その10 巨人の星、それが俺をフレーズの道へと導いたのか。

俺が今まで生きてきた中で最も影響を受けた本は間違いなく「巨人の星」だ。まだ俺が小学生の頃に少年マガジンで連載されていた梶原一騎原作、川崎のぼる画の漫画。

今から思えば半ズボンとゴム草履を履いた子供丸出しのくせに毎週水曜日(基本的には発売は木曜日だったと思うが一日早く手に入る売店が当時あった)のマガジンの発売日を必死で待って夢中で読んでいた。

でもその頃の待望の漫画はいつも巨人の星ではなかったような気がする。その頃の少年マガジンには「あしたのジョー」のちばてつやや白土三平や石森章太郎やジョージ秋山や赤塚不二夫など強烈な漫画家が目白押しに連載していたので好きな漫画は巨人の星だけではなかったはずだ。けれどもしかし、今から考えると俺は巨人の星だけに完璧にやられていたのだと思う。

巨人の星は週刊で読むだけではなく、少年マガジンの連載がある程度進めば発行される単行本(KCコミックだったと思う)を買って小学校の高学年から中学生二年ぐらいまでのあいだに何回も繰り返して読んだ。そのせいか「巨人の星」という漫画から出ているフレーズという棘がかなり多く今も刺さったままだが、その中で少年の頃も今ももっとも大きな棘だと感じているフレーズがある。それはオズマという黒人の大リーガーが、入院をしている星飛雄馬を見舞いに行った時のやりとりだ。

優れた野球選手にするためだけを目的として徹底的に球団に育てられてきたオズマが星飛雄馬の病室で「お前は俺と同じ匂いがする、野球ロボットの匂いがする」と言うそのシーンの一連のやり取りに俺は少年の頃から今までやられてきた。これからもそれにやられたままで生きていき一生を終えることになると思う。

ということは「巨人も星」のオズマと星飛雄馬のその病室でのやりとりに左右されて、いやそれを核心として俺は生きてきたのか。そしてその病室でのやりとりから俺はいったい何を見いだしてきたのか。

酒場への道 の前に誰がための鐘「何かを失うことで」(03年3月頃に書いた)

きっと時代の空気は酒場ではないとは思う。岸和田の編集者が「おーイノウエ、酒場のこと書かなあかんちゃうかー」と、のたうってきた時に一瞬そう思ったが、時代の空気が酒場ではないからこそ書かなあかんのだなと思い直した。

酒場は酒飲みあるいは酒好きのためにあるのではない。酒は話の潤滑油でもないし、酒場に頼ることなんか何もない。ではなぜ酒場に行くのか、なぜバーに行くのか。

理由は三つある。ひとつは、自分から「家の中の自分」と「職場の自分」を引くと何も残らなくなるとあまりにもせつないから街のジャングルに行く。そのジャングルにはいろんな生き物がやってくるし、動機も因果も様々なのでまるで図鑑を見るように今の自分がどの種族なのかもよくわかる。

もうひとつは、他に行くところがないからだ。お茶は何杯も飲めないし、一杯で何時間もいられない。酒は飲むほどに支払いも多くなるし、あっという間に時間も過ぎる。そしてそこにはなんらかの目撃者もいてくれる。

そしてもうひとつは何かを失うことでバランスをとりに行っているのだと思う。飲みに行けば失うことばかりだ。お金も時間も愛も失うし頭も体も悪くなる。失言、失態、失禁、失敗だらけだ。けれどもそうすることによって大きなココロのケガから回避しているのかも知れない。チョンチョン、チョンチョン浮いたり沈んだりすることで、あまりカッコ良くはないがいつのまにか非常にゴキゲンな人生を過ごしてしまっているということが起こり得る。酒場がなかったら俺の人生スカスカだ。誰がために鐘はなるだ。

酒場への道 その1「あなたが行かなくても店の明かりは灯ってる」

自分がその店に行っていない時、その店のことなど忘れてしまっていることが多い。けれどもその夜あなたが家にいるその時間も好きなあの店の灯りはいつものように灯っているはずだし、店の中では今夜も見逃せない何か、あるいは空気があるはずだ。そう思えるようになればきっと不必要な夢などを無理して探さなくてもいいようになる。

毎晩そんなことを思うことはないけれどそう思った夜には例え風呂に入ってぼさぼさの頭になっていたとしても、もう一度靴を履いて夜中からでも街に出かけるべし。そこで面倒くさいと思っているようではアホな大人にはなれないと思う。家に帰ったからとか、わざわざこんなことをしてまでなどと思って行きたい気持ちを抑えるのは子供もしくはアホではない大人である。行きたいときに行きたい酒場に行けることこそ酒場馬鹿になるための第一歩である。ひるんではいけない。だから街で暮らしてるのだから。

