その9 欲深き男の、カウンター人生。「アルペジオ」

店はカウンターだ。カウンターパンチを食らうと痛いのカウンターではない。ちょこんと座って店の人と対面することが出来るカウンターだ。カウンターが好きでない人もいるけれど街の店が好きだという人の多くは好んでカウンターに向かう。

それは欲が深いからだと思う。その店のことを知りたいという欲、異性とお付き合いするかのようにその店と付き合いたいという欲。おいしそうな酒や食べ物を見つけたいという欲、自分を知ってほしいという欲、聞きたいことや話しかけてもらいたいという欲などが人をカウンターに向かわせる。

もし世の中にカウンターというものがなくなれば結婚する奴が増えて少子化に歯止めがかかる。ひとりでいるのは気楽だけれど時にはさみしい。でも街にはカウンターがあってくれるので、さみしくなったらそこに随意に行くことが出来る。何度もそこに行けば覚えてもらえるしこちらもカウンターの中に親しみを感じるようになる。ひとりの人生だけれどひとりではなくなるような気がする。

しかも財布の状態やココロの具合、オナカの加減などで行く店を変えることも出来る。道中する相手もしくは夫や妻を変えることが出来るのと同じことだ。チョット都合がよすぎないかと思うがそれが街の大きな魅力のひとつだから仕方がないのかも知れない。

そしてカウンターでは様々なことを学ぶことが出来る。街の先輩のいるバーで飲ませてもらっていると小さくなれるし、世間における自分の立ち位置もよくわかる。またごきげんな料理や気の利いた肴がある店では、これをひとりで独占するのは勿体ないと思えてきて必ず誰かを誘いたくなる。やさしくしてもらった店に出逢うとそこにいくことが生きている意味そのものになったりする。古今東西、街にはカウンターがありカウンターなしには生きられない人間が無数に存在している。

自分の話で恐縮だけれど(全部そうだけど)、ぎゅーぎゅーに満席の居酒屋で飲んでいて横で飲んでる人えらい顔が大きいなと隣を見れば高橋英樹がひとりで飲んでいたし、別の居酒屋では大物女優がこれまたひとりで飲んでいて、同じくひとりで飲んでいた俺と意気投合した。

立ち飲みの居酒屋では元パリ大学の老教授とも昵懇の仲になれたし、年商2000億円の会社の社長が隣にいて肴談義(特にナマコとコノワタ)を繰り返しているうちに飲み仲間になった。

さらにはどこにいってもカウンターで飲んだり食べたりしているせいで俺はてっさ(フグの薄造り)も引けるようになったし、誰もが絶賛するカクテルソースも作れるようになった。そんなわけで街からカウンターがなくなれば明らかに我々は困る。地団駄を踏むよりも呆然と立ち竦む。カウンター人生か。あー、というしかない。

弱い生き物のためにカウンターはある。

カウンターにはほんとうに長い間、世話になり続けている。子供の頃は家の近くの小さな市場(昭和の頃はマートとかと言ったなー)の中にあったお好み焼き屋のカウンターに座っておばちゃんが焼いてくれるベタ焼が出来るのを小銭握りしめてチョンと待っていた。

中学と高校の頃はカウンターよりもテーブルだった。喫茶店でもお好み焼き屋でもディスコでもカウンターではなくずっとテーブルに陣取っていた。一緒に来た奴やそこで会った奴らと夢中というか必死のパッチで喋らなければならないのでテーブルだったのだろう。話さなければならないこともいっぱいあったし、自分やツレ周辺で何らかの事件が毎日のように起こっていたし、いくら寝なくても辛くなかった頃だ。そんなツバキ飛ぶ熱きテーブルからいつの間にか俺は撤退をした。そしてカウンターばかり座るようになった。

