特別編 「診察室には女医がいた。」

 井上は、今でも医者になりたいと思い続けている。非常に丈夫な体をしていることが災いして、タフな食生活を数十年続けているから医院に行く原因ぐらい生まれてくる。というより、井上は自分を診断する医者の戦闘値、言いかえれば印象や空気、説得力や手際、サービスやホスピタリティーを診断するのが趣味だった。そんな医者マニアの井上が十年前に出逢ったのが、戦闘値の高い女医だった。

診察室には女医がいた。

 約十年前、顔も頭も含めた全身にジンマシンが発生した時、井上はあたふたとして四条烏丸近くの医院へ行った。待合室にサラリーマンらしき背広姿の客が数人いて、ツイードのジャケットを羽織っていた井上は幾分浮いていた。他の客の視線を気にせずにブツブツだらけの顔でベンチに腰をかけ、ブックスタンドに手を伸ばして井上は驚いた。イタリアのヴォーグと週間ベースボールマガジンがあった。他にも雑誌はあったが、ここの医者が野球好きで受付が愛人で、ということだろうと思いながら順番が来るのを楽しみにしていた。十分ほどすると「井上さんどうぞ」という声が診察室から聞こえ、中に入った。デスクがありそこに座っているのは、名前が思い出せないが昔、キーハンターというドラマに出ていた女優のような医者だった。井上は心の中で「オッ」とつぶやいた。医者のそばに立っている看護婦にそくされて女医さんの前の椅子に座った。たぶん40歳前半か中ぐらいと思われるその女医さんを井上は見つめた。女医だから見つめたのではない、患者は医者を見つめるものだ。女医さんは笑顔の中に鋭い眼光して
「どうなさいましたか」と問診した。
「昨日の夜から全身にブツブツが出来まして」
「初めてですか」
「はい」
「カユいですか、痛いですか」
「昨日はかなりカユかったです」
「前日か前々日にお薬のようなものを飲まれましたか」
「いえ、あ、ソルマックを飲みました。けどソルマックはいつも飲んでます」
「食事とかで思い当たるようなことはありますか」
「いえありません」
「体にも出来ているんですね、上半身を見せてください」
「はい」
そんな感じでたんたんとしていたのだが、シャツを脱いで井上が自分の肌を見た時、井上は大阪のホテルの部屋の間取りを思い出していた。
 女医は「ジンマシンだと思うけど原因がわからないので少し様子を見てみましょう」と言って看護婦に血液検査の指示をした。
 井上は女医の首筋を見た。女医は血を抜かれている井上を見て、
「会社員ではなさそうですね。この辺りでお仕事をされているの」と、年下の男的なトーンできいた。井上は年下だったが十も違わなかった。井上は
「かなり酒を飲みます。この一週間ほど特にたくさん飲みました」といった。
「まだわからないけどそれが原因なのかも知れませんね」と女医はカルテに何か書き込みながらいった。そして、
「何をいつも飲まれるの」と、きいた。
「日本酒とワインとウイスキーです」
「お強そうね」と、女医はきいた。
「強いとは思いませんけどよく飲みます」
「毎日たくさん飲めるのってうらやましいわ」と女医はなぜか笑った。
 血液検査が済み、一応、薬を出しておくけど二三日してまたいらしてくださいと言われて井上は診察室を出た。待合室で薬を待ちながら井上はヴォーグと週間ベースボールマガジンの入ったブックスタンドを見て、「よーわからんな」と思っていた。井上はジンマシンが出来ていることなどすっかり忘れていた。
 二日後、ジンマシンはひいていたが、検査の結果を聞くために医院へ井上は行った。待合室のブックスタンドには発売直後の週刊文春と週刊新潮が入っていた。先週号はなく、今週号だけあった。そのブックスタンドに入っている雑誌や週刊誌を見て、医院が本屋からとっている感じがしなかったので、井上はここにある雑誌と女医となんらかの関係があるのだろうと思いながら自分の名前が呼ばれるのを待っていた。順番が来て、診察室に入ると女医は前回よりもきれいな化粧をしていた。井上にはそう見えた。
「血液検査の結果、どこも悪くないようですね」と女医は言った。井上は黙っていた。
「井上さんジンマシンは引いたみたいですね、上半身を見せてください」女医が体を見て
「あれっ、これはなにかな。虫さされ?」と言った。
「え、これですか?」
「この赤くなってるの?こことここと、ここにも」
と言いながら女医は井上の肩に出来ている赤い発疹を指さした。
「ジンマシンではないようだし」と言いながらカルテに目を落として
「もう大丈夫ね」と井上を見ずに言った。
井上は医院へ来る直前に、右と左の肩を各二ヶ所ずつ自分で思い切り吸って血がにじむほどのキスマークを作っていた。
 井上は女医をからかうためにキスマークを作ったのではなかった。井上は自分の体を吸うのが好きだった。それを女医に知らせたかった。医院に向かうほんの数百メートルの間、井上は女医と何かが始まる予感がしていた。女医も多分そう思っていると井上は思っていた。
「またなにか変化があればお越しください。飲み過ぎないように。」女医はそう言ってまたカルテに目を落とした。
 医院から出て井上は一週間ほど前に一緒に飲んだ真智子に電話をした。女医は診察室で次の患者を診ているのだろうと思うと同時に誰かに電話をしていた。真智子が6時半なら行けるけどというのを聞いて井上はどこかにいるから時間があいたら電話をしてくれと言って電話を切った。

