。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡

トラックバック

全否定なら、「公共事業が日本の大人をだめにした」と書く。 from モモログ (2008年04月07日 14:06)

うちの近所の商店街である、千束通り商店街の中心地(台東区浅草4丁目)。 写真左が食料品店の「ダイマス」。右にあるのが裏浅草唯一の百貨店「丸重」。 このちょ... ...

ほんとにクルクルしているのだわ―Amazon くるくるウィジェット(TM)。 from モモログ (2008年04月08日 14:49)

このサイトでは、Amazonアソシエイト・プログラムを活用していて、おかげさまで、1月に単行本を1冊買えるぐらいの収益をいただいていたりしている。(つまり... ...

『日本文明・世界最強の秘密』 増田悦佐を読む。 from モモログ (2008年04月22日 18:22)

『日本文明・世界最強の秘密』 増田悦佐(著) 2008年3月7日 PHP研究所 1600円+税 ...

コメント

はじめまして、私は南米のパラグアイで開発支援コンサルタント(なんでも助っ人)をやっているものです。農業開発から教育、そして、建築業までいろいろやってきたので、それらのお手伝い屋です。
実は、以前ブラジリアに仕事で2年ほど住んでいたので、私の「ユートピア研究」HPで、ブラジリアについてのル・コルビジュの都市計画を紹介してみました。批判的なことはかかない主義なのですが、実際には、日本の下町が好きな私には、ブラジリアは退屈で非常に住みにくい街でしたので、桃知さんの、「輝く都市」が日本の大人をダメにした、は非常に共感を覚えました。プログの内容も大変面白く、楽しませてもらいました。これからもときどき覗かせていただきます。また私のHPなどへもよっていただいて、感想などを聞かせていただければ光栄です。
http://www.latenshien.com/Utopia/index.html

投稿者 伊藤玄一郎 : 2009年03月22日 06:23

中卒で学のないわたしにはル・コルビュジエもJ・ジェイコブズも初耳でしたが非常に面白い。
ちょっと想像してみる。
たとえば桃知さんの非常に理路整然とした、しかし屈折も密度もある文体はル・コルビュジエ的なのか、それともJ・ジェイコブズ風なのか。
新聞の解説委員の記事の文体はありゃあまちがいなく「ル・コルビュジエ」だ。わかりやすいけど飽き飽きするぴっかぴかのひかりものですね。屈折がない。安物の茶碗のようにあまり品は感じられない。
かといってあまりJ・ジェイコブズ風だと風流人にしか理解されないという側面がある。
それでもいいんだけど。
いや、「それでいいのだ」。


投稿者 イカフライ : 2009年04月04日 20:15

コメントを送ってください




ログイン情報を記憶しますか?

(スタイル用のHTMLタグが使えます)