その4 京都の使い方、遊び方、そして抱かれ方。あー。

京都の店や街は限りなく魅力的だ。
それを感じようとすればするほど術が必要になる。
私達が術を使う必要はない。京都の術にかかればいいのだ。

使い込めば黒光りしてくる街。

俺は京都から49年間、出たことがない。勿論、京都以外の地に足を踏み入れたことはあるがヨソの街で暮らしたことがない。

俺が京都の中京区の錦の高倉で生まれて以来、最も長い間、連続して京都を離れたのはパリかアメリカへ旅行に行った10日間ぐらい。情けない話だ。別に京都に引きこもっているのではない、何度か東京や大阪もしくは地方の街などで暮らす機会はあったが20代の時も30代の時も明確な理由もなく断った、あるいはやめた。

東京や大阪は殺風景に見えたし、乾いた感じに憧れもあったが、街にいる人達が力強い感じがしてそこに暮らす気にはどうしてもなれなかった。地方に暮らすチャンスもあった。みんな何だか優しそうで心揺らいだが街の店が少なそうだったのでやめた。そしてその結果として俺は49年間、引越はしてきたがいつもずっと京都の街で暮らしてきた。

今、思うと京都を離れなかった俺の勘は当たっていた。年々ますます、益々年々、この街のおもしろさがリアルになってきたからだ。この街は使い込めば使い込むほどに黒光りしてきて、とても上等なものが手に馴染んで普段着的なものになってくる。

街のそこここにある普段着的なものがシビれるような輝きやストーリーを持っていることに驚き、街のほんの一部を知っただけでゴキゲンになったり自分が情けなくなったりするし、まるで安全な歴史都市サファリパークの中とは知らずに高付加価値のジャングルで生きているような気がしているのは俺だけか。

特にここ数年は全国的に昭和的なものがオモチャみたいにおもしろがられているけれど、京都の街は昭和だらけ大正だらけ室町だらけだし、生きている人はみな平成的ではなく昭和的だ。また、平成的な人がいてもこの街では存在が薄い。それにしても京都検定は平成的だと思う。どうでもいいけど。

知らないほうがシアワセを呼ぶ。

この街で長く暮らすのが京都を楽しむ最高の条件だとは思うが、俺は時々、観光に来ている人が羨ましくて仕方なくなる。それは「私はどこそこから来ているので京都のことはよく知らないのです」という感じで遊べるからだ。そしてそう言うと京都人は必ずやさしくしてくれる。

フランスやイタリアに行けばもっと世界史を勉強しておいたほうがよかったかなと思うし、レストランに行けばワインのことや食材のことを憶えておいたほうがよかったかなと反省もする。けれども日本のことさえ何も知らないのに他の国やその国の文化のことを多少知っていたとしても、その国その街に行った時のシアワセ度が大幅にアップすることはないのと同じで、知識がなまじあることよりも街の気配や店や人の気配を感じながらその瞬間の自分の戦闘値だけで勝負して遊ぶのが京都ではゴキゲンの近道だと思う。

何よりも京都のことを多少知っていると言う人を京都人は好まない。俺も好まない。なぜなら京都人は京都のことを少しぐらい知っているという自負はあるが、知らないことのほうがまだまだたくさんあると思っているので、ヨソの人が京都のことをよく知っている状況に出くわしたくないし、京都検定の本を買うような人が近寄ってきたら、その場から逃げるか京都以外の話ばかり京都の人はすると思う。

だから俺なら知っていることの楽しさよりも知らないことのシアワセを味わうために、この街に遊びに来る。

もったいない遊び方をする観光客。

残念ながら地方や東京から京都へ遊びに来る友人達のほとんどは、もったいない遊び方をしている。京都駅に着いてホテルにチェックインし、その季節がピークのお寺か神社に行き、人混みにまみれて土産物屋の絵葉書的な景色を見てから、来京する前に「大人の」という形容詞が付いていそうなガイドブックを見て予約をしてきた一撃必殺的な料理屋へ行き、店の人とほぼ会話のないまま二時間ほど上等の懐石を食べてから堪能に退屈をしてどこかで合流して飲もうと俺に電話をして来る奴。

なにがしかで縁を持ったお茶屋に自ら行くことを京都人に自慢げに話をする奴。片泊まりが出来る旅館を妙にありがたがる奴は、東京から進出してきているチェーン店が運営しているとは知らずに京都の町屋の風情を最大限に演出したレストランに吸い寄せられている。

それらはすべてチョット知っていることから来る欲しい欲しい病のたまものだ。京都はそこら中に名所旧跡や神社仏閣があり、町中にもチョットいいなと思える画像としょっちゅう出くわせるし、食べるところも飲むところも高級という意味ではない一線級がゴロゴロしているので、街の気配に身をまかせても充分に楽しめる街が京都なのに。

遊びは目的がないほど面白くてメモリーなものになる。スター級が少ない街や土地ならどこそこの何を見て何を食べるぐらい考えないとつまらないことになるけれど、観光ポイントのスター級やゴキゲンのチャンピオンクラスの店がゴロゴロしている京都だからこそ、あらかじめ目的というか予定を決めないで遊びたい。