京都人は北東を目指す。

 水曜日の午後3時過ぎ。京都人は目的がない時、北東を目指す。井上も例外なく四条烏丸から東へ向き、大丸百貨店に入り、化粧品売り場を通って北口から出て、そのまま錦市場に入って東へ向かう。理由もなく富小路で市場を出てまた北に向かう。三条のイノダコーヒ。寺町の喫茶スマート。河原町六角の駸々堂。その三軒が頭で交差した。今日のスポーツ新聞はもうすでに読んでいたことを思いだし、六角通を東へ向かった。歩きながら自分と女医がもう一度会うためのボールを彼女は持っていない、自分が持っているのだと思うと世の中が気味悪く見えた。井上は駸々堂を通り過ぎて河原町の信号を渡り、「ハマムラ」に入った。
 午後4時のハマムラは静かだった。井上は河原町の雑踏が窓ガラスの模様のない部分から見える窓際の席に腰を下ろした。何かを食えば、あとで真智子と会った時に困るなと思いながらお茶を持って来てくれたミスターハマムラに紹興酒とピータンを注文していた。井上はビールが嫌いだった。嫌いだと言って格好をつけているのではないよ、飲んでいると胃が気持ち悪くなるだけだ、ということをいつも井上は誰かに伝えたかったが、伝えることにもそれを聞くことにも何の意味があるのだとも思っていたので誰にも伝えることが出来ないでいた。
 紹興酒を飲んで河原町を行き交う人を見ながら、真智子に電話をしたことがイヤだった。なぜ電話したんだろう。一緒に寝たいからか。違う。裸を見たいからか。違う。キスをしたいからか。違う。じゃあなんだ。なんで会わないと行けないんだ。何を求めたんだ。紹興酒の入ったグラスを上げ下げする1ストロークのあいだに井上はそれを考えていた。井上は会うことが目的というのが許されなかった。だからそれ以外の目的、自分が電話をした動機を懸命に見つけようとしていた。そしてテーブルの上のピータンが目に入った時、井上は聴診器を持った女医の指先と睫毛の長い目がまた浮かんでいた。

用意されていた膝下の映像。

 俺は気色悪い奴か。井上はそう思う瞬間に、一週間前に横に座っていた真智子の膝下の映像とすり替えていた。井上は自分が好まないことを考えた瞬間に別の映像を脳裏に移すことで自己嫌悪スパイラルにはまらないような術を子供の頃に会得していた。スクイズを感じた江夏が投球動作の最中にボールを外すのと一緒か。いや、そんなたいそうなものではない。まあどっちでもよい。とにかく井上は真智子の黒っぽいスカートを思い出していた。
 2本目の紹興酒がなくなったので井上はハマムラを出た。これ以上、空腹のままで飲んでいると真智子が来るまでに酔ってしまう。まずい。だらしない。そう思ったのだった。井上はハマムラを出て。河原町通りを挟んで向かい側の駸々堂に行くつもりだったが、5時になっていたので北に向かって歩き始めた。
 タバーン・シンプソンへ5時過ぎに入ったのは久しぶりだった。階段を上がり、ドアを開けるとまだ客はいなかった。ちょうどその時、真智子から電話がかかってきた。
「井上さん今、用事が終わってしもたんやけどどうしたらいいー」
井上は別の映像を探した。

真智子は二度目の顔をしていなかった。

 真智子の声は膝下だった。黒いスカート、見え隠れするふくらはぎ、暗くなっている足首。声の主はそれだった。井上は、もう今日はひとりでだらだら飲みたいと思ったが、口からは
「ほな6時にロイヤルホテルのバーで待ってるわ」と、返答していた。
 井上はタバーン・シンプソンのカウンターに座り直してウイスキーの水割りを注文した。もう飲みたくなかった。もう堪忍してくれと思っていた。まだ客がいない店にはハワイアンがかかっていた。マスターが
「お、今日は早いね、ひとりなん」と話しかけてくれたので
「夕方に寄せてもらうの久しぶりですわ」と答えながら目の前の水割りが億劫だった。濃いめの水割りを二杯飲んだだけで、井上はやる気ゼロだと呟いていた。