酒場への道 その2「その店の作法を感じ取れ」

岸和田の編集者は横着である。店で大きな声も出すし、店の人に挑むような発言もするが店の人が玄人だと思えるような店では決して嫌われていない。パリーグの男という街の先輩もババ酔いして団の面目をしょっちゅうつぶしてはいるが店の人達から人気がある。

それはどちらも横着に見えるけれど実は非常に繊細で奇妙な形をした触角でその店のその時の気配を感じ取り、その店に合った作法をすれすれで外していないからだ思う。言葉遣いや飲み方や食べ方の行儀がいくら良くても、酒や料理の蘊蓄をたっぷり持っていても、その店のその時の気配を読めないとお金を払う分だけの満足しか得られない。

そう思うのは決して俺だけではないはずだ。そして読み違えてひんしゅくを買うことや情けない思いをすることも幾度となくあるが、それもまたゴキゲンへのステップであると、奇妙な形をした触角を持った彼らを見ていてそう思う。

酒場への道 その3「辛くてもアホくさくても街の先輩を見つけよう」

このお題目はちと難しい。

だいたい街の先輩を見つけるのは大変なことだし棲息環境も様々でどこかに行けば必ず現れるというものではない。また棲息場所を見つけたとしても近寄りにくいところにいることが多く、保護色であることも多いので非常に見つけにくい。したがってチョット憧れてもいいような勘の持ち主の先輩やそばにいる人を濡らすかのような面構えをしている先輩を街で見つけるにはかなりの授業料、もしくは最悪の夜や最低の出来事を繰り返す必要がある。しかもようやく見つけたその街の先輩はきっとせこいはずだし、またそれを楽しんでいる酒飲みに違いないので先輩探しの旅はアホらしいこと極まりない。たまたま街で付き合い甲斐のありそうな良き先輩が見つかっても授業料はバンバンかかるし街に出る頻度も急激に増えることになる。

それでも俺は街の先輩にこれからもめぐり会いたい。それはその先輩も「こんなことでいいのかいな」と思い続けてきた人物だろうし、その人もまた街の先輩から学んだことがポケットにいっぱい入っているはず。例えアホくさくとも街の先輩はその街の文化そのものだと言っても過言ではない。

酒場への道 その4「酒馬鹿ではなく、酒場馬鹿であるべし」

酒は面白い飲み物だと思う。同じものでもうまいと思える時や何の感銘もおきない時がある。ジョニー・ウォーカーのブルーラベルよりも立ち飲み屋で飲む安物のウイスキーの水割りの方がうまい時があることなんて酒飲みなら誰でも知っているし、そのようなことを経験しているに違いない。

酒飲みとか酒好きとかと多くの人から言われるが残念ながら俺は、酒そのものよりもその時のその場所のその人との酒に魅力を感じてしまう。もうすこし平たく言うと酒よりも酒場だ。酒よりも酒場に魅力があるのは酒よりもわかりにくくてわかりやすくて複雑怪奇で可愛くて奇妙でアホらしくて人に近くて圧倒的に世界が広いからだと思う。

茶道が茶のことよりもその周辺や趣のことを面白がっているのと似ている気もする。けれども「酒場道」などと一回でも言ってしまったらご破算だ。酒場は「道」ではなく「馬鹿」がよく似合う。それに吉幾三は「酒よ」を歌っているが江利ちえみは「酒場にて」を歌っていた。どちらも泣かせる歌だけど。

酒場への道 その5「負けてなあかん」

これは勝ち負けのことを言っているのではない。だいたい酒場や店で勝ち負けという基準を持っている、持ってくる奴はアホである。勝ちも負けるもないから酒場は面白いのだ。

例えば、金があっても酒場では簡単に勝利投手になれない。街の手練れはお世辞という犠牲バントをしてみたり、急にフリーエージェント宣言を勝手にしてその時だけ金持ちチームに入ったり、勝つ可能性が低くなっても高くなっても深酒泥酔没収試合という方向に持って行ったり、野球から将棋や野球拳に変わるように試合そのもののルールや形式を突然変えたりもするからだ。

街の酒場や店には気づいてゴキゲンになる発見やほんの些細なことに一喜一憂出来ることがたくさんある。勝ちたい勝ちたいと思っているとどうしてもそれに気づきにくくなる。だからこそ「負けてなあかん」ということなのだと思う。

2008年02月06日 20:54

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夕べ2時ごろにこんなフレーズを断片的に思い出しながらいた from お気楽日記 (2008年02月13日 09:00)

なぜそうなったかは(謎)・・・・・   ... ...