今思うとカウンターばかり行くようになったのは初めて自分の金でスナックへ飲みに行った18歳ぐらいからだ。テーブルで熱く語るよりシラッとしたカウンターにいる方が断然居心地が良かったのか。考えてみるとカウンターというのは様々な使い方が出来るゴキゲンな装置だと思う。ツレと話すにしてもカウンターの向こうにいる人にタマを投げてツレに伝える三角キック的な会話が出来るし、ツレ対オレではなくツレ&オレ対カウンターの中の人という構図もインスタントに作れるし、ツレとオレがそこでそうして飲んでいることの証言者にもなってもらえるし、ツレとオレ以外の人が見ている聞いているということで話し方や素振りやその内容もチョットは洒落ていようとする効能まで付いている。

そんなことまで考えてないけれど今ではカウンターのない店に行こうと思うことはほとんどない。バーでも居酒屋でもラーメン屋でも洋食屋でもカウンターがあったかなかったかを思い浮かべてから行くかどうかを決めている。

けったいな男になった。今やテーブルで人と向き合えない。情けない奴になってしまったのか。俺も自分の中のヘンコリストに載りそうだ。つらい。「あなたがいたから僕がいた」あー、フレーズが今日もまた俺を支えてくれている。

カウンターもあり、駅のような酒場でもある。そんな店で今宵もいきがかりじょう的に。(03年3月頃に書いた)

同じ血液型の人間ばかりがいるような店や、ほぼ同じ体質の奴らがいつも同じようなものを飲んでいる店はよく笑うことが出来て楽しいけれどまったく面白くない。そんな店が面白いと思っているようでは完璧に欲望不足だ。街には何でもあるんだから欲しいもののためにどんどん行かないと結局は何も見つけられずに損ばっかりしなあかん羽目になる。

上の世代の人にも同世代の中でも、たくさん飲み食いして遊んでいる割にスカスカな人がいっぱいいる。それは学習の方向性が間違っているからだと思う。欲を出して、ええカッコして、残念な結果だらけで朝を迎え、気が付けば自己嫌悪のシミがそこら中に散らばっていることに対して、「あーもうこんなことはもうやめよう」ということを学習するならそれは明らかに間違っている。自己嫌悪のシミこそが天使のあがき、もしくは脱皮した美しき蛇の皮。あがくことこそ街で遊ぶ本質。「シアワセはここに」である。

街の酒場のおもしろさは、タイプや目的やノリの違う人間が広範囲に必然的に集まってくることだと思う。それが居酒屋とか夜中のラーメン屋でもいいのだけれど、ガシッとした造りのよりスタンダードで少しだけ洒落た酒場であればあるほど街の文化度は高い。

京都は木屋町の「アルペジオ」。二十年近く前に出来た頃は流行の先端の奴が集まるような店だったが、今ではまるで夜の京都のセントラルステーション。カップル合コン単身赴任、背広とアロハが入り乱れ、芸能人に酒場の女、口説くテーブルありシャンパン攻撃あり、待ち人多しカウンター、始発待ってるナニワの娘。様々な体質の奴がそれぞれの動機でやって来てそれぞれに店と関わっているからこそ、この店が木屋町の王道(さくら湯という京極の銭湯の鏡広告では殿堂だが)たるゆえんだと思う。

酒場では狙ったことが起こるより予定外なことが起こる方が多い。だから何年たってもやめられない。イヤなことや悲しいことが出てきて当たり前。人よりも一歩踏み込んだ奴がそうなるのは自然の理。知人の家に行って嫁さんに気を遣いながら飲むことも修行のうちだろうけど、こんな素敵な街で暮らせているのだから、来る者拒まずの、まるで駅のような酒場で物語の始まりにグラスを傾けるのもいいだろう。

アルペジオ
基本的に木屋町辺りでは何かあったらアルペジオとなっている。ごはん食べの前の待ち合わせからお店が終わるの待ってるわの真夜中や、人数が多い時やボウリングの後など多種多彩な顔ぶれが駅のようにこの店を使っている。料理のバリエーションも豊富にあり、ワインやカクテルも充実してるがお勧めはボトルキープ。スコッチで8000円?焼酎で3000円?。ちなみにこの店の現在のマスターが通称「木屋町の苦労人」である。

京都市中京区河原町通蛸薬師東入ル南側キャニオンテラスビル4F
電話:075-255-1224
営業時間:8:00PM→5:00AM
定休日:無休

2008年01月27日 07:57

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