 烏丸の女医の医院は7時までだったなと思い出していた。彼女は医院を出てどこに行くのかと思いめぐらしていた。グラスの中の水割りはすぐになくなっていく。またジンマシンが出るのだろうか。今度は叱ってくれるのだろうか。女医とはレストランで3本はワインが飲めそうだな。井上は女医との夜で頭が一杯になっていた。気がつけば6時5分前だったのであわてて勘定をしてもらい隣のロイヤルホテルへ向かった。
 一階のバーヘブンに入って見回したが真智子はまだ来ていなかったので二人がけのテーブルに座った。井上はここではカウンターに座るのが好きでなかった。ドライシェリーを注文した瞬間に真智子が立っていた。井上は同じものをもうひとつとウェイターにすぐ伝えていた。
 真智子はきれいだった。井上は5分前までの井上を置き去りにした。真智子は黒い服を着ていた。真智子は、会うのが二度目の女の目をしていなかった。

目と口元と指先のトライアングル。

 「ドライシェリー注文したよ。飲めるやろ」と井上は言いながら真智子の視線をそらした。二度目の女と二秒以上視線を合わすのはきれいではない、ということを井上はいつのまにか身につけていた。真智子と話さなければいけないことなどなにひとつない。お互いの目的は誰かと一緒にいたいこと。ただそれだけだと思いながらも井上は、真智子が恋人になればどうなるかを一瞬で考えていた。
 ドライシェリーが二つ届いて、テーブルから少しグラスを持ち上げた瞬間にほんのわずかにグラスを相手の前に出した。それが乾杯のつもりだった。井上は、「おなかへったなあ」と言いながら真智子の目と口元と指先のどれかに目をやりながらドライシェリーを飲んだ。真智子のドライシェリーの減り方を見ながらもう一回シェリーを口に含んだ。もう一杯俺が飲むあいだに真智子のシェリーがなくなると井上は思ったのだが、二杯もシェリーを飲む気にはなれなかったので一瞬躊躇したあいだに真智子のグラスもカラに近くなっていた。井上は「ほないこか」と言ってまた真智子の目と口元と指先をトライアングルに見た。
 ロイヤルホテルを出て、行き先も決めていなかったが北と東に向かって歩いていた。「なんでも食べられるかあ」と歩きながら言って返ってくる答えもほぼわかっていた。木屋町の御池を北に向いて歩いていたが、タクシーが通ったので急に止めて、四条花見小路と運転手に伝えていた。6時過ぎだから「安参」に行こうと思ったのだった。タクシーが動き出してから井上は真智子に生肉好きかと聞いた。「好きやで」と答えた真智子の膝を井上は見ていた。真智子の膝はごく普通だった。ごく普通。安参のカウンターが目に浮かんだ。
 タクシーを花見小路の末吉町辺りで降りて、安参まで歩く細い道で「今日は酔わんとこな」と井上は真智子の目を見て言った。真智子は「わかりましたー」と語尾をのばした。井上はそれがおもしろくなかった。女医なら「酔ったら帰るわ」と言うてたかな、などと思いながら井上は安参の暖簾をくぐった。

肌の臭い。

 午後6時開店の店なのに6時15分過ぎにはほぼ満席だった。おかみさんが「こんな時間に珍しいやん、仕事してきたん」と言いながら真智子をちらっと見た。井上は「ぬる燗ふたつ」と注文してカウンターの上のネギとカラシを手元に寄せながら真智子に「今日は生レバから食べられるわ」と言ったが真智子は何のことかわからないといった顔をしていた。
 生レバはうまかった。井上はコップのぬる燗を半分ほど飲んだ。真智子は井上の食べ方や飲み方に付き合おうとしていた。そしてこの生レバおいしいと言った。
 井上は真智子の舌が生レバとからんでいると思うと会話を忘れた。女医も忘れた。井上の頭の中では岡林信康が30年ほど前に歌っていたツバメという歌のフレーズがまた流れていた。
「もうーずいぶんーながいあいだー見ることはないがー 遠い日のー僕の街にはーツバメがとんだー。」岡林の歌だ。
 二杯目のぬる燗がなくなる頃、二皿目の生肉がなくなろうとしていた。井上は真智子に、
「今日ジンマシンを診てもらいにお医者さんに行ってきたんやけど行く前に自分で右と左の肩を思い切り吸うてキスマークを何個もつけていってん」と言った。真智子は笑いながら
「なんでそんなことすんのん、お医者さんどういうたはったん」と井上の指先を見て言った。
「お医者さんのサービス精神を試そうと思たんや。俺は患者としては一線級やし」
「患者の一線級て」
「あなたがいたから僕がいたー、ていう郷ひろみの歌があったやろ。俺は医者になりたかったんや」
「いのうえくんがお医者さんやったら流行んちゃう」
「肌の匂いを鼻で嗅いで診察するねん。画期的やろ」
「気色わるー」
「そんなんではわからへんかもしれんけど、サービスとしては抜群なんちゃうかなあ。俺が患者やったらそんなことする医者に感激するけどなあ」
「なんで感激するのん」
「あほやなー、臭いのもいとわんと、このお医者さん私のために臭いでくれてはるとおもうんや」
「私やったらいややわ」
「ちがうて。絶対その医者を好きになるて」
「いのうえくんが臭ぐんやろ、絶対いややし」
真智子がそう言った時、井上はめくるめく肌の匂いが蘇った。

2009年02月13日 17:04

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