俺ならオフシーズンに来る。例えば真夏。

例えば真夏の永観堂に行けば人も疎らで静寂を独占出来るかのようだし、ムシ暑い京都の町中からタクシーで千円足らずなのに境内のその涼しさにも感動する。秋ならそうはならない。紅葉は美しいけれど渋滞するのでタクシー料金は倍ほどかかるし、境内でも観光という行進を余儀なくされる。

梅雨の東福寺もいい。雨の中、ほとんど人とはすれ違わずに通天橋を渡って開山堂まで行き、縁側に腰を下ろし、雨に濡れて研ぎ澄まされた庭園をただ見続けるだけで貴族になれる。東福寺は京都駅に近いから駅についてすぐにタクシーでそのまま行く。千円もしない。ホテルや旅館に行くのはそのあとでいい。

俺は頻繁に京都の超有名寺社仏閣のオフシーズンを見計らって、近所の公園や広場あるいは自分の庭のように使っている。観光シーズン中でもあまり知られていない神社仏閣をよく使っている。

夕方に仕事が一段落して好きな店が開店するまでに一時間ほど時間がある時は、その店の近くにある寺へよく行く。昼に京都駅近くでお好み焼きを食べながら飲んだ後なら、東福寺か泉涌寺に行って座りながら昼寝をしてしまう。

特別展をやってない国立博物館もよく使う(特別展がある時とは空間が全然違うので)。国立博物館の誰もいない噴水の端に座り、ロダンの考える人と腹一杯で何も考えられない俺はよく向き合っている。

昼飯のうまい店が多い左京区辺りで時間があけば、下鴨神社の糺の森。都会の中の森なのに踏み入れば世界は一変する。森の中に誰もいない日もある。調子に乗って赤山禅院まで行く時もある。ここの苔とシダは何とも言えない空気を漂わせている。どこにでもあるかのような居酒屋に行くにしても、店へ入る前にそんなところにチョット寄り道をするだけでその居酒屋ごと輝いてくるというか、酒が鬼のようにうまくなる。

飲み食いでも同じで、予約が取りにくいような京都の料理屋や割烹はさすがに値打ちのあるところも多いが、京都では普段使いの割烹や居酒屋にあえていくべきだと思う。上等なというか高級なところは東京や大阪でも上等だし高級だが、京都は普段使いの店のレベルが他の街と比べものにならない。京都の普段使いの店は「おっうまいな」と呟くか、勘定の時に「えっ安いな」と思うかのどちらかだ。特に二人で二万円ぐらいの店でそう思う。

八月の京都なら二人で六合ほど飲んで鮎を食べて鱧を焼き霜で食べさせてもらい、早松茸で土瓶蒸しをしてもらいながら飲み、締めにちりめん山椒とドボ漬(胡瓜とか茄子のヌカ漬)でお茶漬を流しても二万円でお釣りの来る店はたくさんある。そしてその値打ちは品数ではなく味の加減が他の街と全然違う。うまい。

さらに店の調度も違う。どこかに必ず「おっ」という何かがある。野球チームでいえば層の厚いチームということか。層の厚さでいうなら、京都はうどんもお好み焼きも大阪よりうまいし、ラーメンのレベルも他の街の群を抜いて高い。これを言うと大阪や博多の奴はよく怒るがフグも京都で食うのが一番うまいと俺は思っている。肉も京都で食うのが一番うまいと思う。

街そのものが手練れである。

素材よりも食べさせ方、宝物よりも宝物周辺の設えとその見せ方、価格を重要視させない空気、勝者不明のゲームのような夜の街。

本当に京都は人を悦ばせ、幻惑させ、惹き付ける術をたくさん持っている。この街(街と術という字は似てるな)で長いこと遊んできてつくづくそれを感じるようになった。

また、京都の人は高低や貧富、または強弱などのひとつの物差しだけで計ってくれない、あるいはそれだけで人を見ていない。それは大変ありがたいことだけれども評価をしてほしい人にとっては大変にやっかいなことだ。

例えば偉い人に紹介をされて敷居の高い店に行ったとしても笑顔のお出迎えはあるが「誰それの紹介だから」だけでその店に認められたと思うのは間違いだし、「私は何々だから」と思うタイプの人はそれを見抜かれ、それによって「好かん人」の烙印を押されるだろう。

だからこそ少し得た知識でその術に水を差したり、ガイドブックを見て横着したりせずに、京都ならではのその術というかその空気の中に身を投げ出してみれば思った以上にこの街を楽しめると思う。

この街は欲をかけばかくほど嫌われもするし、損もする。多少失敗してもひるむことなく愛のさざ波のように京都を使い込んでしまおう。

ちなみに京都の街にはアップタウン・ダウンタウンがない。御所以外はすべて下町だ。求めすぎないでいればきっと幸せにしてくれるおばあちゃんのような街だ。

俺がヨソの街に行ってもすぐに帰りたくなるのも仕方ない話だ。あー。

2007年12月03日 17:09

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