特別編 街の礼儀作法?街の手練れたちは知っている。

「そうするのが礼儀なんだよ」というような人は、おそらく街の醍醐味やたまらなさをあまり知らずに暮らし、これからもあまりそれを感じることなく過ごす人だと思う。

礼儀作法というのは、無駄な時間や無用なストレスを起こさなくさせるためのものであり、ただそれだけのことで、崇めたてるようなものではない。そんなことを意識して縮こまるよりも、いわゆる街や店での礼儀作法的なものがなぜ出来ることになったのかを、カラダとココロと財布を痛めながら探りに行こう。

そしてそれを身をもってしてわかった時にこそ、「あー、たまらん」という街の醍醐味を感じることが出来るので、他人や雑誌などから情報を得て礼儀作法的なものを知った気になるのは、とてももったいないことだ。

それに自分のカラダとココロと財布で会得したものは、あとから充分すぎるほど元が取れるので何も臆することなんかない。

例えばウイスキーの水割り好きの俺は。

グラスの酒がカラになるまでおかわりを注文しない。それは、出されたものはきれいにするという行儀の良さではなく単に酒が勿体ない(5杯で1杯はうく)からだ。

また、一杯ごとにグラスをチェンジするバーだったら酒がカラになる前に必ず注文するのも、バーテンダーに気を遣って早い目に注文しているのではなく、酒の入ったグラスが目の前にないとさびしいからだ。

居酒屋では必ずカウンターに座る。食通や常連だからではない。カウンターに座ればうまそうなものを発見出来るし、料理の現場の風景を肴に出来るだけでなく、何よりも徐々にわがままを聞いてもらえるようになるからだ。だいたい俺は、わがままを言えるようになることほど街でのゴキゲンはないと思っているし、それがさりげなく出来る人にかなりの憧れを持っている。

街の手練れ達は。

わがままをスマートに行っている。それはそれぞれに異なる街や店の空気を微妙に嗅ぎ分け、行儀よくかわいらしく通いつめ、少しずつ少しずつ小さなわがままを積み重ねながらこじ開けてきたのでスマートに見えるのだと思う。いきなり「あーしろこーしろ」とは決して言わないから、スマートにわがままが出来ているのだ。

俺がよく行く先斗町の居酒屋で、ヒラメか目板カレイの薄造りを食べたあとのポン酢に薬味のネギをエンドレスに足してもらい、それをあてにして酒を飲み続ける親父がいる。祇園の生肉屋では、いつもおかみさんが立たれる近くに座って、品書きにないものばかり食べさせてもらっている親父もいる。やっていることはハッキリ言ってメチャメチャだが、街の手練れには妙に色気やかっこよさを感じてしまう。

それは俺だけがそう思っているのではない。街の手練れ達は、店の人や女の人からよくモテている(だから俺も憧れている)。話がうまいからではない(なにを言うてるのかわからない人が多い)。もちろんカネのあるなしではない(基本的には勘定に細かい)。

俺が憧れる街の手練れな人たちに。

共通しているのは、店やほかの客などにノイズを出していないことと、負けて似合う顔をされていることだ。ノイズを出していないばかりか、その店の風景に溶け込んだり、影さえ消せる術を持っている人もいる。けれども、まわりの笑いや話題に合わせたり同調したりすることはない。店の空気やまわりを意識していることほどアホらしいことはないし、それが不細工だということを手練れたちは知っている。

表情も忙しく変えるようなことはしない。うまいものを食べても大げさな表情などしないけれど、顔をあまり動かさずにココロを表現する術を持っている。しかも泣いているとも微笑んでいるともとれる表情をしているので、見ているとなぜかとても心地よい。こちらが泣きそうな時には「俺も泣いてるよ」な顔に見え、イライラしている時には「もう好きにしてください」と伝わってくる顔に見える。 

まさに手練れだ。街のお地蔵さんだ。

そうなりたい。そしてそうなるためにはこれからも、カラダとココロと財布を痛めながら街で鍛錬しなければならない。あー、遠く険しい道のりだけど、行かねばならない街のため。あー。

2009年04月08日 22:25

このエントリーのトラックバックURL

http://www.140b.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/519

Listed below are links to weblogs that reference

特別編 街の礼儀作法?街の手練れたちは知っている。 from 140B劇場-京都 店特撰